トマスによる福音書では、見失った羊は、一番デカい羊。それは「本当の自分」だから。
p353第3パラグラフ。
羊飼いが見失って「いない」大多数の羊を危険にさらして、見失った一匹の羊を負うこと危険を議論することが従来多くありました。あるいは、エレミアスが示しているように、羊飼いは群れのその他の羊の安全を確保してから、見失った羊を追ったら良かったのに。私の集団心理的な向きのために、私は、動物がたくさんいるだけで「一定の」安全がある、と「ある種の」群衆的本能から、感じざるを得ません。でもね、神やらイエスやらが、見失いかけた一匹に、こんなに排他的な注意を払ったのは、果たして正しかったのか? と疑問に思わない方が不思議です。この一匹が見失ったものだと聞いて、もちろん、私どもが自分自身を思い起こさなければの話ですが。
見失った一匹が、いくらデッカクても、99匹よりも大事だ、というのでは、経済功利性の上からは、説明になりませんでょ。お金で考えたら、そうですもんね。でも、その見失った一匹が、自分自身だとしたら? それは自分を失って何かを得たとしても、それはすべてを失ったに等しいわけですから、その一匹を何が何でも、探し出すことになる訳でしょ。
ですから、ルカによる福音書第9章25節には次のように書かれています。前田護郎先生の翻訳でお示しします。
25人が全世界をかち得ても、自らを失いまたは損したら、何の利得があろう。
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