エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

良心の出来方。良い良心と悪い良心

2013-03-31 09:31:32 | エリクソンの発達臨床心理
 閲覧数を見とる、私の能書きよりも、翻訳の方が人気があるようです。今日はToys and ReasonsのRitualization in Everyday Life に戻ります。
 その前に一言付け加えます。それは、前回「意識」「良心」がともに、「共に見る」ことを基盤にすることを指摘しましたが、今回の翻訳は、まさに「良心」がいかに誕生するのか?ということを、儀式化の流れの中で解説している部分です。

 それでは、翻訳です。





 幼児期と分別 : 言葉と律法


 人間の儀式化において第2の基本的要素は、もし最も適当な言葉があるとすれば、それは「分別がある(judicious)」という言葉であると思われます。なぜなら、「分別がある」という言葉は、jusとdicere、つまり「律法」と「言葉」の組み合わせだからです。私どもは、アメリカンインディアンのユーロック族が日々食事を摂る際の儀式化において、是認と否認を示す言葉と言葉の調子にまぎれもなく現れている、善と悪、浄と不浄を峻別することが、生育歴の中で育まれ、心の中の良心の声と関わるばかりではなく、目に見える律法とも関わりを持つようになる、ということを、すでに見ました。ついには、分別があることが、あらゆる人間の儀式の欠かすことのできない要素になります。というのも、最後の審判に至るまで、是認されるのか、それとも、その外側なのか、を厳しく区別しないような儀式は、一つもないからです。
 2番目の儀式化の生育歴上の源は、人生の2番目の発達段階にあります。この2番目の発達段階は、心理社会的な自律性が急に成長するところに、その特色があります。ハイハイをして、結局は自分の足で立つことができるようになることは、「自分はできる」という気持ちを強めることに役立つので、その気持ちはすぐに、「ダメ」と言われることをやりたがる気持ちになります。もしも、最初の赤ちゃんの時の発達段階に、「希望」の土台を割り当てるとすれば、第2の発達段階、つまり、幼児期に根っこがある基本的な力は「意志」であると考えます。認知力が、筋力や移動する力とともに、新たに身に着いて、お母さん以外の人とともやり取りが増えるので、自分の意志を外に表す時や、自分の意志を発揮できるし、そうしてもよいと分かる時に、ますます嬉しくなります。これこそが、「自由意思」に人間がたいそう心奪われる、生育歴上の源なのです。「自由意思」は、自己主張できる領域はどこまでなのか、に関する自分の判断を他者と調和のあるものにしようとする、日常生活の儀式化において、実験の場を探し、そして、見つけ出すことになることでしょう。しかし、直立歩行で自分の足で立つということは、あらゆる方向から見られることにもなりますし、後ろからさえ、自分には見えない自分も、見られることも意味します。第2の発達段階で手に入れた自律性そのもの、すなわち、わがままから生まれ、自己コントロールする力がコントロールできる意志を、自分は持つ一人の人間なんだという感じ、その自律性は、すぐにその限界に出くわすことになります。その限界に気付くのは、自分が目上の人たちに見張られ、いろんな名前、時には動物の名前で呼ばれていることに、私どもはふと敏感に気付いてしまう時なのです。さらに厄介なことに、私どもは恥を知っていますし、見ることすべてに対して顔を赤らめるものです。笑われることを避けようとするようになることは、自分自身を外側から見つめて行動するようになることですし、自分の意志を、私どものことを価値判断する人達の見方に合わせることでもあります。しかし、このことは、心の中に自分自身を見張る見張り、フロイトが超自我と呼んだものを育てることも求めることになります。超自我とは、文字通り、他の自分自身を見張っている部分の自分自身であり、私どもに、忌まわしい自分の姿を突きつける部分の自分自身でもあります。このようにして、私どもは自分自身を、価値のない、罪深い存在として軽蔑するようになります。さらには、時として裁かれた時だけホッとするほど残酷に、自分自身を軽蔑しがちなのです。そればかりか、自分自身と向かい合うことができるのは、まるで這うものを強烈にさげすむように、他者をさげすむ時だけになります。そのときは、自分は最低なわけではない、と主張できますし、自分はましな方だと言い立てることもできるからなのですね。これこそ、共に見ることに対して、この発達段階が生育歴上役立つことなのです。


 




 第2段落の途中ですが、本日の翻訳はこれまで。


 「良い良心」と「悪い良心」の話が、今回翻訳した文章に出てきましたが、気付きましたでしょうか?「良い良心」とは、尊敬と、価値を認めることと、喜びが多い、非審判的で寛容な良心のことですが、「悪い良心」とは、軽蔑と、価値を引き下げることと、恥が多い、審判的で容赦のない良心です。詳しくは、今後の翻訳の中でお確かめください。
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「共に見る」ことの不思議!

2013-03-30 03:37:25 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、「見ること」が実に奥深い意味を宿していたことを、エリクソンは教えてくれていましたね。幼児前期の翻訳に入る前に、エリクソンが前回教えてくれたことを、私なりにもう少し敷衍して、お話ししておきたいと思います。
 それは、前回の翻訳部分とも、もちろん、関係しています。エリクソンは、一人の人(赤ちゃん)の中で儀式化が発展する時に、地域の人の「共に見る」ものの見方にどのように役立ち、あるいはまた、何を求めるのか、という疑問(いまさっき、そのように書き直しました)を提示していましたね。つまり、赤ちゃんのものの見方が、世間一般のものの見方、すなわち、世間の人々が物事をどのように「共に見る」ようになっているのか、ということと、どのように関係しているのか、を問題にしていましたね。とても大事な“視点”です。
 ここで、私は白川静先生のように(自画自賛でゴメンナサイ)、言葉の語源にさかのぼって、「共に見る」ことを考えておきたいと思います。

 日本語で「共に見る」と言っても、ピンと来ないかもしれません。しかし、ヨーロッパ諸語で「意識」と「良心」を示す言葉の語源が、元々は「共に見る」ことを示していることを知ると、ちょっと「あ~は、そうなのね」という感じになるのではないでしょうか?
 英語では、「意識」は、consciousnessですし、「良心」は、conscienceですね。いずれも語源をさかのぼれば、ラテン語のconscientia(con=「共に」+scientia=「知ること」〉が語源ですし、さらに遡れば、ギリシャ語のσυνείδησις(συν=「共に」+είδον<όρϖ=「見る」「見て知る」「見て分かる」〉syneidesis(シュネーデシス)」が語源です。「良心」は、ドイツ語では、Gewissen、フランス語では、conscience、イタリア語ではcoscienza、など、いずれも「共に知る」ことを意味しています。フランス語のconscience、イタリア語のcoscienzaは、英語と同様、語源はラテン語のconscientia、さらにギリシャ語のσυνείδησις(シュネーデシス)」にさかのぼりますから、「共に見る」をもともと意味します。
 ここで「『見る』と『知る』は必ずしも同じではないのでは?」と疑問に思われる方がいるかもしれませんね。しかし、そうではないのです。英語のseeを思い出していただければすぐにわかると思うのですが、seeには「見る」と「知る」の意味があります。また、ギリシャ語のσυνείδησιςのείδον(エイドン)はόρϖ(ホロー)の第二アオリストという語形変化をした言葉で、「見て知る」「見て分かる」を意味します。日本語の「知」の字にさえ、「見抜く」という意味がありますよね。最も深い見抜く力でもある「英知」(wisdom)は、8番目の発達段階の老年期のVirtue(力・徳)です。ですから、「見る」ことは「知る」ことと繋がっているわけです。
 赤ちゃんの場合、お母さんと「共に見る」ところから出発して、そこから赤ちゃんの「意識」や「良心」が生まれ、そして、育っていくわけです。エリクソンは、その「意識」や「良心」をひとまとめにして、さらにアイデンティティとも繋げて、<私>(“I”)と呼んでいるのですね。そして、この「共に見る」は、目の前にある物事を「共に見る」ことばかりではなく、目の前にないこと、すなわち、過去を「共に見る」ことや未来を「共に見る」「共に見通す」ことから、この世にはない物事を「共に見る」ことまでも含んでいます。ですから、宗教的な意味で「信じる」「信頼する」ことも、「共に見る」ことの延長上にあるわけです。
 ひとりびとりの意識や良心、それに<私>(自分自身)が、お母さんと「共に見る」ことを出発点にしている以上、物事を「よく見る」こと、ポジティヴに、肯定的に見ることを身に着けていきたいものですね。

 今日はここまで。
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「見る」ことの不思議!

2013-03-29 04:14:36 | エリクソンの発達臨床心理
 「子どもをうまく育てられない」、それには、自己愛が深く絡んでいることをエリクソンは教えてくれましたね。うまく子育てが出来ないのは、その大人自身が「大事に育てられた」経験が乏しく、その時の寂しさや悲しさ、あるいは「私がこんなに我慢したんだから」などという不満が募って、知らないうちに(無意識に)、激しい怒りや、人を殺したいと思うほど深い憎悪を抱くに至っているのに、その本人はあまりそのことに気づいていないからなのです。それで、知らず知らずのうちに、「私だって、大事にされてこなかったんだから…」と冷たく、あるいは、無関心に、場合によっては、親切そうな振りを演じているけれども、内心は凍るような気持ちで、子どもに接してしまうのです。まさに、“赤ちゃん部屋のおばけ”ですね。
 さて、今日は「見る」ことの不思議です。「見る」という何気ないことが、こんなに深い意味を宿していたのか、と分かって、ほんと感動するほど嬉しくなる部分です。こういうところがあるから、エリクソンは止められません。

 それでは、翻訳です。




 またまた、最初の赤ちゃんの発達段階のところに長居をしてしまったついでに、私は私がプレゼンテーションをする際の基本方針も申し上げておきました。しかし、儀式化のそれぞれの要素について問わなくてはならない疑問が、まだ一つ残っています。すなわち、儀式化が、日々成長する子どもの中にとどまり、なおかつ、発展する時、儀式化は、地域に住む人々の「共に見る」ものの見方に対して、はたしてどのように役立ち、あるいはまた、何を求めるのか?ここで私どもがもう一度強調しておかなければならないことは、私どもが、生まれたときには仰向けに寝かされていたところから、直立歩行する種になるまで発達する過程で、視野が変化することです。
 人間の内的な構造は、今まで申しあげたように、人間の習慣とともに進歩してきました。人間は、初めは口が欲しいものや感覚に必要なものを満してもらいたいと願うけれども、それ以外にも、大切な親に見守られることも、その見守ってくれる眼差しに応えて見ることも願っていますし、また、親の表情を見上げて応答してもらうことも、見上げる(尊敬する)ことができる誰かに対して、応答し、見上げ(尊敬し)続け、期待することをも願っています。また、その誰かは、眼差しを返す、まさにその行為をする時に、自分をすくい(救い)挙げてくれる人でもあります。このように見てくれば、世間の「共に見る」ものの見方にある宗教的な要素が、最初の赤ちゃんの時の発達段階に対応することは、もう明らかです。「ヴィスコンティ時祷書」で、バルベロが聖母マリヤの死を描いた時、天にまします神は、お包みに包まれた赤ちゃんの形で、聖母マリヤの魂を自分の両腕に抱き、聖母マリヤの魂の眼差しに応えて眼差しを返しています。この絵は、実存すべてに投影するように、最初の赤ちゃんの時の発達段階をまとめて示してくれています。宗教においては、ものを見ることは啓示となり、天啓の光景、すなわち、たとえ、厳格な律法の下で、完全に見捨てられるかもしれないという、すさまじい恐れがあることが多いとしても、この<私>が永遠であることを確かに保証してくれる光景となります。ここにおいて、それぞれの宗教が、それ自身の政治的組織を持つのですが、本物の政治は常に宗教と競い合うことなります(政治は、ある時には宗教に加わり、そうしなければならない時には宗教を大目に見て、そうできるときには宗教を吸収する)。それは、政治が、あの世の命ではないにしても、この世の新しい計画と、ポスターに映る、カリスマ性をたたえた笑顔の指導者とを約束するためなのです。しかし、どんな儀式でも本物でありさえすれば、あらゆる儀式化を実際に役立つように組み合せた時と同様、このヌミノースという一つの要素が、他のすべての要素と統合されることになります。





 以上が翻訳です。

 これで、最初の赤ちゃんの時の発達段階のところは翻訳完了です。いかがでしたでしょうか?
 エリクソンも最初の赤ちゃんの時の発達段階が好きですが、私もこの段階の話が大好きです。根源的信頼感(基本的信頼)しかり、ちょっと難しいけれどもヌミノースしかり、救いが話題になるところもしかりです。人が根源的に嬉しいのは、金子みすゞさんの詩もそうですけれども、自分が大切な存在と「離れていても絆がある」し、また、大切な人とは「違っていてもいい(価値を認められる)」ことを実感する時ではないですか?
 エリクソンは、赤ちゃんを育てることを、時には具体的に、時には、心理的に掘り下げ、あるいはまた、宗教や政治も関連付けることを通して、その大事さを、実に分かりやすく、私どもに教えてくれていると思います。とってもありがたい方ですね。

 次回は、幼児前期(early childhood)と呼ばれる、やんちゃな時期の子どものお話です。乞うご期待です。
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今日は、そら恐ろしい、赤ちゃんの時の子育ての「負」の側面です。自己愛の病理でもあります

2013-03-28 05:08:43 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、赤ちゃんを育てることが、赤ちゃん=人の自分自身を育てる上で、とてつもなく大事なことを、エリクソンは教えてくれていましたね。今日は、それがうまくできない時の、そら恐ろしい部分が語られています。
では、翻訳です。


 しかし、私どもは一人の人の生育歴に従って進んでいく時、陽気な儀式化すべての影の部分である、人を欺きもすれば、自分自身をも欺く傾向についても意識していきましょう。私は広範な社会病理の一つの要素を、それぞれの発達段階において名付けようと思います。その社会病理の要素ために、儀式化は、あらゆる現実(議論してきたように三つの意味において)に対する整然とした関係において、「偽りの儀式化」、あるいは、もっと単純に「儀式主義」と呼びうるものにねじ曲がってしまいます。この「偽りの儀式化」ないしは「儀式主義」には、いろんな形があります。日常的な規則を強迫的に守ることから、ごまかしでしかない熱狂的な幻を、強迫的に繰り返し言い立てることまで様々です。こういった儀式主義の最初のものは、「偶像崇拝」と呼んでいいでしょう。それは、ヌミノースに対する畏敬の念を歪めてしまいます。このような「○○主義」は、もちろん、支配的な性格の形や重要な社会的傾向にふさわしいことが多いのですけれども、しかし、事実に対しても基本方針に対しても、遊びのある関係を失って、「今までもそうしているから」等と言って強迫的になる傾向があります。このようにして、ヌミノースは、赤ちゃんの世話をする時になくなってしまう可能性があります。世話をする態度(ここが肝心なところなのに)が、言葉の真の意味で、尊敬と深い愛情がある時に受け継がれる、心理的に世代間を結びつけることを成し得なくなってしまいます。「完璧でなければならない」という幻は、「自分は完全でなければならない」という幻想を含むものですし、偶像崇拝をする人と偶像との関係において現れるものですが、自己愛と呼ばれる自分に対する衝動的なこだわりの強さゆえに、歪められてしまうのです。自己愛(ナルシズム)とは、山上の池に映った自分の顔(自分の顔であると同時に、死んだ双子の妹の顔でもある)を捨て去るのではなく、自身が死んでしまった神話上の青年になぞらえたものです。すなわち、その青年は、二重の鏡に映った、永遠に続く自分の幻をずっと追い続けたのであって、目の前に生きている愛する相手に、命がけで賭けてみることをしなかったわけです。



 以上が翻訳です。

 ちょっと怖い内容ではなかったですか?そうでもなかったでしょうか?
 最近は、小さいときに自分を大事にされなかったために、自己愛が過剰な人がとても多いでしょう。このエリクソンの指摘は、実に生き生きとしていて、私はちょっと背筋がゾクッとします。特に、二重鏡の部分など、本当に「良くできている」と感じます。鏡に映った自分を、別の鏡に映した時に現れる、次第に小さくはなるけれども、無限に続く自分の顔。それが二重鏡(a double mirroring)です。自己愛は、終わりがない幻を追うものだ、とのエリクソンの教えは、実に見事でしょう。そんなことはさっさとケリをつけて、目の前の、隣の、すぐ近くにいる人(赤ちゃん、子ども、旦那、奥様、兄弟、ご近所の人…)を、自分が大事にされたように、“意識して”大事にしたいものですね。

 本日ここまで。
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赤ちゃんの世話を重荷ととらえるのか、喜びとするか? 金子みすゞも

2013-03-27 03:02:21 | エリクソンの発達臨床心理
 本田圭佑さんの「プロフェッショナル」良かったですね。「一流」と言われている人には、やっぱり、それだけの「心の習慣」があることが分かって、僕自身まで嬉しくなりました。

 それでは今日は、エリクソンのToys and Reasonsより、Ritualization in Everyday Life に戻りましょう。今日は第5段落です。赤ちゃんの世話は果たして重荷なのか? それとも喜びとするのか? です。

翻訳開始!



 赤ちゃんが毎日起きている間は、とても大きな負担であることを、以上のことは示しています。実際、儀式化の発達段階の全体の流れをよくよく見ないと、この赤ちゃんに対する欠くことのできない世話の一覧を、納得できないでしょう。しかしながら、精神病理学は、この赤ちゃんの時の負担が、いかに価値あるものかを教えてくれます。私どもが、生育歴を見て、「あっ、これは赤ちゃんの時期と関連するな」と感じる心理的課題のすべての中で、最も深刻で、津波のように根こそぎにダメージを与えるものは、(有名な心理学者のスピッツやボウルビーも示しているように)お互いの価値を認め合い、希望を抱くという光が、自閉的で精神病理的なあきらめの中で、赤ちゃんの時に失われることなのです。なぜなら、赤ちゃんの時にいくら価値ある存在ですと認められても、儀式化を通して繰り返し安心感を与えることになる経験そのものが、実は、日々成長している赤ちゃんに対して、一連の憎しみにもさらす事実を目の当たりにする時、繰り返し価値を認め続けることが、すぐにでも、大いに必要になるからです。こういった消極的なことも、発達段階を今後扱う中で、明確にしていかなくてはならないでしょう。この最初の赤ちゃんの段階で、離れ離れにされ、見捨てられたと感じたことを、その後の親しい関係やややり取りの中で、その子どもをいくら繰り返し価値があると認めても、完全に克服することは難しい、と申し上げておきます。他方、赤ちゃんの時にかすかでも「あなたは価値がある存在ですよ」と認めておくこと、神聖な存在を感じるこの感じは、人類が儀式を作り出すことに対して、ヌミノースと呼ぶことが最も適切な、普遍的な要素を与えることになります。このヌミノースの名称を言えば、私が赤ちゃんの時から死ぬ時までたどろうとする意図がお分かりでしょう。実際、ヌミノースとは、あらゆる定期的な儀式にある信仰的要素で、必須の視点であることは、私どもも認めています。しかしながら、あらゆる慣習の中で、組織だった宗教の慣習ほど、ヌミノースに責任を持つことを強く要求するものはありません。信頼する者(信じる者)は、適切な身振りをすることによって、自分が頼りにしていることと、子どものように信頼して(信じて)いることを告白し、また、ほどほどに献金することによって、神様のちょうど胸のところに抱き上げられる特権を確かなものにしようとします。神様は、微笑みをたたえ顔を傾けて、親切に応答して下さる、と見られているのかもしれません。私たちは、ヌミノースのおかげて、「離れていても絆がある」し、「違っていてもいい(価値がある)」と信じることができるし、「<私>という感じ」の土台も、このように信じることができます。すべての人を慈悲深く抱きしめてくれる「私はいまここにいる」と御自分のことを呼ぶ神様を、共に信頼する(信じる)気持ちを分かち合う、「<わたし>」と自分のことを呼ぶすべての人々が、お互いに価値を認め合うことによって、「<私>という感じ」は日々新たにされます(と感じられます)。



 
 以上が第5段落のすべてです。
 エリクソンは、赤ちゃんの世話が重荷と言っていたでしょうか?それとも、赤ちゃんの世話を喜びとすると言っていたでしょうか?


 赤ちゃんの時の根源的信頼感(基本的信頼)が、自分自身=<私>の土台であること、その<私>は、神を信頼する人たちがお互いに認め合うことを通して、常に新たにされなくてはならないことが示されていましたね。また、根源的信頼感(基本的信頼)の中身は、私は(赤ちゃんは)お母さんと「離れていても絆がある」し、私は(赤ちゃんは)お母さんと「違っていてもいい(価値がある)」と感じることだということも、示されていたかと思います。
 根源的信頼感(基本的信頼)とは、そういうことなのね、ということが分かると、金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」という詩を思い出した方もいたかもしれません。次にそれを示しておきますね。

    私と小鳥と鈴と

   私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面を速くは走れない。

  私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。

 詩に解説は蛇足であるのはもちろんですが、敢えてそうすることを許していただければ、この詩も、根源的信頼感(基本的信頼)の、少なくとも半分をはっきりと示しているからこそ、人の心を打つのでしょう。

 今日はこの辺で。



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