エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

悲しみは、青年ルターの気分ですし、時代の気分?

2013-12-31 05:45:12 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターも、物の見方によって、おんなじものが、時には悲しく見えますし、穏やかで信頼感に満ちた状態で見える場合もありと言います。繰り返しますが、見る眼、その眼差しが、人生の別れ道なのです。

 

 

 

 

 

 悲しみというこのよくあるヴェールは、折り合いがつかずにいる気持ちを隠すものですが、聖歌隊で爆発的に、その気持ちが表に出ました。このヴェールに関して申し上げれば、マルティンが悲しいのは、彼がうつ病だからだと言えるかもしれません(精神分析医で実際にそう言ってきた人もいます)。また、マルティンがうつ気分であったことに、私どもでしたら、うつ病の臨床像と呼ぶようなものを時に示したのでした。しかし、ルターは、神に由来すること、葛藤のしがいのあるものがあらわになることと、挫折に由来することとをハッキリ区別しようとする人でした。ルターが挫折を悪魔と呼んだ事実から、ルターが手近なラベルを診断に使っていたのが分かります。ルターメランヒトンへの手紙に、「私は公開論争では弱いのですが、ひとりもがく様なときにも弱虫なのです」と書いています。「私が、私とサタンの間でやっていることをこのように呼ぶならば」と書いています。マルティンの悲しみは、伝統的な「トリスティティア」、つまり、「宗教的動物」のうつ的な、この世に対する気分、と呼べるかもしれませんね(実際あの大学教授はそう言いました)。「宗教的動物」と言う視点で見れば、悲しみは1つの「自然な」気分ですし、人間の現実状況に最も正直に当てはめたことだとさえ言えるかもしれません。この物の見方も、また、ある程度は受け容れなくてはなりません。それは、マルティンが修道院生活を、伝統的な「トリスティティア」にふさわしいものではないと思ったことが明らかになる程度はそうなのです。すなわち、それは、マルティンが自分の悲しみを信頼できないでいたことが明らかになる程度であり、彼が後になって、この鬱的気分を全く捨て去って、時には、落ち込みから有頂天にまで、時には、自己卑下から他者虐めまで、気分が暴力的に浮き沈みしたのでした。ですから、悲しみとは、第一に、ルターが若かったころの全般的な症状でしたし、当時当たり前だった態度のなかでは、1つの症状でした。

 

 

 

 

 

 ルターはずいぶん気分の振れ幅(swingとエリクソンは言っています)が大きかったのですね。ほとんど情緒不安ですね。その中でも悲しみ・悲哀がルターの全般的な気分だったのです。しかし、よく考えてみれば、最深欲求に応えようとすれば、その答えがすぐに見つかるものではありませんから、悲しみに包まれるのも当然です。エリクソンも人間の現実状況を考えたら、悲しまざるを得ないことを今日のところで記しているほどです。でも、悲しみは当時の時代の気分でもあったのでしょうか?

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パレーシアと 自分を大事にすること

2013-12-30 03:59:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 安倍晋三にしても、猪瀬にしても、ウソとゴマカシであることがハッキリしましたし、いずれも平和と民主主義の敵であることもハッキリしました。

 

 

 

 

 

3. パレーシアと思想

 最後に、「パレーシア」の進歩が、思想分野との関連で辿れます。この場合、人生の美(techne tou bios テクネ トゥー ビオス ギリシャ語で「生きること、人生、生き物の美」)と見なすことです。

 プラトンの著作において、ソクラテスは「パレーシアステス」の役回りです。「パレーシア」という言葉は、プラトンの著作には何度も出てきますが、「パレーシアステス」という言葉は一度も使われていません。「パレーシアステス」はずっと後になってから、ギリシャ語に現れます。しかし、ソクラテスの役回りは典型的に「パレーシア」的です。なぜならば、ソクラテスはアテネの人々と道で出くわすと、『ソクラテスの弁明』で記されているように、アテネの人々の本当のことを話し、英知と真実と魂の完成を勧めたからです。『アルキビアデス将軍』でも、ソクラテスは対話の中で「パレーシア」の役割を引き受けます。アルキビアデスの友達や愛人たちが、アルキビアデスの歓心を買うために、ペチャクチャおしゃべりしているところでも、ソクラテスは、アルキビアデスの不興を買っても、この理想を説いたのです。つまり、アルキビアデスが達成しようとしていること、つまり、アテネ人の中でアテネを統治する最初の人となり、ペルシャ王よりも強くなりたいと願っていることをやる前に、すなわち、アテネ人を世話するより前に、自分自身を大事にするようにしなければならない、ということです。哲学的な「パレーシア」は、このように、自分自身を大事にする(epimeleia heautou エピメレイア ヘアウトゥー ギリシャ語で「自分自身をよく見なさい、世話しなさい」の意)、というテーマと関連します。

 

 

 

 

 哲学的には、「パレーシア」は、自分自身を大事にすること、アイデンティティと関係していることが分かりますね。

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悲しすぎる気分 息づまる閉塞感 → 穏やかな、信心深い気持ち

2013-12-30 02:59:36 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターの発作を、まとまりのあるものとして見るとどうなるのか? エリクソンの読み解きが続きます。

 

 

 

 

 

 マルティンの普通の気分は、修道士になる前は、(修道士になった後だって)聖歌隊での発作の時も再び落ち込んだ気分なのですが、ルター自身も、他の人たちも、「トリスティティア」の状態、すなわち、悲しすぎる気分と見なされてきました。あの嵐の日の出来事の前は、マルティンは、すぐに、憂鬱で何にもできない状態に落ち込んで固まっていたのでした。そうなると、勉強も続けられませんし、父親が勧めてくれる結婚について考えを定めていくこともできません。雷の日の出来事の中で、マルティンはすぐに不安になりました。この不安は、angustus 窮屈から来ていて、閉じ込められて、息ができない感じでした。マルティンは、circumvallatus 囲われている を使って、あの嵐の日の出来事で経験したことを描いているのを見れば、マルティンが、自分の人生すべてに不意に窮屈に感じて、しかも出口は一つしかないと感じていたのが分かります。それは、以前の生活すべてとこの世の未来を、新たな人生に完全に献身するために、捨てることを示します。この新たな生活とは、しかしながら、まさに囲われた形から1つの習慣を創り出す生活です。それは、建物に関しても、儀式についても、世間全体の気分においても、新たしい生活は、この世の生活を象徴していました。それは、自らに課した、自分で意識している、1つの牢獄なのですが、しかも、唯一実存し、永遠に至るものなのです。この人生に対する1つの見方を受け容れることによって、マルティンは、一時、穏やかな、信心深い気持ちになれました。たとえ、発作があっても、また、あの悲しみが深くなっても、一時は穏やかな、信心深い気持ちになれました。

 

 

 

 

 

 ルターは実に憂鬱な人だったことが分かります。ちょっと近ずきたくないようなタイプかもしれませんね。愚痴や不平や不満を聴かされるに決まっていますからね、この手の人は。

 ところが不思議なことに、そんな人も自分の人生に対する見方が分かると、始めは一時かもしれませんが、落ち着きと信頼感に満ちた感じになれるのですね。

 「見る」ということが、実に決定的なことが分かります。

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代弁者と詭弁者 安倍は「平和と民主主義の敵」

2013-12-29 03:17:09 | フーコーのパレーシア

 

 自分には不愉快なことでも、不都合のことでも、「本当のこと」には、誠実に耳を傾けることが、パレーシアとパレーシアステスの相手ですし、王様や殿様だけではなくて、まじめに政治のことを考える人ならどなたでも、そういう耳を持っていることが大事です。

 なぜか?

 それは、自分を確かにする道を歩むためです。それが私どもひとりびとりの、アイデンティティなのです。そして、自分を確かにする道は、社会の在り方と切っても切れない関係にありますから、その社会、あるいは、近所でもいいです、そこを人間らしい暮らしのできる場にしていくため、そこを確かにする道を歩むためでもあります。ですから、その耳はとっても大事です。

 

 

 

 

 

 君主制のパレーシアのやり取りには、第3の演者がいます。すなわち、サイレント・マジョリティ 大多数は声を上げない ということです。一般市民は、王様と王様の顧問たちのやり取りに立ち会うわけではありません。むしろ、顧問たちは、王様に助言する時には、一般市民のために、一般市民のことに触れます。

 パレーシアが、君主が統治する場で登場する場は、王様のいる宮中になり、もはや広場ではなくなります。

 

 

 

 

 

 王様の顧問たちがパレーシアを実践するところは、皆が自由に出入りする広場ではなくて、特権階級しか入れない宮中となります。その顧問たちは、声なき声の多数者の代弁者になることが期待されますが、代弁者になるか否かは、顧問たちに委ねられているものですから、顧問たちは代弁者にならない場合もあります。

 国会議員は、日本においても、国民の代弁者に決まっていますが、今の日本では、ウソとゴマカシを多用して、自分(達)の利益を追求していますよね。

 先日、安倍晋三首相が靖国神社と言う、元々は陸海軍の施設を訪問した時の談話は、そのウソとゴマカシの典型で、国民の代弁者どころでは全くないこと、詭弁者・詐欺師であることをハッキリさせるものでした。談話で言っていることと、実際のやっていることが真逆ですし、靖国強行訪問、特定秘密法案強行採決をしておいて、平和と民主主義のためと言う様な人物は、当然、「平和と民主主義の敵」であることに間違いはありません。

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まとまりのあるものとして見ること

2013-12-28 04:19:19 | エリクソンの発達臨床心理

 

 病気とみられがちな発作におかげで、ルターが自分の人生を百八十度方向転換することになったというの、繰り返しますが、実に不思議です。文字通り、生きている不思議そのものでしょうね。

 

 

 

 

 

 ルターが宗教的な天啓という、際立って異なる舞台(段階)を経験したという事実によって、他の宗教家達の回心に相当する、1つの心理学的根拠を確立することができたのかもしれません。そこでは、伝統は、一般的な信仰に訴え掛けるような、1つの全体的な出来事を伝えるように求めるようになります。私の考えでは、ルターを将来のある人物になることは、もはやできません。この将来は、私どもにとっては、心的現在なのですが、ただし、ルターが生粋の「宗教的動物」として、自分自身を確かにするようになることを示す、いくつかの段階を報告する際に、徹底的にルター自身が1つにまとまることだけが、ルターを将来のある人物にすることができます。私がこの点を強調して申し上げるのは、そうすることによって、ルターのケースがましになるからだけではありません(それは役立つと私は認めます)。それだけではなくて、そうすることによって、ルターが経験したこと全体が、1つの歴史的出来事となって、単にルター派にとってだけ大事なことではなくなります。つまり、人間の気付きと責務において、決定的に重要な出来事に、ルターが経験したことがなるわけです。この段階を、心理学的座標軸の中でハッキリ位置づけることこそ、この本の責務なのです。

 

 

 

 

 ルターの発作に始まる経験が、単にルター派やキリスト者にとってだけ重要なことではなくなる段階、過程について、エリクソンは考察していますね。ここで大事なのは、エリクソンによれば、”まとまりのあるものとして見る” ことです。言葉を直接引用すれば、トータル totalであることです。バラバラにしておかない、のです。

 ルターの経験を、”まとまりのあるものとして見る” ことによって、ルターの経験は、歴史的に普遍的な、すなわち、私どもが自分の(身近な人の)経験を考える際に、とても役立つ出来事になったのです。

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