「子どもをダシに使う学校」。
形容矛盾でも、言語矛盾でもありません。学校が子どものためにあるんじゃなくて、教員が私物化している学校です。そういう学校で「立派な教育」が果たしてできますでしょうか? できる訳ない。
先日、重たい心理的課題がある子どもが、問わず語りで心理面接を求めて来た。それで、心理面接をすることになったのに、学校がそれを邪魔する。信じられますか? そのことで相談しようとしているところに、低学年の子どもをダシに使って、「遊びのオジサン、遊びましょう」と教員が言わせに来る。
そういう学校で流行るもの。派手なポスターや立派な名札。ウソとゴマカシの象徴です。表面では、歓迎を装うけれども、実は邪魔者扱い。相手とやり取りをするんじゃぁなくて、コントロールしようとします。心理面接に抵抗を示すのは、自分のコントロールが及ばないところを、学校の中に作りたくない、という身勝手な思い込みが、子どものニーズよりも優先するからですね。こちらはウソを見抜くのが商売なのにね。それはちょうど大人のウソに子どもが敏感なのに似ています。学校という看板に偽りあり。実体は教員互助会。
学校は、少なくない数の学校が、こういうウソとゴマカシの組織になってますね。大川小学校だけじゃないんですね。
その時必要なのが、本気です。