エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

1人でいられない、山ほどの言い訳

2014-09-30 12:16:37 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にする能力の第一条件が、「一人でいられる能力」ということは面白いですね。これは非常に実践的・臨床的・現実的なんですね。自己内対話ができてない人で、人を大事にしている人を見たためしがないからです。

 p103下から2行目途中から。

 

 

 

 

 

 自分自身と向かい合おうとすれば誰でも、それがいかに困難かが分かります。その人は、ハラハラ、ソワソワし始めますし、強い不安さえ感じだす始末。1人になるなんでナンセンス、バカげてる、時間がかかり過ぎ、などなどと考えて、1人になることをやらないことを合理化しやすい。自分の心を占めるあらゆる考えが心に去来するのが分かります。「今日何しようかな」、「やんなきゃなんない仕事、結構大変だな」、「今晩どこに行こうかな」、たくさんのことが心をふさいでしまいます。それで心を空っぽにできないんです。

 

 

 

 

 

 1人になるのは不安がつきもの。だから「勇気」が必要です。それは、ティーリッヒが「自分になる勇気 The Courage to Be」と言った、その「勇気」です。1人になるのは、自分自身になるためです。自分自身になってる人だけ、人を大事にする能力も備わる。面白いでしょ。

 1人にならない言い訳を考えてる場合じゃないでしょ。

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遊び相手にならない大人は、自分を「上」にして、子どもを非難するはず

2014-09-30 10:32:05 | アイデンティティの根源

 

 それでp350第3パラグラフ。マタイによる福音書です。

 

 

 

 

 

 「しかし、この世代を何にたとえましょうか? それは、市場に座っていた子ども方が、遊び相手を呼んでいます。『私たちが声を出して、あなたを呼んだのに、あなたたちは踊ってくれなかった。私たちが声に出して、嘆き悲しんでいるのに、あなたたちは悲しんでくれなかった』。ヨハネが飲まず食わずでいると、あの人たちは「奴は悪魔だ」と言い、人の子が食べたり飲んだりしていると、あの人たちは『ほら見てみなさい、食いしん坊と呑兵衛だよ、だいいちあの税金泥棒と人でなしの仲間さ』 しかし、叡智はその人の行いによって義とされます」(マタイによる福音書第11章16節~19節)。

 

 

 

 

 

 子どもの遊び相手にならない人は、たいてい子どもを非難ばかりしている大人。自分は「人間を上下2つに分けるウソ」を信じて、「上」と勘違いしているからです。それで「下」に向かって非難するんです。ひどい言葉を使って言いますから、これこそ「言葉による虐待」そのものですね。イエスはこれを≪信頼≫に、最も敵対的な態度だというわけですね。

 イエスは逆に、人から非難されるような人、たとえば、売春婦や「税金泥棒」と言われる人たちの仲間に、あえてなりましたでしょ。「上下のない、1つの人間」を信頼しているからなんですね。

 みなさん、この辺の事情が体験的に分かると、良いでしょ。おもしろいでしょ。

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発達トラウマ障害が爆発的に増加したのは、労働環境が劇的に劣悪化したからだ!

2014-09-30 06:36:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 小学生の半分が、極めて軽度も含めると、発達トラウマ障害DTD、と申し上げました。「ちょっとオーバーじゃぁないの?」、「アセスメントがおかしいんじゃないの?」と言う方が、必ずいるはずだと思います。そういう意見のある方がいても仕方がないと私自身も考えます。

 でも、実際に子どもたちを見ていると、授業中黒板の方に注意が持続しない子ども、大人が見ている時には、「校則」を守るけれども、そうでなければ、守らない子ども、大人と目を合わせない子ども、様々な注意引付行動をする子ども、学校に来ない子ども、自信無げに自分を出せずにいる子ども、教員から注意されると、姿勢を余計に崩す子ども、表情が暗かったり、無表情に見える子ども、クラスの子を打ったり、自分自身がけがをしやすかったりする子ども、今の小学校のクラスにいる子どもたちには、そう言う子どもは半分以上いるんですね。確かにそのすべての子どもを、キッチリ、アセスメントしたわけじゃあない。ですからこれは私の臨床的直観です。

 その中の何人か、一校に付き何人かの子どもとその母親と面接しますでしょ。その背景には例外なく、愛着の問題があります。そして、さらにその背景には、日本の社会的問題が厳然としてあるんですね。その一つが労働問題です。母親が子どもが幼い頃でも、子どもと一緒にいる時間が全く足りないし、その後も継続して子どもと一子にいる時間が足りない。日本の労働者の実質的労働時間が極端に長いことがあります。ですから、日本の母子関係は簡単にネグレクトに傾きやすい。

 日本でも法定労働時間は8時間。でも日本は北欧のように、ワークシェアリングがありません。正確に申し上げると、ヨーロッパで言っているワークシェアリングは、日本で言われているワークシェアリングと意味が全く違います。日本では、残業があって当たり前。北欧では原則残業はないし、1日7時間労働。しかも、日本では、その少なくない時間がサービス残業でしょ。その労働者が母親であっても、その事情は変わりません。そうすると、母親になった段階で少なくない女性が退職せざるを得ません。その時点で退職しなくて済むのが、公務員。市役所職員と教員です。だけど、この人たちこそサービス残業のオンパレードでしょう。私の偏見が入っていることをあらかじめお断りしておきますが、役場職員と教員の母親の子どもに、発達トラウマ障害DTDが疑われることが少なからずあります。そうじゃなくても、労働市場は現在買い手市場。賃金はカットされ、サービス残業であろうと断れば、職場にいづらくなりますでしょ。また一人親。特に母親の1人親の場合、低賃金ですから、長い時間働かなくてはなりません。

 わが安倍晋三首相も、「女性が輝く社会」を口先では言うけれども、「法定労働時間を守りましょう」とは言わない。「残業なし」とは言わない。それどころか、「残業代ゼロ」とおっしゃる。なんか変じゃないですか? 子どもは母親と一緒にいる時間が必要です。この「残業代ゼロ」が果たして、「女性が輝く」ことや、ましてや「子どもと母親が一緒にいる時間」の質的・量的増大に繋がる、とでも言うのでしょうか?

 また、子どもとの短い時間が至福の時間かと言えば、短い時間で子どもに必要なことを伝えなくちゃぁならない、という感じが強くて、知らず知らずのうちに、「禁止と命令」がどうしても多くなる。すると、短い時間でも、親子でやり取りする時間にすればいいのに、実際は、一方通行で親が子どもを管理・指導する時間になりがちです。その短い時間に賭ける言葉も、結局は「禁止と命令」だけではなく、「言語による虐待」になる場合だって、少なくない。

 日本の子どもに、これだけ、発達トラウマ障害DTDの子どもが急速に増えた背景には、このように、「失われた20年」の間に、民間も公務員も、労働環境が劣悪化したことがあります。そして、その付けを子どもが払わされている、と言っても過言ではない、と私は考えます。

 

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「光の子どもの家」の教育方針

2014-09-29 13:00:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 児童養護施設「光の子どもの家」理事長 菅原哲夫さんのインタヴュー、先日このブログでも取り上げましたから、覚えておられる方も多いと思います。先日触れなかったことにも、大事なことがありましたので、そこんとこを取り上げておきたいと思います。

 それはシャワーです。シャワーと言っても、水浴びでもなければ、突然の雨でもありません。保育士さんたちや職員の皆さんが、子どもに投げかけている心の態度のことなんですね。その心の態度と言うのがイカシテル(生かしてる)んですね。「あなたに会えて、良かった」というシャワーだからです。これは言葉になる場合もあるけれども、何気ない眼差しや、ちょっとした立ち居振る舞いになることの方がはるかに多いだろうと想像できますよね。

 ネグレクトも含めた、厳しい虐待を体験した子どもたち、昔は児童養護施設か、教護院の子どもくらいに限られたんですが、いま日本では、ビックリするほどの規模と速さで、一般家庭と呼ばれている、どこにでもある家庭の子どもたちに広がっています。私の臨床的感覚ですと、非常に軽度も含めれば、おおよそ小学生の半分は何らかの虐待を受けて、愛着障害になっているのが、悲しいかな、日本の厳しい現状です。

 ですから、この「光の子どもの家」の実践が、極めて先進的な、愛着障害の子どもに対するケアであると私は感がているんですね。ここの保育士さんたちは、マインドフルネスやEMDRを全く学んだはずはないんですが、それを学んだ人よりも遥かに、愛着障害に最も足りなくて、したがって、最も愛着障害の子どもたちが願ってやまないことを、日々の生活の中で提供しているんてす。その点が、非常に優れています。大学院でPTSDを研究してる人なんかは、その爪の垢でも煎じて飲んで貰いたいくらいですからね。

 「あなたに会えて、良かったなぁ」と言うシャワーですね。それを繰り返し浴びて、骨身に染み込む程浴びる中で、愛着障害の子どもたちは、初めて≪根源的信頼≫を取り戻し、自分が生かされている意味に、初めて気づかされるんです。私どもは、この貴重な実践から、大いに学んでいきたいものですね。

 

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人を大事にする第一条件

2014-09-29 10:28:48 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 日本は子どもたちが信頼を育むうえで、ことさら厳しい社会であるようですね。ですからこれだけ、愛着障害が多いし、なかなか症状が改善しないんですね。

 p103第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 

 集中力は、私どもの文化では、ますます「行うは難し」です。なんでもかんでも、集中力に対立している感じですから。集中力を学ぶ一番大事な段階は、読書したり、ラジオを聴いたり、タバコを吸ったり、酒を飲んだりなどせずに、自分自身と向かい合うことを学ぶことなんですね。実際、集中できるとは、自分自身と向かい合って、一人でいること、なんですね。しかもこの能力が、人を大事にする能力の第1条件なんです。私たちが誰かほかの人に愛着を感じるのが、自分一人でいることができないためだとしたら、その人が、男でも女でも、救い主であっても、その人の関わりは、人を大事にする関わりじゃぁ、ない。矛盾している感じですが、一人でいられることが、人を大事にする条件なんですからね。

 

 

 

 

 

 ここは、まさにウィニコットですし、エリクソンでしょ。人を大事にすることは、「依存症」では無理なんです。「一人でいられる」という、ウィニコットが繰り返し言っていたことと重なりますよね。あれだって、人が「一人でいられる」のは、「自分は1人じゃぁない」と子どもが感じればこそ、「一人でいられる」という矛盾した感じだったでしょ。フロムはそれを逆から眺めて、こういっているわけですね。

 面白いでしょ。

 

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