矢内原忠雄先生の言葉が良いですね。矢内原先生が東大を卒業した後、住友に入って鉱山で働いていた時に、新渡戸稲造が東大からジュネーヴの国際連盟事務次長に転出する際に、東大植民政策講座の後任に選ばれた経緯を宣べている件です。『矢内原忠雄全集』第二十六巻から。
今頃、大学の教授になろうとするには、大した苦労でしょう。論文書いたりなんかしてね。私の時は論文なんかない。三年間鉱山に入っておったからですね。植民政策なんか勉強していたわけではないけれども、あれは新渡戸先生の弟子だし、何かあるだろう、というんですが、私はあまり勉強しなかったものだから書いたものが無いんです。それじゃ手紙があるだろう。それで私が友人に送った手紙を見て、まあこれなら良いだろう、なんていって―これは本当の打ち明け話しなんですが―東京大学助教授に手紙一本の審査でなれた。…大学卒業の時、朝鮮人の為に働きたいという志をもったのが、形を変えて植民政策の講座を持つに至ったという事の中に、神の摂理があると思うのです。
正直ですね。人との比較で生きていたら、少しでも自分を「高く見せたい」のが人情でしょ。でも、矢内原忠雄先生は、人と比較してどうの…ということはありませんから、東京大学助教授に手紙一本の審査でなれたと、さわやかなくらいに正直です。それなら僕にもなれそうだ、と思わせてくれて、肯定的でしょ。ユーモラスでしょ。
でも、その背後には、矢内原忠雄先生の願いを、思いがけず実現する、という神の摂理、つまり、神様からの不思議なプレゼントがあったというんですから、人生は奥が深いですね。