エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

身体の動かし方が、対人関係の形を決めることに、こうして気づきました

2015-04-30 07:32:28 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「原始」社会の方が、赤ちゃんに対して寛容なんですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p35の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 身体のいろんな部位に関係する、赤ちゃんの対人関係のやり方を、よくよく見てみる時、基礎英語に助けを求めることにしましょう。と言いますのも、その節約した言葉の使い方のおかげで、私どもにも、あらゆる言葉で根源的な、こういった行動が、伝わって来るからですし、体系的な比較もできるからです。

 

 

 

 

 赤ちゃんの時の口の動き、お尻の動きなどに、対人関係における基本的な形がある、ということに気付いたことも、無意識の存在に気付いたことに次に大事な、精神分析の業績です。

 

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見つめられると、困るけれど・・・

2015-04-30 07:06:33 | アイデンティティの根源

 

 自信に満ちたルターは、表情や姿勢も変幻自在です。

 Young Man Luther 『青年ルター』p196の第3パラグラフ10行目途中から。

 

 

 

 

 

顔に関して強い葛藤がありました。そういって、特に才能に恵まれた、ずる賢く、しかも厳しい男の抑圧された性質を暴くものだと、臨床家なら分かります。そういう男は、自分ではどうすることもできない恐れや激しい怒りを抱いているのです。このように葛藤を抱えた表情ゆえに、ルターの温もり、ウィット、子どものような正直さは、まるで無邪気なものであったに相違ありません。それに、自分の性格に関して行き届いた規律がありましたから、それは人格がずたずたにされることなどめったにありませんでした。ルターは眼を見られるのが嫌いだと言われていましたが、それは、ルターは自分が考えている時には気持ちが表れてしまうことを恐れていたからでした(同じことはフロイトにも当てはまることでした。フロイト自身が認めていることですが、フロイトが精神分析の治療のやり方を決めたのは、「見つめられること」に対する抵抗があったからです)。

 

 

 

 

 見つめられると、気持ちが読まれるんじゃあないのか? それは葛藤が強く、不安が高い人にはありがちですね。フロイトも、ルターも、そして、その気持ちがよく分かったエリクソンも、もともとはそういう人だったんですね。

 

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「ミニ」と「大」のあいだ

2015-04-30 01:43:49 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ミニと言っても、ミニスカートのことではありません。今日、アメリカの上下両院の場で、あの安倍晋三首相の演説がありました。その呼び出しに、「プライム・ミニスター・オブ・ジャパーン…」とありました。同時通訳者は「日本国内閣総理臣…」とすかさず訳します。

 改めて私は、「ミニ」は、日本に来ると「」になっちゃうんだ、と感じたわけですね。

 ミニスター minister(英語)は、語源的にはラテン語のministerに遡るそうですね。このラテン語のministerは、さらには、ラテン語のminus「より小さい」という意味の言葉に遡ると言います。このラテン語のministerは、servant「仕える者」「奉仕する者」という意味だそうですね(The Oxford American Dictionary and Language Guide, p.630)。

 これは、安倍晋三首相が、マイナスな存在だから、「より小さな」存在だから、ことさらに自分を大きく見せようとして、大見得を切ったり、大声を上げている、ということではないんですね。いま、ライブで安倍晋三首相の演説を聴いていますが、事実としては、たとえ、そのように針小棒大な安倍晋三首相であっても、です。

 英語のministerは、研究社の『リーダーズ英和辞典』によれば、名詞としては、1)(プロテスタント)聖職者、牧師、(カトリック)ミサの司祭、(フランシスコ会など)修道会総会長など、2)大臣。動詞としては、1)聖職にある、牧師をする、2)召使の役をする、仕える、尽くす、(病人などの)世話をする、面倒を見る、役立つ、という意味になります。

 欧米では、政教分離の原理が進んだとしても、もともとは、ミニスターは、「神に仕える」という意味であり、「国家や組織を超越した存在に仕える」という意味があることが言葉に含まれていることを忘れてはいませんね。

 かたや、日本。国やムラを超えたものがありません。加藤周一さんによれば、日本社会と文化の特色は3つあると言います。加藤周一さんは、「競争的集団主義、世界観の此岸性、超越的価値の不在、その時間軸への投影としての現在主義…また、極端な形式主義と極端な「気持」主義の両面を備えた価値の体系が、典型的な日本人の行動様式の典型」といいます(「日本社会・文化の基本的特徴」『加藤周一コレクション5 現代日本の文化と社会』p.34)。ですから、国やムラを超えたものに奉仕する、役立つ、という発想は非常に弱い、ないしは、皆無のなりやすい。それだから、組織や国の長たる者は、「ミニ」ではなくて、「大」になるのだと考えます。「大」だから、「自分は何でもできる」、などと必ずしも思わないでしょうけれども、「大」が「数」を得た場合、「『数』があるうちに、何でもやろう」ということが生じてくる、これが安倍晋三首相の今やってることの実態だと考えます。すなわち、「強い者」、アメリカには、愛玩犬よろしく尻尾を振るけれども、「弱い立場の人」、こども、女性、高齢者、障害者、沖縄、東北には、高飛車な態度をとっているのだと考えます。そして、その政権下の「お役人」と「お役所」も同様な態度なんだと考えます。

 その中にあって、敢えて言えば、「憲法」が唯一、国やムラを超える可能性を湛えている存在と言えるでしょう。立憲主義とは、≪超越≫的価値に道を開く可能性があるからです。ですから、この、どうしようもないナチズムの安倍晋三首相とその政権下の動きに対しては、常に憲法を生かす姿勢で対処することが何よりも大事になる、と私は考えますね。

 

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「原始」社会の、本物の豊かさ

2015-04-29 09:41:59 | エリクソンの発達臨床心理

 

 子育てが豊かであれば、その社会は「原始」社会でも豊かです。子育てが貧困であれば、近代都市社会であっても、貧困の極みと言わなくてはなりません。もちろん、現在の日本社会は、その貧困の極み社会です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p35の第2パラグラフ7行目途中から。

 

 

 

 

もともとスー族の子育てにあったものを再現してみて、信じるようになったことですが、それは、後ほど議論することになる、赤ちゃんの時期の根源的信頼が最初に確立されるのは、子育てをしている母親が、無制限といっていいほど、気配りをしてくれるばかりではなく、物惜しみしないで関わってくれるおかげだ、ということです。歯が生えてきた時期の間もまだオッパイを含ませながら、その母親は、潜在的な凶暴性を目覚めさせかねないやり方で、その赤ちゃんの身体的にはすでに準備が整った激しい怒りを、陽気に悪化させるようになるかもしれません。これがのちのち、いつものあそびに、その後は仕事にと道をきらくことになったことは明らかです。それは、餌食や敵に対する十分な攻撃性を求めることになる、狩りの仕事や戦争の仕事になります。このようにして、私どもが結論を得るのは、原始的な諸文化というものは、赤ちゃんの頃の身体の経験と対人関係の経験に対して、身体の部位の働きや対人関係のやり方の「正しさ」を強調するために、特定の意味を与えることを遥かに超えて、細心の注意を払って、しかも、体系的に、目覚めたのは良いとしても歪められてきたエネルギーに道を開くように思われる、ということです。原始的な諸文化は、赤ちゃんの不安に、継続的に自然界を超越する意味を与えることになります。この赤ちゃんの不安は、このような激しい怒りに付け込まれてきたものでした。

 

 

 

 

 赤ちゃんの不安に対して、癇癪を大人が起こさないための仕掛けが、原始社会にはチャァンとありました。それは、赤ちゃんの不安にチャァンと皆が納得できる意味を与えていたおかげでした。だから、赤ちゃんが不安な表情をしたり、泣きだしても、寛容に、気前よく母親が対応することが、社会的に認められていました。そして、人間にとって必要不可欠な、エッセンシャルな根源的信頼を、赤ちゃんの時に豊かにすることができる社会に、「原始的」社会はなっていたわけでした。近代都市に住み、あらゆる文明の利器に囲まれた私どもと、「原始的」社会の住む彼らのどちらかが豊かなのかは、もう議論の余地がない、と私は考えますね。 

 あなたはどう考えますか?

 

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コンプレックスが強みに代わる時

2015-04-29 08:14:22 | アイデンティティの根源

 

 マルティンは、いわばコンプレックスの塊です。しかし、それが無駄でなかったのですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p196の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターは説教をしていると、修道士だったマルティンとはまるで別人でした。ルターの態度は男らしく、背筋も伸びていましたし、ルターの話は落ち着いていて、キッパリしたものでした。この若い頃のルターは、決してデブでも、太りすぎでも、丸顔でもありませんでした。それは晩年になってからの話でした。ルターは骨太で、頬には深いしわを湛え、不屈で、とがった顎をしていました。その眼は、茶色で小さく、当時の人に残した印象からすれば、人を惹きつけてあまりあるものだったに違いありませんね。ルターの両目は、時には大きく突き出ているように見えましたし、またある時には、小さく窪んでいるように見えました。時には、深く底知れないもので、また時には、星のようにキラキラとし、鷲のように鋭い目つきになり、雷のように怖ろしくもあり、正気を失ったように憑りつかれている場合もありましたね。

 

 

 

 

 

 自信のなかったマルティンが、自信に満ち満ちたルターになりました。それは表情や態度にもハッキリ表れます。

 

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