エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#胸いっぱいの歓びを生きる

2020-02-29 03:24:02 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)
 
#過去は強烈に現在に食い込む #過去は超自我を召使にするから  #自由になる戦略

 #トラウマ理論 #遊び #新しい人になる源となる 現世考: 津久井やまゆり園の犯人は発達トラウマ障害(DTD)    オバケと蝋人形   相応しくない者もいただけ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。

    Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から。

  p.46のブランクから。

 今朝は,p.49の,第2パラグラフの20行目から。

 

 シカゴのシンポジウムで,ルネ・スピッツは,自分とデンバーの仲間たちの最近の観察と考察について報告してくれました。それは赤ちゃんの中で,実感が体得底で最初に生まれる時の,視覚の役割に関する報告でした。視覚のギフトは,他の五感,味覚・聴覚・嗅覚・触覚から得るお知らせを味わう時に最初の役立つことにある,とスピッツは教えてくれました。「視覚は,赤ちゃんが育つ世界,そこはもともと,聖書の神様と共に見る見方が支配的でしたのに,その赤ちゃんが育ちの世界の中に,新しくて,人生を左右する,聖書の神様に背く見方をもたらします。聖書の神様に背く見方のおかげで,その子どもは時間も空間も永遠に続くと思うようになります」。スピッツが言うのには,3か月までの間に,赤ちゃんは見てわかることが育って,一纏まりの景色を覚えていられるまでになる,ということでした。つまり,その赤ちゃんが見た景色が,いまここで,口が満足したことや五感が満足した,生かされている歓びと一体となって,いつまでも続きます,ということでした。つまり,赤ちゃんが目で掴み取った様々な景色は,口周りや五感が満足して,赤ちゃんが実感した生かされている歓びと一体となり,いつまでも続く,という理に適っていますし,聖書の神様の生き方にも適って,不動にされた,その判断には,聖書の神様からの力があるのです。赤ちゃんが実感した生かされている歓びは,おっぱいをもらうこと,抱っこしてもらうこと,肌と肌が触れ合っていること,お尻をサッパリにしてもらうこと,「聖書の神様のいのちが一巡する結界にピッタリとはまり込むこと」からくるんです。このように,様々な場面でお母さんが赤ちゃんよりも下に立ってくれるお陰で,お母さんの顔は,赤ちゃんの探している2つの眼に「光をプレゼントする」ことになります。そのようにして,その母親も,私は私の赤ちゃんの「聖書の神様のいのちが一巡する結界」にピッタリな最初の相手になれた,と腑に落ちることができます。それに,赤ちゃんが2つの眼を見開いておっぱいを飲むと,オッパイをしゃぶりながら,お母さんの顔をじっと見つめるものでしょ。このようにして,赤ちゃんが眼にしたものが,感覚とアタッチメントの場を纏めるために、出す時だけでなく受け容れる時に道しるべになる最大の物差しになります。その最大の物差しは,赤ちゃんが「1人のお母さん」と触れ合うことによってメモリがつけられているんですから。これがなるほど本当だと信頼するには,視覚によって確かになるものを数えあげるだけで足りるでしょう。時間が同じである物事と,同じ空間が続いていること,ずっと残るのは聖書の神様に心から歓んで従うことですし,共に居ることが溢れるほどの恵みであると心底分かること,身近に見える姿と背後にある違いを超えた一体感,パートナーが不動にされ自由にされる結界の中で,ピッタリの人が,パートナーの息に自分の息を合わせると,一心同体に成れることにこの世を超えて感動すること,これら全てが一体になるのは,聖書の神様みたいに「とっても善いよ」と認める人が,願った時にはいつでも共に居てくれることで、初めて実現します。これは,のちのち,単なる事実を包み込む「なるほど本当だね」と実感する実感の大元になります。まもなく,聴く力が不可欠で役立つ力になるのは,自然の成り行きです。それは,眼には見えいな世界のことを教えてくれるからですし,聴く力は,「曲がり角の先」からあの嬉しい声が聴こえてきますし,馴染んだお母さんを確かめることができますよ,という希望を強めてくれます赤ちゃんの時期に,お母さんの姿が見えるし,お母さんのの声が聴こえるという,母親を二重に徹底的に心いっぱいに味わうことが,いつも大事だと分かるのは,お母さんが赤ちゃんを唯一の名となる呼び名で声を出して何度でも「繰り返し善しと認める」ことになるのと同時に,名付けたお母さんが,赤ちゃんを認めてくれる人として赤ちゃんから繰り返し善しと認められることを心から歓ぶからです。(訳注:エリクソンの奥様)ジョアン・エリクソンが言うように,「人生は,眼差しによって,繰り返し,始まります。…触れ合いが心から大切にすることになるのも,バラバラでいると激しい怒りになるのも,眼差しと関係します。大人になっても,このように眼差しが物を言うことに変わりはありません。と申しますのも,生涯にわたって,私ども人間が仲間内で他者といろいろとやり取りするのは,眼差しに温もりがあるからでしょ。お母さんから見られることに始まる眼差しは,恵みですし,同時に,呪いです」。

 知ることと実感が一体で育つこの場では,眼差しの力は,申し上げて来た2つの意味でハッキリと現れます。つまり,事実だと分かったことを完熟した五感を用いて,あらかじめ善く理解すること,しかし,そればかりではなくて,十分に繰り返してもらったと分かったことは,もう一度手に入ると信頼することです。

 それにしても,こういうこと全ての遊びに何の関係があるんでしょうか? ヘインツ・ワーナー・レクチャ―で,ブルーナーが述べたことは「赤ちゃんは,感覚器官を通じて,感覚器官を使って,感覚器官を使って動かす力をはるかに超えた心の習慣を生み出します」ということでした。その結果「最初に関わってくれた人と一緒にならなくても,赤ちゃんは長い間その人を良く見ていますから,その場になれば,おのずと,最初に関わってくれた人の関わり方に身を入れることになります」って。眼差しが一番大切なことをスピッツが強烈に主張してくれたおかげで、私は,ブルーナーが魂に火を点ける苦心の実験を描いてみましょう。すなわち,生後半年の赤ちゃんは,おっぱいを吸う力と結びついていますから,おっぱいを吸う力は,聖書の神様のいのちが一巡する場になるか否かで,寝ぼけた絵か,ありがとうと言いたくなる絵を,母親の顔に書くことになります。ブルーナーは「人間は赤ちゃんの時から,善い相手を見ると,見ることに集中して,ハッキリと見えますから,おっぱいを吸うのを忘れるほどですから,新生児が心底求めるニーズは,パンや慰めを求めるニーズだけじゃないことが分かります」と話を纏めます。

 自明の理として申し上げるのは,赤ちゃんが五感,特に眼差しを使ってめぐり探している,ということですし,繰り返し見失って繰り返し見つけた相手を繰り返し大切に思うことが,「2人が夢中になる」最初の大切な関わりになる,ということです(この「2人が夢中になる」最初の大切な関わりは,いないいないばあっ みたいな遊びになります)。この「2人が夢中になる」最初の大切な関わりは,笑顔の王冠で輝いています。それは,生後12週で,お母さんの顔という「天国の印が顕現する場」に立たされてハッとするからこその,輝く笑顔の王冠です。もちろん,赤ちゃんの輝く笑顔の王冠そのものが,お母さんが子どもに気付き,心から大切にしたいと思う(recognitionのあらゆる意味で)点で,唯一無二の誘い水になります。自由な大人になった者が子どもに気付き,心から大切にしたいと思うのは,新生した者だけがもたらしうる思いです。なぜならば,輝く笑顔の子は,その笑顔に接した大人が,自分が聖書の神様のいのちが一巡する中にあり,新生した、と実感することに役立つ力がありますから。

 そして,いつものようにピアジェさんの登場です。(訳注:ピアジェさんの代表作)『子どもの中に実感を育てること』の冒頭で,「ずっと残るものからできている世界は,…死と再生を繰り返すことなく,因果の法則に従う時空です。ですからね,世界は,確かに外にある,唯一の世界になりますし,その外なる世界の中で,あらゆる言葉がある中で,人は自分をのことを固有名詞で呼びます」とピアジェさんは言います。是非心に刻んでおいてほしいことは,理性の塊であるピアジェさんの議論の真ん中に,「死」と「再生」という実存的な言葉が不意に見つかることです。私ども夫婦は,これを最大限生かしましょうね。と申しますのも,赤ちゃんのことで描き出していることは,人間が自分のスピリットをイキイキと生かしたいと願うのは人間の最深欲求からだ,と私は信じているからなんです。あるいは,もっと創造的に申し上げれば、私どもが見て「手で触れる」ようになった事実に意味をもたらす実感にとって,キリストの「死」と「再生」は,根っこにあることです。心にどんなイメージを抱くかという心の習慣にとっても、キリストの「死」と「再生」が根っこにあります。このキリストの「死」と「再生」が根っことなった心の習慣のおかげで,人間は,全ての創造発達の舞台,すなわち,生涯にわたって,聖書の神様の心から優しい思し召し通りに創造発達する中で,シャローム心からの平和を,繰り返し確実に実感することができます。つまり,爪弾きにされ,相手にもされずにいるよりも,生かされている実感が胸いっぱいに満たされる中で生きたいのです。

 

 

 キリストの「死」と「再生」こそ,生かされている実感が胸いっぱいに満たされる中で生きる源です。

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#自己愛 と #人類愛 #声に聴き従う者

2019-06-30 08:55:27 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)
 
#信頼 #キリスト母親赤ちゃんと一巡 #いつまでも残る宝物
 エリクソンの叡智:  #アクチュアリティ #カイロス #永遠のいま #温もりに満ちたやり取り    発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆g......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
 をご参照ください。

 不思議な導きの中にある,まとめ学習の都合により,エーリッヒ・フロムErich FrommのThe Art of lovingから,p.58の後半のパラグラフから。

 

 自己愛に関する様々な考えは,マイスター・エックハルトが自己愛について語っていることを引用するが,一番善いまとめになるでしょう。「皆さんが自分を心から大切にすれば,自分以外の人類皆を,自分を心から大切にするように,心から大切にするようになりますよ。1人の人を,自分を心から大切にするように,心から大切にする限り,自分だけを心から大切にすることで,ことが収まるはずがありません,むしろ,自分も含め,人類全部をおんなじに心から大切にするならば,人類皆を1人の人として,心から大切にすることになりますし,その1人の人は,聖書の神様であると同時にただの人でもあります。このようにして偉人にして義人は生まれますが,偉人であり義人である人は,自分自身を心から大切にすると同時に,人類みんなを平等に,心から大切にします」。

 

 自己愛は,本来なら,人類愛に発達します。

 しかし,今のニッポンみたいに,心と手と時間を赤ちゃんのために惜しみなく使う母親が皆無に近い場合,自己愛が自己愛のまま,自己中のまま,ペストのままです。

 心と手と時間を赤ちゃんのために惜しみなく使う母親がほぼ皆無なのは,聖書の神様,仏陀,アラーの神,宇宙の法則,真理,ダルマ…に畏敬の念を失って,その声に聴き従う人生の習慣がないからです。

 ニッポンでは,自己愛というベストが,発達トラウマ障害というペストをニッポン中にまき散らしてしまっています。

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#自己愛 #ペスト  #発達トラウマ障害パンデミック

2019-06-29 06:37:48 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 
#神の前で神と共に神なしに生きる #互いに大切にすることを回復 #人生の習慣となる心の地下層
 #イメージの治癒力+ #守りの枠組み = #発達トラウマ障害の治癒(DTD)?    発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
 をご参照ください。

 不思議な導きの中にある,まとめ学習の都合により,エーリッヒ・フロムErich FrommのThe Art of lovingから,p.53のブランクから。

 

 自己愛

 人を大切にする思いをいろんな対象に当てはめることに,異論は一つも出ないでしょうけれども,他の人たちを大切にすることは美徳ですが,自分だけを大切にすることは悪徳であるというのが,広く信じられていることでしょう。自分だけを大切にすればするほど,他の人たちを大切にせずにホッて置くからでしょうし,自己愛は自己中と同じでしょ。西洋思想史をたどれば,カルヴァンは,自己愛は「ペスト」だといいました。フロイトさんも,自己愛について語っていますが,フロイトさんの考えも,カルヴァンとおんなじです。フロイトさんにとっては,自己愛はナルシシズムとおんなじですが,それは,優しい気持ちを自分にだけ回すものです。ナルシシズムは,人間が発達する赤ちゃんの舞台ですし,赤ちゃんの時期を過ぎても,ナルシシズムに舞い戻ってしまう人は,人を大切にすることができません。ひどい場合は,その人は心の病です。フロイトさんは,人を大切にする行いは,優しい気持ちの表れだとみなしましたし,優しい気持ちは,他の人たちに回心するのか,自分に感けるだけか,どっちかだ,と申しました。人を大切にする行いと自己愛は,互いに排他的なのは,一方が増すほど,他方は減るからです。自己愛が悪ならば,自分を空っぽにすることは,気高いものになります。

 

 今のニッポンでは,子どもっぽい大人が多いのは,赤ちゃんの時期の自己愛の段階に留まっている,若者,中年,老人があまりにも多いからです。フロイトさんが教えてくれているみたいに,自己愛が強いほど,子どもを大切にできませんから,ニッポンでは,発達トラウマ障害がパンデミックなんです。

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#常にある煌めき閃く光 #聖書の神様の心から優しい命

2019-06-28 06:20:47 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 
#体感 #生きている実感の源
   ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trau......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
 をご参照ください。

 不思議な導きの中にある,まとめ学習の都合により,エーリッヒ・フロムErich FrommのThe Art of lovingから,p.71の最後から。

 

 聖書の神様は,マイスター・エックハルトにとって,「必ず自分を空っぽにする者」になりましたが,それは,聖書の神様の実感とは,ユダヤの神秘思想ガバラにとって,「エン ソフ」「無限の光」であるのと,ピッタリ同じです。

 

 摩訶不思議なことですが,自分を空っぽにすると,内も外も無限の光に煌めき,閃きます。聖書の神様は,煌めき,閃く,無限の光に間違いありません。

 その無限の光には,温もりと輝きのある心からの優しいシャローム平和が漲っているんです。

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#息を感じる と、#自分自身になれる #聖書の神様

2018-08-18 04:07:58 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 

 エーリッヒ・フロムの The art of loving 『自分と人を大切にする生き方』から。

 p104の10行目途中から。3回目の改訳です

 

いくつかの簡単な練習をすると良いでしょう。たとえば、楽な姿勢(前かがみでもなく、こわばった感じでもなく)で座る、眼を閉じてみる、眼の前の白い幕を見てみる、邪魔なイメージや考えすべてを取り除いて見る、そうしてから、自分の息に従って見る、息に従いながら息を感じることです。考えたりせずに,無理に考えないようともせずに,ただ息に従ってみる「≪私≫が生きている実感」を感じようとすること、すなわち、私=自分自身とは、自分の様々な力の中心であり、自分の世界を創造する創造者を体感しようとすることです。少なくとも、毎朝20分、このような訓練の一つに集中するべきで、それができなければ、毎晩寝る前に訓練すべきでしょう。

 

 

 

 

 息というのも不思議ですね。息があるから、私どもは生かされています。息は霊,すなわち,聖書の神様でもあるらしい。霊と訳されるプネウマ πνευμα も、その元々の意味は、息であり,聖書の神様なんですからね。息を感じると、聖書の神様というスピリットと出会い、ありのままの本当の自分自身になれるんですよね。

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