エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

再び立ち上がる力  驚きと価値を認められることが一体になる!

2013-04-30 04:29:00 | エリクソンの発達臨床心理
 とうとう、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeも最後の段落を迎えました。ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。それでは翻訳です。




 この儀式化のすべての過程に関して、ここに記しておかなくてはならないのは、儀式化にも儀式にも処方箋はないかもしれない、ということです。というのも、習慣という意味で単に繰り返されているとか、馴染みがあるとかいうのでは全くなく、真の儀式化であれば、生育歴に基づいてはいますが、それでも、湧き上がるような驚きに満ちているからです。湧き上がるような驚きとは、混沌としそうな所にハッキリわかる秩序が思いがけずに回復することです。このように儀式化は、驚きと価値を認められることが一体になっているかどうかに係っています。この二つが一体になっていることが、創造的なやり取りの要石ですし、本能的な混乱、自分を確かにできずにいること、それから、社会的無秩序から再生することなのです



 儀式化が本物であれば、驚きと価値を認められることが一体になっていると、エリクソンは言います。それはいわば「闇の中に光を見つける」体験です。あるいは、「迷子になっているときに、頼りになる人に見つけられる」体験だと言い換えることもできます。その原型は、少なくとも2つあると考えます。その一つは、人類に普遍的な遊び、「いない いない ばー」だと考えられます。「いない いない ばー」は、いったん自分を見失った相手が、再び自分を見つけてくれる(同時に、いったん自分が見失った相手を、再び自分が見つける)遊びだからです。もう一つは宗教的ですが、神に見捨てられたと思わざるをえない状況下で、神に見出される(同時に、神を見失ったと思わざるをえない状況下で、神を見出す)経験です。また、これらの原型を日常化して申し上げるとすれば、生きる意味を見失い、「死にたい」と思う様な状況そのものの中に、実は、今までとは次元の異なる、もう一つの生きる意味を見出すことができた体験ともいえるでしょう。
それは、映画「モダン・タイムス」の挿入歌Smileの世界に近いかもしれませんね。
 本日はこれまで。
 リクエストがなければ、Toys and reasonsからp.41~のSeeing Is Hopingを翻訳する予定です。




 
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日常生活の礼拝 の要素の一覧表 一つのヴィジョン

2013-04-29 04:59:56 | エリクソンの発達臨床心理

 

 前回は,礼拝の果たす役割について、エリクソンは少なくとも2つを挙げていました。それによって、死をも意義深く位置づけるので、もう怖がらなくてもいいものになります。
 さて、今回はToys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、成人期の第4段落の翻訳です。ラストツーです。







 私は、生育歴をたどる中で認めることができるいくつかの,日常生活の礼拝の要素を一覧してきましたが、日常生活の礼拝の要素の大まかな漸成発達の表を提供しましょう。その表は議論をしたり、研究をしたりするのに役立てばと思います。その表が示すのは、個々の人の発達段階を統合するのに役立つ,日常生活の礼拝のそれぞれの要素が、主な日常生活の礼拝に根源的な要素をどのように提供するのか、ということです。その主な日常生活の礼拝は、社会基盤となるいくつかのしきたりを結びつけることに役立ちます。すなわち、その主な日常生活の礼拝は、宇宙の秩序に対する信頼、自分の感性に従う感じや分別がある感じ、理想の役割と悪の役割のヒエラルキー、科学技術の基本、世の中全体の様々な見通しを結びつけることに役立つのです。

日常生活の礼拝の発達

 

乳児期 お互いに価値を認め合う          
幼児前期  | ↓ 善悪を区別する        
遊びの時期  | ↓  | ↓ 筋立てを共に創る      
学童期  | ↓  | ↓  | ↓ 実際にやってみる役割    
青年期  ↓↓  ↓↓  ↓↓  ↓↓ 確信を強める  
大人の礼拝における要素 ヌミノース 分別 筋立て きちんとやる ヴィジョンを持つ 世代間で価値を認め合う








 以上が成人期の第4段落の翻訳です。「日常生活の礼拝の発達」の表は実際には最後に出てくるのですが、この段落で表を示すと言っているので、ここに掲げることにしました。
 さて、ここでも、日常生活の礼拝が、私どもの様々なしきたり、ものの見方を統合し、一つのヴィジョンに結びつける、そのことが確認されましたね。
 本日はここまでです。次回はこの文章の最後の段落です。最終回です。


 次の文章を何にするか、ご希望があれば、コメントしていただければ、幸いです。ただし、Toys and Reasonsからにしたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

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儀式が果たす役割って、結局何? 死はもう怖くない

2013-04-28 05:27:49 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は老人の知恵の役割、すなわち「統合」がテーマでした。人生の苦難をも「価値あるものと認める」力が、老人の知恵の役割、「統合」でした。
 今回は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、成人期の第3段落の翻訳です。Ritualization in Everyday Lifeも残すところ3つの段落のみです。それでは翻訳です。





 儀式が果たさなくてはならないことは何なのか、私どもはもうわかります。子どもの頃のいくつかの儀式化を結びつけ、再確認し、また、世代間でお互いを認め合うことを肯定することによって、儀式は大人の暮らしを確かなものにするのに役立ちます。そのとき、大人がいったん人生を賭け、勢力を注げば、新しい人々を生み出し、新しいものとアイデアを作り出すこととなります。もちろん、人生の巡り会わせと習慣を、全体の行き先を示す一つの意義深いビジョンと結びつけることによって、儀式は、指導者たちやエリートばかりではなく、そのビジョンを共有するひとりびとりに、永遠の命という感じを生み出します。そして、まぎれもなく、日常生活の儀式化によって、死がすべての生活の背後にある不可解な謎であることを、大人たちは忘れることができますし、また、そのように求められます。疑う余地がないことですが、日常生活の儀式化によって、風土、歴史、技術を同じくする他者と分かち合った世界観の明白な現実を、大人たちは優先できますし、また、そうするように求められもします。儀式という手段によって、実際に死は、そのような現実の意義あるひと区切りとなります。





 これで成人期の第3段落の翻訳は終了です。どうでしょうか?
 今回のところも記述が凝縮していますので、補って翻訳したところがあることを申し添えます。
 さて、エリクソンによると日常生活の儀式化には、少なくとも2つの役割があります。ひとつは、死があらゆる生活の背後にあって、いつも生きることを脅かす不可解な謎であることを、大人になった私どもは忘れることができるし、忘れることを求められることです。もうひとつは、社会で共有されている世界観の明白な現実を優先できるし、そのように求められます。そして、死は意義深い一区切り、けじめとなるわけです。その時、死はもう怖いものではなくなるでしょう。
 しかし、今の日本で問題なのは、明確な世界観が崩れて、ビジョンが見つからずに、多くの人がその閉塞感に苦しんでいる点にあるのではないでしょうか?
 本日はここまで。

 後2つの段落で、この文書の翻訳が終了です。次に翻訳してほしいものがありましたら、Toys and Reasonsの文書の中から、リクエストをしていただければと思います。コメントにでも、ご希望を記してください。よろしくお願い申し上げます。
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老人の知恵を甦らせる陽気な無邪気さ

2013-04-27 05:37:35 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は「うわべだけの権威」についてエリクソンが簡単に述べている箇所の翻訳でした。
 今回は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、成人期の第2段落の翻訳です。





 
 しかしながら、「老人の知恵」に関する言葉は、儀式のある生活の中で、このように、重たい責任があるけれども、次世代の人を価値あるものと認める役割を果たします。儀式化が課す老人の責任は、統合であると私は思います。その統合こそ、人生の巡り合わせの意味を価値あるものと認めてくれます。私はブレークの詩を読むたびに、ブレークから教えられることは、老人の知恵は、最もうまくいけば、陽気な無邪気さによって、(再び)命を与えられる、ということです。老人の伝統的な役割は、儀式が秘める英知を体現するならば、私が知恵に対して行った解釈を擁護してくれるでしょう。ところが、現代のような生き方をしていると、また、おそらく、少数の頑強で例外的な人ではなく、多くの人が長生きするのを目の当たりにしていると、「老人の知恵も、おもちゃとしてさえ、ちょっと幼稚じゃないの」とブレークは言っているのでは、といぶかる向きも出てくることでしょう。老人になる前の数年間は、「絶望」や「嫌悪感」に避けがたくさらされる中で、私は単純な「統合」の強さを主張してきました。その単純な「統合」の強さに、子どもたちはピィピィッと気づきます。だからこそ、年寄りたちと子どもたちはお互いに親しみを感じるのです。しかし、もちろん、老年期もそれ独自の儀式主義を備えています。つまり、賢明であることを愚かにも装うことですが、「賢人顔」とでも呼んではいかが?




 これで、成人期の第2段落の翻訳は完了です。どうでしたか?
 ここもエリクソンの記述は凝縮していて、無駄がない感じです。しかも、とてもとても重要です。この本のタイトルとも関係します。みすず書房の本のタイトルは『玩具と理性』ですが、ここを読めば、このタイトルが誤訳であることがはっきりしますしね。Toys and Reasonsは、「(子どもの)おもちゃと(老人の)知恵」を示していることは明らかです。たぶん翻訳者はブレークの詩もみていないでしょうね(Toys and Reasonsはブレークの詩からの引用です)。
 老人の知恵には、とてつもなく大事な役割があることが分かります。すなわち、人生の巡り会わせの意味を価値あるものと認める働きです。それをエリクソンは「統合」と呼びます。長く生きて、人生の苦難を実際に体験し、しかもその苦難さえ肯定しているからこそ、人生の様々な巡り合わせにも「肯定的な価値がある」ことが分かるのです。不思議なことですが、老人が(実際は、老人だけではないですが)そのような感じ・気持ちで生きていると、そのことに子どもはピィピィッと気がつきます。その時子どもは、その人に近寄ってきたり、笑顔になったりしますね。実に不思議で、実に面白いと感じます。
 それとは対照的に、「賢者顔」の人も、権威主義の類の人と同様、きっと「難しい顔」をしているのでしょうね。
 本日これまで。





 
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#自信はあっても空威張 #権力の乱用と私物化 「#難しそうな○○」

2013-04-26 04:38:56 | エリクソンの発達臨床心理

 前回は、大人の日常生活を礼拝にすることは「次の世代を生み出す」要素を,日常生活を礼拝にすることに付け加えることが示されましたね。エリクソンが言う大人は、したがって、次世代の人々を価値あるものと元気づける存在だと言えます。しかし、まず大人になるためには、次世代の人を価値あるものと認め、元気づける前に、初めに,自分自身が価値あるものと認められ、元気になっていなくてはならないこともはっきりしましたね。ですから、「自分を大事にするように、あなたの隣人を大事にするはずです(大事にしなさい)」なのでしょう。
 今回は、前回翻訳し残した部分の翻訳です。すなわち、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、成人期の第1段落後半の翻訳です。p.111,下から10行目途中から。

 今日から,ritualizmは,「儀式主義」のいう従来訳は止めにして,「日常生活を形ばかりの礼拝にすること」とします。最近,再び,実に鮮やかに,その「日常生活を形ばかりの礼拝にすること」に参加することが許されたからです。日常生活を礼拝にすること」は,いつでも,どこでも,命の再生元気を取り戻すチャンスになるものですが,「日常生活を形ばかりの礼拝にすること」では,命はないので,逆に,命を殺がれ元気を無くすチャンスになります。

 







今や女性たちが私どもに世の中に対する新しいイメージを見せてくれる時代ですし、家父長的な権威が多くの綻びに苦戦しているときに、逆戻りできないほどはっきりしてきたことは、男性優位が,いかに,礼拝の中で大事とみなされる権威に依存してきたか、ということです。すべての権威に含まれる重い責任という観点から見れば、次世代を生み出す,大人の日常生活を礼拝にすることに対応する、特別な「日常生活を形ばかりの礼拝にすること」は、自信はあっても、空威張り,と相場が決まっています。お好みなら、「権力の乱用と私物化」と呼んでもいいです。しかし、ここで私どもは、すでに記した,日常生活を礼拝にする際の大人たちの役割と,実際の儀式の問題に至ります。この話題には触れますが、ここでは扱いません。





 短いですが、成人期の第1段落の後半の翻訳は完了です。
 次世代を生み出す,大人の日常生活を礼拝にする際には,次世代の人を繰り返し肯定し、元気にする役割を担います。

 「自信はあっても、空威張り」ではその逆の存在です。そのような「自信はあっても、空威張り」の人は、エバっていても、子どもたちや市民たちを否定し、「君には価値はない」と態度で示すような尊大な人と言えるでしょう。子どもや市民たちを前では「難しい言葉」を使って、「難しい顔」をして、「難しいお話」をしてはいても,肝心な話は「非公開」「黒塗り」にする輩です。アベ詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちを想像すれば,分かりやすいでしょ。
 

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