子どもの願いは、真実なものです。その願いを表現したものが、どれだけ粗暴なものに見えても、不可解に思える時でも、違いはありません。いずれも真実な最深欲求に根差すものです。
ですから、その子どもの願いに応えようとすれば、大人の側にもその真実さが求められるわけです。そして、この二人の関係が≪真の関係≫なのですね。そして、子どもの願いに応えようとすれば、親身にならずにはいられませんね。
P44下から4行目から。
親身になって人を大事にすることは、対等な関係の2人の間で≪真の関係≫をやることです。しかし、対等だと思っても、私どもは常に対等だとは限らない。私どもは人間である限り、私どもはすべて、他者からの支援を必要としている存在です。「明日は我が身」なんですね。しかし、この≪支援が必要≫ということが、その人が無力で、もう一人が強い、ということを意味するのではありませんでしょ。無力なのは一時なんです。自分の足で立ち、自分の足で歩けることは、ごく当たり前の、皆に共通することなんです。
フロムは大事な点を指摘しつつありますね。台頭ということです。しかし、強い者が、弱い立場の人と「対等」と思っても、たいていは強い者が圧倒的に有利な立場であるのです。しかし、このことは、強い立場の者は忘れがちなんですね。
強い立場の人は、弱い立場の人に対して、あえて「下」を意識的に選ぶとき、どうにか、弱い立場の人と「対等」になれる、と考えたほうが実際に近いですね。ですから、「理解する under-stand」という言葉は、良くできてますよね。人は敢えて「下」を選ばない限り、相手の人のことを理解することなど、おぼつかないのですから。その点を常に意識していたいものですね。
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