在りし日の宮嶋眞一郎先生 「共働学舎」HPより
復活の言葉
脆さが強さになる。不思議でしょ。 p179の1行目途中から。 新たな始ま...
皆さんどうですか? 元気はどこからやってきますか?
美味しいご飯を食べた時。元気が出来ますね。綺麗な風景を眺めた時、たとえば、水平線や雲海の向こうから、輝く太陽が昇るのを見たりすれば、洋の東西を問わず、感動しますし、元気がもらえますね。
昨日、宮嶋眞一郎先生の話をブログに書きましたでしょ。エリクソンのYonung Man Lutherの記述で、眼の見えない人のことが取り上げられて、エリクソンも、眼が見える人にはない、何か特別な力があることを認めていますからね。そのイメージにピッタリくるのが、まさに宮嶋眞一郎先生だったからです。
早稲田大学の藤原保信先生のゼミの卒業論文で、共働学者のことを書いて以来、宮嶋眞一郎先生のお世話になりました。大学4年の時に、初めて東久留米の自宅にお邪魔した際には、先生は白杖を突いて、私を途中まで迎えに来てくれました。実を言えば、国立秩父学園を修了した後は、信州の共働学者に入れてもらおうと思っていたんですね。「本物の生き方」を学びたいと願っていたからです。でも、父親が自死してしまって、共働学舎に入れてもらおうという願いは、かないませんでした。
以前にもこのブログにも書きましたけれども、父親が自死した後、宮嶋眞一郎先生は、東久留米の自宅に私を呼んで下すって、山上の垂訓(マタイによる福音書第5章3節から10節)を流れるように暗唱されてから、短く祈ってくれました。その時の感動は、今でも忘れることはできません。不思議な安心感がありましたね。今考えたら、あれは言葉の真の意味でのセラピーだったと感じます。
私は、宮嶋眞一郎先生から、英語を習ったこともありません(宮嶋眞一郎先生はもともとは、自由学園の英語の先生でした)。他の教科を習ったことはありません。でも、卒論のために共働学舎のことについてインタヴューしたときや、上に記したお祈り、あるいは、他の機会に話を伺ったことを思い出します。その時には、特定のことを必ずしも学んだわけではありません。しかし、お祈りの時に安心感を感じたみたいに、すぐには言葉にならない感じを感じていたことは確かですね。
その感じを、心の中で思い出し、確かめると、不思議に、確信に繋がる何かが湧いてきますよね。それは、共働学舎が「神は、神を愛する者達、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ人への手紙第8章28節)から、採られているように、神様のご計画に繋がるものです。創世記で神が創造し終わるたびに「良し」とされましたね。万事は「良し」としてくださるのが神のご計画です。
でもね、神も仏も信頼していない人は、今日も心配になるかもしれませんね。そういう方たちのために、エリクソンの翻訳を私は毎日してんですからね。神様のご計画に一番近いのが、エリクソンが繰り返し書いている a sense of 'I' 「≪私が生きている≫心の習慣」なんですよ。それは、周りから与えられるものではありません。それは、あなたが内側に感じるもの、あなたの内側から湧き上がるものです。
これが本物の力の源です。なくすことのない元気の源です。
「ムラ社会」のあなたも、お試しくださいね。