エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

現状肯定の時代の息苦しさ

2014-05-31 10:02:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
生きている実感、生きる手応え、その2種類

 若者の良心がマヒするのは、まさに権力(政治的権力だけではありません。親や教員などの大人が権力になることに、注意!)から嗤われる時だとするエリクソンの指摘はとても重要でした。なぜな...
 

 1968年以降、あるいは60年代の後は、日本でも、欧米でも、「現状肯定」の時代がきました。

 「現状肯定」も、「肯定」ですから、肯定的な側面もあるはずです。生活の安定は、その肯定的な側面なのかも、分かりません。しかし、今の日本の様な、露骨に「勝ち組」、「負け組」などと言われ、また「倍返し」などという、とっても下品な言葉が流行る時代です。少なくない人々が、息苦しさ、行き詰まり、生き辛さを感じているじゃないですか。ですから、チェインジ、世の中が根っから変えなくちゃならない、と感じている人々も、相当数いるはずです。

 「秋葉原無差別殺傷事件」の様な事件、「誰でもよかった」と言って、他者を傷つける事件が、なくなるどころか、むしろ、増えていませんか? これは、息苦しさ、行き詰まり、生き辛さを感じながら、自分がその状況を変えられないばかりか、世の中が「現状肯定」であるからではないでしょうか?

 誤解なきよう、予め申し上げるのですが、私は何も事件そのものを、「肯定」しているのではありません。むしろ、如何なる事情があったにせよ、他者を傷つけることは、あってはなりません。しかし、政治が、「現状肯定」を追認するだけなら、人々の絶望は、遠からず、マックスに達するでしょう。

 ですから、チェインジの道が必要です。チェインジの道は、たくさんあるのかもしれません。私は、日々の生活の中で、弱い立場の人が、より人間らしい暮らしを実現することと、それを支援することが、社会全体のチェインジ、に繋がっている、という視点が、とっても大事だと、確信しています!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由の子

2014-05-31 06:19:15 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 日ごろから自分と対話している人が、他の人と対話ができるのです。

 日ごろから自分の、静かな小さな声を聴きつけている人が、他者の「声なき声」に応えることができるのです。

 今日はp26の第3段落から。

 

 

 

 

 

 「弱い立場の人の声なき声に応え続けること」が、 支配と支配したくなる気持ちに堕落するのは簡単です。それは、≪真の関係≫の3つめの要素、すなわち、「弱い立場の人を個として認めること」がない場合には、そうなりやすいのです。「弱い立場の人を個として認めること」は、恐怖ではなくて、畏敬の念なのですね。「リスペクト 弱い立場の人を個として認めること」は、語源によれば(ラテン語のレスピセーレ 見ること)、人をありのままに見ることを意味します。すなわち、その人ならではの個として認めることです。「弱い立場の人を個として認めること」は、ですから、弱い立場の人を不当に利用することはではありません。≪真の関係≫の相手が、自分自身のために、自分らしく、成長し、発展してもらいたいと私は思います。でも、私が利用できるからそう願うのではないのです。私が他の人と≪真の関係≫ならば、その相手が男でも女でも、一体感を感じます。しかも、その一体感を感じるのは、ありのままの相手に対してであって、私が利用するためではありません。「弱い立場の人を個として認めること」ができるのは、私が独立している場合だけです。杖がなくたって立ったり、歩いたりできる場合や、誰か他の人を支配したり、利用したりしない場合です。「弱い立場の人を個として認めること」は、自由だからこそできるのです。「≪真の関係≫とは、自由の子ども」という、古くから歌い継がれたフランスの歌があります。すなわち、≪真の関係≫は自由の子なのであって、支配の子では決してありません。

 

 

 

 

 

 

 「弱い立場の人を個として認めること」は、自分が、独立して自由であって、初めて可能になるものでしょうね。逆に、「弱い立場の人を個として認めること」ができないのは、自分が、他の人に依存して、不当に利用しているからですよ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1968年の前と後

2014-05-30 08:59:05 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
いちご白書:演じる政治が、陽気な抗議に勝る時

 学童期の演劇的要素が幼児前期の課題である良心を、より人間的なものにするのに役立つ。普通「親替え」と呼ばれる、良心を受容的、寛容にする作業が、演劇的要素を通じて、実践することができ...
 

 1968、と言っても、小熊英二(立川高校のクラスメート、座席が「お隣り」だったので、呼び捨て、ゴメンね)の大著のタイトルではありません。

 加藤周一さんが、亡くなる直前のNHKのインタヴューに応えて、「20世紀から21世紀へ積み残した閉塞感 、根本的に変わる必要がある。…だんだんにシステム・組織の力が強くなってきて、個人の影響力が後退する。昭和や大正時代のほうが個人が、まだあった。今、専門部分に関する細かい話になって、全体として、人間的に、大きな方針、行き先を指示出来る人がいない。…何とか、人間らしさを、人間が作ったものを、世の中に再生させる、…そのために何が相手なのか、敵なのかを理解することが大切である。」と言っていました。

 個人が後退し、それでなくても強力だったコンフォーミズムcomformism(形だけ同じになること、が原義)「日和見主義」「大勢順応主義」 が、一層はなはだしくなっているのが、今の日本の現状でしょう。その転換点が、1968年だった。加藤周一さんも、小熊もそこに目をつけているのだと思います。

 なぜ、そこまで、コンフォーミズムがますます広がったのか?

 それは、エリクソンが取り上げたコロンビア大学での一件でも、日本の全共闘も、権力に「負け」たから。その時以降、それぞれの人が「痛い目」と「冷や飯」と「冷や汗」を、それぞれの事情で、その多寡はあっても、体験したから。髪を切り、ジーパンからスーツに履き替えて、社会の中に、それとなく納まっていったから。

 生きることに手応えを感じるどころか、そんなことを考える暇がないほど、せかされ、脅され、監視されているような日々。

 それでも、山本義孝さん(安田講堂占拠の時の東大全共闘代表)のように、権力におもねることなく、自分の信を貫いただけではなく、学問的にも後世に残る仕事をした人が、「いる」ことを覚えますね。

 「何とかなる!」のです。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

声なき声

2014-05-30 08:46:21 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ヨナの黄泉帰りの物語って、「人間の勝手な正義」と≪真の関係≫がコントラストだったって、今回フロムを読み返して、初めて気が付きましたよ。今日はp26の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

  労わることと関心を持ち続けることは、≪真の関係≫のもう一つ別の側面です。それは、「弱い立場の人の声にならない声に応え続けること」です。今日、この「弱い立場の人の声にならない声に応え続けること」とは、「ねばならないこと」、すなわち、外側から課せられたことになっていることが多いのです。しかしながら、これは、声になった場合でも、声なき声の場合でも、他の人のニーズに応えることなのです。「弱い立場の人の声にならない声に応え続けることができる」ということは、他者のニーズに「応える」準備ができた、という意味です。ヨナは、ニネベ市民の声なき声に応えることができる、とは、感じませんでした。ヨナは、カイン(旧約聖書「創世記」に出てくる、カインとアベルの物語)と同様に、神様に問いかけます。「私が兄弟の面倒を見なくちゃいけないんですか?」と。≪真の関係≫の人は、やり取りの人です。自分の兄弟の人生は、その当人だけが関わればいいものでなくて、兄弟である自分自身も係るべきなのです。その人は、自分の仲間とやり取りできる(自分の仲間と対話できる)と感じますが、それはちょうど自分自身とやり取りできる(自分と対話できる)と感じるのと同じです。こういった「弱い立場の人の、声にならない声に応え続けること」とは、一人のお母さんのその赤ちゃんの場合、(赤ちゃんの)体が必要とすることのために、(母親が)労わることです。大人同士では、「弱い立場の人の声にならない声に応え続けること」とは、相手の人の魂の求めに応えることを主に言います。

 

 

 

 

 

 「声なき声に応える」。これは、いま、NHKで毎週火曜に放映されている、ドラマ「サイレント・プア」のメインテーマでしょう。毎週、深田恭子さんが演じるコミュニティ・ソーシャルワーカー(CSW)が、近隣の「弱い立場の人達」の声なき声を掬い上げて、それに応える具体的手立てを、苦戦しながらも、自分自身を放り込んで、見つけていこうとする姿に、心温まる思いが致します。深田恭子さんの演技は、決して上手な訳ではないけれども、一生懸命な感じが伝わる、とても素敵な番組です。

 それでも、なにも「声なき声」に応えるのは、他者のそれに応えることだけではないはずです。自分自身の「声なき声」に応えることができて初めて、他者の「声なき声」に応えることが可能なのではないでしょうか? あるいは、他者の「声なき声」に応えることが、自分自身の「声なき声」に応えることと繋がっていなくては、本物ではない、と感じます。

 その意味では、この番組は、そのモデルである豊橋社協のスタッフの人たちが、上手に監修しているからでしょう、「よくできてる」と感じますね。

 次回は最終回、あなたも是非、ご覧になってくださいね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨナの黄泉帰り

2014-05-29 09:13:00 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ヨナは、秩序と律法の意識は強烈でしたが、誰だって嬉し泣きするに違いない≪真の関係≫を知らない人でした。いまの、たくさんな日本人も同じですね。今日は段落途中のp25のL13 However以下です。

 

 

 

 

 

ところが、ヨナは逃げようとしている時に、自分がクジラのお腹の中にいることに気づきます。これは、ヨナが、≪真の関係≫とあの連帯を見失っているために、誰からも相手にされず、何かに閉じ込められた感じがしていたことを、象徴したものです。神様はヨナを救い上げて(掬い上げて)、ヨナはニネベに行きます。ヨナはニネベ市民に生き方を説きます。それは神様がヨナに話した話し言葉が出来事になることでした。しかも、それは、ヨナがまさに恐れていたことでもありました。ニネベの人々は自分たちの罪を後悔して、それぞれの生き方を改めましたから、神様はニネベ市民を、お許しになり、町を滅ぼすことはしないことに決心します。ヨナは、無性に腹が立ち、大変失望します。ヨナは「自分が信じる正義」がなされることを、強く望んだのであって、「慈しみの業」など望みはしなかったのです。ヨナは、ヨナがお日様に当たるのを避けるために、神様があらかじめ育てていた一本の木を、ようやく見つけます。ところが、神様がその木を枯れさせた時、ヨナはがっかりして、神様に食って掛かります。神様はお答えになります。「あなただって、自分が耕すこともせず、育てもしない田圃でも、一夜にして眼の前に現れ、一夜にして消えたら、その田圃を惜しむでしょう。私がニネベを惜しまずにおくなんて、できませんよ。ニネベは大きな町ですし、12000人以上の人が住み、たくさんな牛がいるのです。彼らは右手と左手の区別さえできない人たちなんですよ」。神様がヨナに答えた答えは、象徴的によく考えなくてはなりませんね。神様はヨナに説明します。≪真の関係≫の神髄は、何かのために「損をする」ことですし、「何がが成長するのを助ける」ことだ、ということです。≪真の関係≫と「損すること」は切っても切れないものなのですね。≪真の関係≫は、自分が損しても係る相手のためですし、自分が損しても係るのは、その相手と≪真の関係≫だからなのです。

 

 

 

 

 

 実に明快です。≪真の関係≫とは、自分が損しても係る相手との関係です。それは神様と私どもひとりびとりの関係と、全く同じなのですね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする