閲覧数を見とる、私の能書きよりも、翻訳の方が人気があるようです。今日はToys and ReasonsのRitualization in Everyday Life に戻ります。
その前に一言付け加えます。それは、前回「意識」「良心」がともに、「共に見る」ことを基盤にすることを指摘しましたが、今回の翻訳は、まさに「良心」がいかに誕生するのか?ということを、儀式化の流れの中で解説している部分です。
それでは、翻訳です。
幼児期と分別 : 言葉と律法
人間の儀式化において第2の基本的要素は、もし最も適当な言葉があるとすれば、それは「分別がある(judicious)」という言葉であると思われます。なぜなら、「分別がある」という言葉は、jusとdicere、つまり「律法」と「言葉」の組み合わせだからです。私どもは、アメリカンインディアンのユーロック族が日々食事を摂る際の儀式化において、是認と否認を示す言葉と言葉の調子にまぎれもなく現れている、善と悪、浄と不浄を峻別することが、生育歴の中で育まれ、心の中の良心の声と関わるばかりではなく、目に見える律法とも関わりを持つようになる、ということを、すでに見ました。ついには、分別があることが、あらゆる人間の儀式の欠かすことのできない要素になります。というのも、最後の審判に至るまで、是認されるのか、それとも、その外側なのか、を厳しく区別しないような儀式は、一つもないからです。
2番目の儀式化の生育歴上の源は、人生の2番目の発達段階にあります。この2番目の発達段階は、心理社会的な自律性が急に成長するところに、その特色があります。ハイハイをして、結局は自分の足で立つことができるようになることは、「自分はできる」という気持ちを強めることに役立つので、その気持ちはすぐに、「ダメ」と言われることをやりたがる気持ちになります。もしも、最初の赤ちゃんの時の発達段階に、「希望」の土台を割り当てるとすれば、第2の発達段階、つまり、幼児期に根っこがある基本的な力は「意志」であると考えます。認知力が、筋力や移動する力とともに、新たに身に着いて、お母さん以外の人とともやり取りが増えるので、自分の意志を外に表す時や、自分の意志を発揮できるし、そうしてもよいと分かる時に、ますます嬉しくなります。これこそが、「自由意思」に人間がたいそう心奪われる、生育歴上の源なのです。「自由意思」は、自己主張できる領域はどこまでなのか、に関する自分の判断を他者と調和のあるものにしようとする、日常生活の儀式化において、実験の場を探し、そして、見つけ出すことになることでしょう。しかし、直立歩行で自分の足で立つということは、あらゆる方向から見られることにもなりますし、後ろからさえ、自分には見えない自分も、見られることも意味します。第2の発達段階で手に入れた自律性そのもの、すなわち、わがままから生まれ、自己コントロールする力がコントロールできる意志を、自分は持つ一人の人間なんだという感じ、その自律性は、すぐにその限界に出くわすことになります。その限界に気付くのは、自分が目上の人たちに見張られ、いろんな名前、時には動物の名前で呼ばれていることに、私どもはふと敏感に気付いてしまう時なのです。さらに厄介なことに、私どもは恥を知っていますし、見ることすべてに対して顔を赤らめるものです。笑われることを避けようとするようになることは、自分自身を外側から見つめて行動するようになることですし、自分の意志を、私どものことを価値判断する人達の見方に合わせることでもあります。しかし、このことは、心の中に自分自身を見張る見張り、フロイトが超自我と呼んだものを育てることも求めることになります。超自我とは、文字通り、他の自分自身を見張っている部分の自分自身であり、私どもに、忌まわしい自分の姿を突きつける部分の自分自身でもあります。このようにして、私どもは自分自身を、価値のない、罪深い存在として軽蔑するようになります。さらには、時として裁かれた時だけホッとするほど残酷に、自分自身を軽蔑しがちなのです。そればかりか、自分自身と向かい合うことができるのは、まるで這うものを強烈にさげすむように、他者をさげすむ時だけになります。そのときは、自分は最低なわけではない、と主張できますし、自分はましな方だと言い立てることもできるからなのですね。これこそ、共に見ることに対して、この発達段階が生育歴上役立つことなのです。
第2段落の途中ですが、本日の翻訳はこれまで。
「良い良心」と「悪い良心」の話が、今回翻訳した文章に出てきましたが、気付きましたでしょうか?「良い良心」とは、尊敬と、価値を認めることと、喜びが多い、非審判的で寛容な良心のことですが、「悪い良心」とは、軽蔑と、価値を引き下げることと、恥が多い、審判的で容赦のない良心です。詳しくは、今後の翻訳の中でお確かめください。
その前に一言付け加えます。それは、前回「意識」「良心」がともに、「共に見る」ことを基盤にすることを指摘しましたが、今回の翻訳は、まさに「良心」がいかに誕生するのか?ということを、儀式化の流れの中で解説している部分です。
それでは、翻訳です。
幼児期と分別 : 言葉と律法
人間の儀式化において第2の基本的要素は、もし最も適当な言葉があるとすれば、それは「分別がある(judicious)」という言葉であると思われます。なぜなら、「分別がある」という言葉は、jusとdicere、つまり「律法」と「言葉」の組み合わせだからです。私どもは、アメリカンインディアンのユーロック族が日々食事を摂る際の儀式化において、是認と否認を示す言葉と言葉の調子にまぎれもなく現れている、善と悪、浄と不浄を峻別することが、生育歴の中で育まれ、心の中の良心の声と関わるばかりではなく、目に見える律法とも関わりを持つようになる、ということを、すでに見ました。ついには、分別があることが、あらゆる人間の儀式の欠かすことのできない要素になります。というのも、最後の審判に至るまで、是認されるのか、それとも、その外側なのか、を厳しく区別しないような儀式は、一つもないからです。
2番目の儀式化の生育歴上の源は、人生の2番目の発達段階にあります。この2番目の発達段階は、心理社会的な自律性が急に成長するところに、その特色があります。ハイハイをして、結局は自分の足で立つことができるようになることは、「自分はできる」という気持ちを強めることに役立つので、その気持ちはすぐに、「ダメ」と言われることをやりたがる気持ちになります。もしも、最初の赤ちゃんの時の発達段階に、「希望」の土台を割り当てるとすれば、第2の発達段階、つまり、幼児期に根っこがある基本的な力は「意志」であると考えます。認知力が、筋力や移動する力とともに、新たに身に着いて、お母さん以外の人とともやり取りが増えるので、自分の意志を外に表す時や、自分の意志を発揮できるし、そうしてもよいと分かる時に、ますます嬉しくなります。これこそが、「自由意思」に人間がたいそう心奪われる、生育歴上の源なのです。「自由意思」は、自己主張できる領域はどこまでなのか、に関する自分の判断を他者と調和のあるものにしようとする、日常生活の儀式化において、実験の場を探し、そして、見つけ出すことになることでしょう。しかし、直立歩行で自分の足で立つということは、あらゆる方向から見られることにもなりますし、後ろからさえ、自分には見えない自分も、見られることも意味します。第2の発達段階で手に入れた自律性そのもの、すなわち、わがままから生まれ、自己コントロールする力がコントロールできる意志を、自分は持つ一人の人間なんだという感じ、その自律性は、すぐにその限界に出くわすことになります。その限界に気付くのは、自分が目上の人たちに見張られ、いろんな名前、時には動物の名前で呼ばれていることに、私どもはふと敏感に気付いてしまう時なのです。さらに厄介なことに、私どもは恥を知っていますし、見ることすべてに対して顔を赤らめるものです。笑われることを避けようとするようになることは、自分自身を外側から見つめて行動するようになることですし、自分の意志を、私どものことを価値判断する人達の見方に合わせることでもあります。しかし、このことは、心の中に自分自身を見張る見張り、フロイトが超自我と呼んだものを育てることも求めることになります。超自我とは、文字通り、他の自分自身を見張っている部分の自分自身であり、私どもに、忌まわしい自分の姿を突きつける部分の自分自身でもあります。このようにして、私どもは自分自身を、価値のない、罪深い存在として軽蔑するようになります。さらには、時として裁かれた時だけホッとするほど残酷に、自分自身を軽蔑しがちなのです。そればかりか、自分自身と向かい合うことができるのは、まるで這うものを強烈にさげすむように、他者をさげすむ時だけになります。そのときは、自分は最低なわけではない、と主張できますし、自分はましな方だと言い立てることもできるからなのですね。これこそ、共に見ることに対して、この発達段階が生育歴上役立つことなのです。
第2段落の途中ですが、本日の翻訳はこれまで。
「良い良心」と「悪い良心」の話が、今回翻訳した文章に出てきましたが、気付きましたでしょうか?「良い良心」とは、尊敬と、価値を認めることと、喜びが多い、非審判的で寛容な良心のことですが、「悪い良心」とは、軽蔑と、価値を引き下げることと、恥が多い、審判的で容赦のない良心です。詳しくは、今後の翻訳の中でお確かめください。