エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神様がくださる優しさ

2015-05-31 08:13:30 | アイデンティティの根源

 

 本物は、嘲りを浴びるようなところから、生まれる場合が多い。祝福の中で生まれるものと言ったら、赤ちゃんの他は、偽物が多い。

 Young Man Luther 『青年ルター』p203の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 詩篇講義が「詩篇」第71篇2節まで来た時に、ルターはまた、「あなたの義をもって、わたしを救い、助けて下さい。【「詩篇」第70篇2節の関根正雄訳】」に出くわして、またもや「わたくしに向かって、ヒヤ、ヒヤと言う者が / その恥辱の故に退かんことを。」(「詩篇」第70篇4節【関根正雄訳】)が先にあります。でもね、ルターの雰囲気、ルターの言葉遣いがすっかり変わっちゃいました。ルターは「ローマ人への手紙」第1章17節(塔の啓示の時の聖句)を2度ばかり引用し、「Justitia dei...est fides Cntist  キリストの≪真≫こそ、神が下さる優しさです」という結論にたどり着きます。

 

 

 

 

 

 この「詩篇」第71篇まで来て、ルターはようやく気付いたんですね。「神の裁き」と言う一見怖そうなことが、実は、深ーい憎しみをも癒す、優しさで満ち満ちているってことに。それは「天にも昇る悦び」そのものだったでしょう。

 これに気付いた者は、エリクソンが言う通り、「雰囲気や言葉遣いまでもが、すっかり変わっちゃう」ことになります。

 

 

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朝の挨拶

2015-05-31 06:45:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「礼拝」ritualizationは、≪私≫という感じ a sense of "I"が育つ舞台だから、大事なんですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p43の下から2行目から。

 

 

 

 

 

 ジェー・ハックスリーとケー・ローレンツがイキイキと描いた、動物達の「礼拝」と対応するような、毎日のやることを選ぶとすれば、人のお母さんが、目覚めた自分の赤ちゃんに挨拶しようとして近付くことを思い出しますね。あるいは、同じお母さんが、自分の赤ちゃんにおっぱいを挙げたり、オシメを取り換えたり、あるいは、寝かしつけることを思い出しますね。それでハッキリしますね。私どもが人間の文脈で「儀式をする関係」と呼ぶものは、極めて個人的である(その特定のお母さんと、そのお母さんの赤ちゃんになった特定赤ちゃんに「特有」のものである)と同時に、外から見ているものにとっては、人類学的な比較に従えば、伝統的な道すじに沿って、ハッキリと典型的であると見えます。

 

 

 

 

 

 人間の「礼拝」とは、2人の間では、その人たちに特有の、独特のものね「私どものやり方です」と言い得るものなのに、日本人なら日本人、関西人なら関西人に典型的なやり方にもなっている、そんなやり取り、対話が、「礼拝」と言えるんですね。

 自分の日常をよく見れば、「礼拝」はすぐに見つかりますよ。そして、その「礼拝」を意識して実行することが、何にも増して、大切です!

 

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対話のない教育

2015-05-31 04:15:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 高橋源一郎さんが、朝日新聞に月一度書いている「論壇時評」が一冊の本になりました。『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書514)。独特の切り口で、民主化のために、大事な点を指摘してくれることが多いので、私は毎月愉しみに、最終木曜日の朝刊を待っています。

 早速Amazonで取り寄せて、パラパラと読んで見ました。その一節に「対話のない教育」という件が出てきましたので、今日は教育について日ごろから考えていることの、ほんの一部を書いてみようと思いました。

 それがまさに「対話のない教育」です(p114-118)。これを読んで、言語矛盾だと分かりますでしょうか。対話がない教育などは、ありえないからです。このあり得ないことが、日本の「学校」では、残念ながら、大手を振って歩いてんですね。ですから、狂気のアベシンちゃんが登場する以前から、常軌を逸した「教育」が日本の学校にはありましたし、ご承知のように、今もあります。

 教育とは、エデュカティオ、「引き出す」という意味ですし、学校とは、スコレ、「暇」→「遊び」という意味ですね。ですから、教育とは、自由な場で、遊び心を持って、愉しい感じでやるものですし、それはやり取り、対話の中で、子どもの、大人のポテンシャルを引き出しあう関係が大事になりますからね。

 対話のない教育などあり得ません。しかし、「お役人になった教員」は、これしかやんないですね。この前、当ブログで取り上げた、子どもに「ルールを当てはめる教員」です。眼の前の子どもよりも、ルールが大事になっちゃってんですからね。お忙しいのでしょう。子どもの話をいちいち聞いていたら、きりがないから、ルールを当てはめと、サッサと「お仕舞い」にしないと、授業も、行事も、生徒指導も進まない。実にお忙しい。

 「ちょっと待って!」。

 

 

 「あなたは、何のために、授業をしているのかなぁ?」

 「あなたは、何のために、行事をしているのかなぁ?」

 「あなたは、何のために、その生徒『指導』をしているのかなぁ?」

 

 こういう問いを忘れると、教師は、教師であることを止めて、「お役人に成り下がった教員」になる訳ですね。 

 今の学校では、そういう人が「立派」とされるますから、ますます、常軌を逸してます。一度「常軌を逸する」と、ますます「常軌を逸する」方向に、転げ落ちる。

 私どもに必要なのは、「常軌を逸している」ものを「常軌を逸している」と感じる心ですし、それをハッキリ、パレーシアに言葉にする勇気でしょう。

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全ての人を育むやりとり 改訂版

2015-05-30 12:03:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ほとんどの日本人は、いまや「礼拝」とは無縁な生活をしてますから、「礼拝をする関係」と言われてもピンときませんね。このブログをきっかけに、ご自分で考えてみてください。「礼拝をする関係」とは何か? と言う問いに時間をプレゼントしてみてくださいね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p43のブランク下の12行目途中から。

 

 

 

 

 

 私どもの用語「儀式をする関係」とは、幸いなことに、あまり気取りがないし、一人の人の文脈で言えば、普段のやり取りなのに、決まったやり取りで、まさに、2人以上の人が、意義深い間を置きつつ、定期的に繰り返すやり取りの事なんですね。こういったやり取りは、(少なくともそのやり取りをしている人にとっては)「これは、私どものやり方です」ということそのものですし、そのやり取りをする人たちすべてにも、その集団に属する人たちにも、その集団に馴染むうえで値打ちがあります。なぜなら、この「儀式をする関係」と呼ばれるやり取りは、人が生まれた時から、人間関係を育む時、育ちの舞台上で、何に力点を置くのが良いのか、を明確にし、導くものなんですからね。この、何に力点を置くのが良いかは、人が馴染んで生きていくためにしなくてはならないことですが、それは1つの動物の種にとって、本能が自然に馴染むためにすることの代わりになるものなんですね。

 

 

 

 

 「儀式をする関係」とは、社会的な動物がやる系統発生的な「儀式のような」行動が本能に埋め込まれたものであるように、人間は本能に埋め込まれたわけではないけれども、他の動物なら本能がやることと同様な重要な働きをするものなんですね。その意味するものは、そのやり取りに関わる人全てが育つために役立つ関わりであると同時に、その集団が育っていくために役立つやり取りなんですね。

 エリクソンはこの「儀式をする関係」を明確にしたいと考えているときに、ライフサイクル・モデルに気付いたんですね。ですから、これが分かると、分からないとでは、天地の差がある、という訳ですね。

 

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本物の目印 改訂版

2015-05-30 09:37:48 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、深ーい憎しみを抱いたおかげで、文字通り、「天にも昇る悦び」を体験できました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p203の第2パラグラフ下から6行目途中から。

 

 

 

 

 

私どもはこの点に戻って来るのは、ルターがキリストと共にあることによって自分を確かにさせたことを議論する時としましょう。というのも、「詩篇」記者が敵についてこぼしたのを見れば、私どもは、キリストが十字架で処刑された場面を思い出しますからね。キリストもまた、嘲りの中で囚われて、神の子であると証することになったでしょ。「あいつは神様を信じてんだってよ。そんなら、その神様に助けてもらえよ、もしも神様がお望みならばなぁ。あいつは『俺様は神の子』って言ってたんだからよぉ」と「マタイによる福音書」第27章43節に出てくるようにね。

 

 

 

 

 こういうところを読むと、フロムが≪真の関係≫は「損すること」と切っても切れない、と言ってたことがよく分かりますね。

 

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