#顔も恵みであると同時に呪いでもある発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間7......
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』。 P.99,3行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
生涯を通して,日常生活は,善と悪,淨と不浄を区別する境界線を不動にします。これらの善悪などの分別の境界線が,大人の世界の中にある善悪などの分別を言葉にする暮らしの中で,あらゆる日々の礼拝に当てはまる善悪などの分別の判断基準を,一番正しいもの(訳注:であるかのように)にします。その日々の礼拝では,人間は,神様の教えに身も心もピッタリと従いますし,礼拝の進め方の細かいところにも全体にも目を配ります。礼拝に参加する人たちの現実をともに乗り越えた,神様を信頼する気配が匂い立って際立ちますし,共に分かち合っているもの全てを,互いに自分から分かち合いますし(願わくば,容疑者が自分の罪を告白する事も含まれてほしいものですが),そして,日々の礼拝こそは,決して手放し得ない1つの心の習慣です。
しかしながら,ルールを言葉にして出来事にすることを,仕事でも,自分の生活でも,実際に見て分かる中に,この日常生活を礼拝にする人生の習慣によって,母子2人がピッタリと一心同体になることがうまくいかない場合もあります。すなわち,赤ちゃんが我慢できて,うまく働く様々な分別の境界線が,世代から世代へと,悪い良心と戦いながら確信をもって伝えられなかった場合です。ルールを言葉にする日常生活を礼拝にする礼拝は,客観的には「ルールで」悪いことは,将来容疑者になるかもしれない者たちへの見せしめになることを確立する課題からも,「仲間内で正しいとされる行い」の点で,当てになる人に自分がなることからも,かけ離れすぎになる場合が多すぎです。司法制度は,正しい行いの点で,当てにならないことを助長しています。というのも,司法制度は,正しいと実感していることに自由に賛成する,というよりも,脅して強制的に同意させる,という方を強調するからです。つまり,司法制度は,確信をもって日々の礼拝を行うことよりも,悪い良心に犯されて,形ばかりのおざなりなお役所仕事を,優先しがちです。裁判所が,ビックリするようなノゾキ趣味を煽る時,被告を裁く中で,厳罰化が行われます。こういった悪い良心の支配された裁判は全て,容疑者を救いのない孤立に追い込み,その回復されぬままの激しい怒りをますます悪化させて,ますます恥知らずな犯罪に仕向けることになります。このように,(訳注:悪い良心が支配する)悪い礼拝の2番目に分厚い下層をなす原理が前面にお出ましになりますから,それを「お役所仕事」と呼べるかもしれません。お役所仕事とは,聖書の神様や法の精神を蔑ろにして,文字が勝っていることです。お役所仕事が現れるのは,本当の正義である心からの優しさを置き去りにして「正しいこと」を押し付けること,口先だけの「ごめんなさい」,容疑者や誰か他の人のためになることとはお構いなしに,容疑者をさらし者にして村八分にする厳罰化になります。こういった悪い良心に支配されたお役所仕事はみな,心が分裂する裏取引です。人間どもは,自分は正しいという気持ちも,自分が恥だという気持ちも(訳注:自分勝手に)作り出して,人間を上下2つに分けてしまう「政治的」な様々な取引も,裁判所が(訳注:人間の分を超えて,傲慢にも)作り出します。ここでも,日常生活を礼拝にすることができないことから生まれる心の病と,日常生活を礼拝にする習慣がうまくできないことを特色づける社会病理が,密接に関係していることがわかります。
ここで,まとめるために立ち止まってもいいでしょう,「聖書の神様が創造の前に天上から予定した」発達に従って,日常生活を礼拝にする礼拝の一つ一つの原理は,とても大切な人間らしい習慣の核になりますが,子どもの頃の1つの舞台に始まりますし,その後のすべての舞台の中で吸収され,新たにされます。この創造という道の中で,ヌミノースの原理も,ルールを言葉にする日常生活を礼拝にする礼拝の中にも繰り返し登場し,全てが義なる聖書にビッタリと合った人格の香り立つ気配となりますし,後には,聖書の神様や不動の正義といったイメージの中にあるのに気が付きます。あるいは,「義人」として,神様のイメージを体現することに人生を賭けた,具体的な人の中に現れたり,「正しさ」を生き方の中で嗅ぎ分けることに,現れます。しかしながら,こういったことは,ヌミノースの光そのものでもないし,ルールを言葉にする光そのものでもなくて,一つ一つの原理が,子どもの頃の特定の舞台にピッタリとくっ付いていて,大人の頃の特定の生活習慣の核になる訳ですが,日常生活を礼拝にする原理そのものが,1つの本物の日常生活を礼拝にする礼拝を「神様の身代わりで創造する」のです。まだ成長していない,後に続く原理も,ヌミノースの原理やルールを言葉にする原理と一体になります。後に続く原理の中で,この後で,「遊びが子どもの課題にピッタリの答えを出す」原理も論じますから,私どもを子どもの頃の遊びに連れ戻してくれます。また,「目に見える生き方が一体になる」原理も論じますから,小学生の終点まで私どもを連れ戻してくれます。それから,「神様の御心の中で共に自由になる」原理も論じますから,青年に課された神様からの義務にも私どもを連れ戻してくれます。
本気で遊ぶ年頃と感性通りに真似して :関わりを始めることと人真似
それでは,まず,感性通りに真似をする原理です。思い出さなくてはいけないのは,組み立て遊びの,2,3のテーマです。それは,真似をして遊ぶことは,「本気で遊ぶ頃」が大いに進歩したことに土台があることを理解するためなんです。「本気で遊ぶ頃」のおかげで,その子どもは,手に入るもので,「対立した命の回転,役割にピッタリとあっている予定表」と,かなり自由になる,解像度の高い見通しとを創造します。思い出しますでしょ。あの(訳注:黒人の5歳の)少年がブロックで作ったイメージからは,1人の,真っすぐに立った身体が,両手を広げて,ダンスを踊っているのが分かりましたでしょ。しかし,そのイメージは,その黒人の少年をイメージした人形そのものでしたでしょ。その人形は,遊びでイメージを作ったその男の子を,性別でも,年恰好でも,人種でも,封印している姿に思えましたし,仰向けでしたが,その人形は,そのイメージの中で一番高いところを占めていました。その人形になった黒人少年は,1つの対立の(訳注:を和解に導く)半神でした。その対立は,その主題の枠組みだけしか分からないだけではなく,その個人的な意味も十分には解釈できません。しかし,この少年が短い物語が指摘しているのは,1人の田舎者,あの蛇(ずっと,地獄にいるように,強く非難されています),と,このようにして,卑しさと邪悪な危険を象徴するものです。と同時に,かなり高貴な動物たちが,その田舎者でもある,あの蛇を征服し,破壊するように,委託されていました。両腕を広げたその人々は,ワクワクした気持ちを表していますし,おそらくは,罪を克服した歓びも表しているのでしょうか? その罪は,その人たちが今も感じているものです。
この2番目の発達の舞台は,一番困難で,一番大切な舞台です。発達トラウマ障害とも密接に関係します。
自分はダメだとする罪,悪い良心が,最大の課題になりますが,それはまさに,第2の舞台上に現れるからです。
子どもの遊びは,その罪の克服のテーマが現れることが,非常に多いんです。キリスト教のキの字も知らない子どもが,キリスト教がいう罪の問題に苦しめられていることが,非常に多いからです。
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