この儀式化のすべての過程に関して、ここに記しておかなくてはならないのは、儀式化にも儀式にも処方箋はないかもしれない、ということです。というのも、習慣という意味で単に繰り返されているとか、馴染みがあるとかいうのでは全くなく、真の儀式化であれば、生育歴に基づいてはいますが、それでも、湧き上がるような驚きに満ちているからです。湧き上がるような驚きとは、混沌としそうな所にハッキリわかる秩序が思いがけずに回復することです。このように儀式化は、驚きと価値を認められることが一体になっているかどうかに係っています。この二つが一体になっていることが、創造的なやり取りの要石ですし、本能的な混乱、自分を確かにできずにいること、それから、社会的無秩序から再生することなのです
儀式化が本物であれば、驚きと価値を認められることが一体になっていると、エリクソンは言います。それはいわば「闇の中に光を見つける」体験です。あるいは、「迷子になっているときに、頼りになる人に見つけられる」体験だと言い換えることもできます。その原型は、少なくとも2つあると考えます。その一つは、人類に普遍的な遊び、「いない いない ばー」だと考えられます。「いない いない ばー」は、いったん自分を見失った相手が、再び自分を見つけてくれる(同時に、いったん自分が見失った相手を、再び自分が見つける)遊びだからです。もう一つは宗教的ですが、神に見捨てられたと思わざるをえない状況下で、神に見出される(同時に、神を見失ったと思わざるをえない状況下で、神を見出す)経験です。また、これらの原型を日常化して申し上げるとすれば、生きる意味を見失い、「死にたい」と思う様な状況そのものの中に、実は、今までとは次元の異なる、もう一つの生きる意味を見出すことができた体験ともいえるでしょう。
それは、映画「モダン・タイムス」の挿入歌Smileの世界に近いかもしれませんね。
本日はこれまで。
リクエストがなければ、Toys and reasonsからp.41~のSeeing Is Hopingを翻訳する予定です。