エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#新しい見通しの元

2021-02-14 05:56:46 | エリクソンの発達臨床心理
 
#大人になれないままで

  #聖書の言葉 #単独者の恵み #またまた創造の秘密 #聖書の言葉 #1人豊か #品性の出どころ 現世考 : 国谷裕子さんの,イメージを聞く力    創り出さ......
 
「発達トラウマ障害 Enpedia」
 ① EnpediaをGoogle検索
 ② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
 の二段階の検索が必要です。
 (Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業、です】が施されています)    
をご参照ください。  

Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
 第4節「毎日礼拝の復権」も、終了。
 第Ⅲ部の初め、「中垣に関する様々な見通し(壁にかかったいくつかの風景)」は,日常生活のいまここにキリストの光があることを教えて下さいましたね。

 今回は,p.130の,最後の、第2パラグラフから。
 今朝は、p.137の,第3パラグラフから。
 


 夢が究極的に試すのは,患者さんが幼い頃に体験した心の病と、人品が育つことをハッキリさせるのに、役立つ計画です。夢はどうして「心から自由になる場」になるのかなぁ? と問えば,創造の「初め」に向き直らなくてはなりません。(訳注:ドイツ語を話し、イタリア語やフランス語などロマンス諸語にも通じる若い女性)彼女が初めての面接に来た時,私が彼女に伝えたことは,「ソファーに横になって,私とは反対側に面してくださいね、それから,いろんな思いを自由に,その思いをありのままにイメージにしてください,どんなに痛くても、どんなに恥ずかしくても」ということでした。もう,その女性は私に夢を示している中で,「貴方の遊びを遊ぶ準備ならできてるわ」と言うかのように,私に挑戦状を叩きつけているようでした。夢が行き来する結界がハッキリと示しているのは,キリストの子どもの苦しい立場と彼女自身の苦しい立場は、仰向けに寝て下さい,と指示され,私を見ることはできないけれども,私の仕事では、話し言葉で様々な思い出を「思うままに」語る語りと呼んでいることが出来る,治療的礼拝に似ている,ということです。話し言葉で様々な思い出を「思うままに」語ってくれるおかげで,私は,自分が何で自分を恥じているのか分からずにいた様々な思いを覆っていたベールをはぐことが出来ます。とにかく,流れのままにと言う想いは,川のイメージと繋がっていますし,この女性の思い出がおしっこに集まっていることやこの女性を癒す結界の必要なこととも繋がっています。
 激しい怒りと恥と言う2つの気持ちの組合せができるのは,()の中の文字Eの意味に最後には辿り着く,とっても意味深い結界のお陰です。()の中の文字Eは,私のイニシャルですから,「感情転移」のカラクリを示していました。感情転移とは,すなわち,子どもの頃の大切な人に元々くっ付いていた,コンガラガッタ気持ちを,心から自由にしてくれる人にぶつけることです。この意味では,感情転移は,さらに深い思いに覆う覆いが取り払われる様に見ることもできます。そのさらに深い思いとは,「形勢逆転」して,「私をさらし者にし」たいという、この女性の願いでした。つまり,救い主の苦難と自分自身の苦難を共に,嘲りながら私にぶつけたんです。それで,いまここで,この女性が苦しめられた,自分がさらし者にされた受け身の体験を,よく知られている逆回転に従って,歩み寄って観るのが善いとする視点で,能動的に私に逆に回してきたんです。聖書の神様のいのちの結界では、歩み寄って観るのが善いとする視点が,子どもが生き生きと生きる舞台が出来るために創造されます。こういった理解の仕方をする場合だけ,この女性患者の恥を一層辱めることになりますが,それだけではなしに,無意識の悪戯を超えて,一緒に笑うことにもなりました。無意識の悪戯は,1つの言葉に込められたあらゆる意味を,カットして捨ててしまいます。
 ところが,ここで,私がこれまで従ってきたのは,この苦しい思いをしている女性が夢見る,多言語の夢のナゾナゾの中に示されている,イメージが持っている力強い志です。フランス語を話す読者の方は,少なくとも、言語連想からは,見逃していることに気付くだろうことは,seinという言葉に繋がっている,ということです。すなわち,sein 胸ですね。その次に,真実に,この苦しめられている女性がやり取りする中で思い出したのが,ショックを受けたもう1枚の絵でしたね。その絵はルーベンスの手に成るものですが,6つの胸のある女神を思い出したんです。明らかに「割礼」と正反対でしょう。というのも,この女神は,最高の豊かさという場を付け加えたからです。最高の豊かさという場では,他の場はすぐに立ち消えになります。しかし,最高の豊かさという場は,若い女性にとっては,女性の身体を「とても善い」と肯定することだったんですね。若い女性,当時は,女性の服装(【訳注:バストと背中を見せるように襟ぐりの深く取った】デコルテ)や,パリ市民の性を謳歌した習慣に、戸惑いながらも魅力を感じていたんです。それに,最初の絵は,仲間を作る赤ちゃんの頃に苦しんだ赤ちゃんのトラウマを指していましたが,第2の絵は,若い女性がのぞき見したいし,見せびらかしもしたいと願う願いを嵩じさせる、文化的な気を象徴していましたから、こうして、トラウマ全体に対する心からの優しさを求める音色と,いわば,繰り返しその求めをはねつけられたことが,心から自由になる結界で,いまここで,再現したんです。
 聖書の神様のいのちの家に2つ返事で赴く「最高の」恵みに与る最初の夢の中で,私どもが見て分かるのは,赤ちゃんの頃や思春期の頃のトラウマが,心から自由になる聖書の神様のいのちの家に行き来することです。このように直ちに光を放つほど互いに相手の隣人に成ることは,もちろん,めったにないことです。互いに隣人に成り合うことを,繰り返し共に大事にし合うことは,道徳的に怪しくバラバラになった沢山のことでも、長い時間を掛けて,陽気で楽しい歓びにすることから生まれます。この若い女性の割り当てが善しとしているのは,次々に自然に湧き上がるイメージに患者さんが三昧になるようにしてもらう時,陽気で楽しい歓びにすることは自分で自分を真っ当にする唯一無二の「創造的な」道をめげずに深める、ということですね。このことについて,バートラム・レビン(訳注:アメリカの精神分析医)が次の様に言っています。
 
「イメージのままのになっている過去を取り戻すことは,夢のイメージとして,(訳注:フロイトさんが言った)忘れ去られた子どもの頃の悲しい体験のイメージや、抑圧された子どもの頃の心の傷に対する新たな記憶などか否かに関わらず,ことをハッキリとさせて,自分を真っ当にしようとする試みも同然です」
 
 フロイトさんは,さらに上を行ってましたね。
 
「患者さん達の幻は,私には,自由にされ,陽気で楽しい歓びを味わう中で創造されるいのちの家も同然です、ことをハッキリとさせて,自分を真っ当にしようとする試みも同然です」
 
 終わりに私どもの間にあるのは,夢は,「壁に関する見方」2つに導いてくれる,ということですし、なかんずく,私どもの「身体に宿っているキリスト」がしてくださるのと同様,聖書の神様の息吹に共に吹かれる結界に居る1人にしてくれる,ということです。この2つの見方は、あの私どもの同じ心の中にあんですからる。壁に関する2つの見方の中で,私どもの自分の本音が本当にどっちを見てるかが分かります。自分の本音が本当にどっちを見るかの視座がいまここで私どもの間に授けるのは,すなわち,人は創造され発達するという見方とやり取りの中にある,心の中の私ならではの志です。私ならではの志ができますと,様々な体験に,人生のハビットと生かされている意味もできます。必ずハッキリするのは,その患者さんが「割礼」という一番遠いイメージにトラウマによる反応したことは,キリストが幼い頃に苦しんだその幼子とこの患者さんが一体になる心構えから来ていた、ということでしたし,聖書の神様のいのちの家では,キリストのいのちと死が示す,共に創造し発達する見通しの中からも来るものです。この女性が不安症になったのは,苦しむ幼い頃のキリストと一心同体に成ったために,理に適わない点も多いけれども,深く傷つけられると歓ぶ見通しを抱くようになった事実によって,来るものです。この女性が思春期後半において,キリストが幼い頃に苦しんだその幼子とこの患者さんが一体になる見通しが,パリ市民の空気の中で満開になった別の見通しと強烈な葛藤を引き起こしていたんです。すなわち,パリの空気に開花した見通しとは,エッチな誘いを,さらけ出したり、のぞき見したりするのを大目に見ることです。こういった(訳注:相対立する)2つの見通しがあったからこそ,その女性は,2つの待ったつ相いれない一心同体に成る相手がかわるがわる心に浮かんで,心乱されていたんです。この女性が広場恐怖症になったおかげで,2つの見通しの間で迷わずに済んだんです。しかし,心から自由になって大我になるという約束のお陰で,3番目の見通し,すなわち,光の約束です,光の約束は,2つにバラバラな2人とスピリットを繋いで,2人を一心同体にしてくれるキリストです。夢のスクリーンに映し出されたこの遊びが示すユーモアとピタリと腑に落ちる感じが明らかにしてくれる真実は,無意識の悪戯な力だけではなくて,夢見る者にはみ言葉の特別なギフトがあるということですし,また,ユーモアとピタリと腑に落ちる感じが示すのは希望です。父親の束縛から,心から自由になるおかげで,自由になった新しい女性に成れば,光を見通すだろうし,そうすれば,心から自由に日々感謝感激感動し,聖書の神様のいのちの一巡するのを見守り,自分の思いを楽しめる,いう希望です。その希望があれば,昔のキリスト者の見通しにも,いまのフランス人の見通しにも,フロイトさんたちの光の見通しが付け加わります。
 私どもの事例が示しているのは,夢でさえ,見通しを共に見ることになる,ということです。すなわち,「2人が共に約束し合う」ということです。私たちが知っているもう1つの夢は,まるで,やり取りしているみたいで,あたかも前に見たことがあるなぁ,って感じる場合が多いんです。ところが,決して分からないのは,自分の夢は例外ですけれども,人に伝えることができない夢と,熱心に伝えたいと願ったり,教えてほしいと思われたりする夢の違いです。さらには,自分自身の夢を研究しだせば,私どもが夢見る目的は,夢を研究して,大事なが見通しあり,その大事な見通しを伝えるためにあると腑に落ちるためだと分かります。フロイトさんは夢には大事な見通しがあると気高く示した様に,苦しめられている者たちは,自分の夢を語るものですし,自分の夢を語るはずだと知ってんです。すなわち,自分の夢を語ることは,人を育てる奉仕の生き方で,しかも,聖書の神様の結界を共に拵える生き方の中にあるんです。たとえば,ユング派が診る患者さんとフロイト派が診る患者さんが,根っこから違って見えるのは何故かと言えば,手に取って分かる夢のイメージが違うからです。こういった夢は,聖書の神様の結界の中では,それぞれの「学派」の見通しを振り返って,思い出しているように見えますね。ですから,癒し合う仲間は,人に優しい「結界」の香りがするんでしょうか? しかし,聖書の神様の聖なる創造は全ては,腑に落ちれば,合点がいくのは,夢はウソを申しません,ということです。
 1つの例が否応なく示しているのは,私ども魂を自由にするお手伝いをする者は,それほど明確ではない文脈の中で,相手を心から自由にしなくちゃならんことです。つまり,心から自由になる「最高の」場は,聖書の神様に通じています。つまり,思うままに自由に話すことができれば,意識に新たなゆとりが生まれ,今まで気づかなかった聖書の神様にいのちに与る結界があることに気付き,過去を目の前に置くこともできます。しかし,また腑に落ちるもう1つは,気高く背筋を伸ばして立つ信頼iによって,培ってきたことです。すなわち,聖書の神様を信頼する信頼が深まれば,2人は,顔と顔を合わせて省み合い,聖書の神様のいのちが一巡して2人が感謝感激感動すること,お互いにやりとりする生きた習慣の中に自分から歩みゆる自由が豊かにある って,アーメン本当だねと腑に落ちて分かります。もしも,聖書の神様の結界では,礼拝を工夫することが「礼拝する者が対等」という特色があるかどうかで研究…すれば,聖書の神様の結界は、「壁を作って、自分を上にする」行動は最小限にするものだという結論に達しなくてはなりません。共に不動にされて自由にされるようにするからです。それに,(アドラーさんが長年抗議したように)人が「壁を作って、自分を上にする」行動をしがちな側面があることが,歴史的に資本家と労働者の2つに分極化することで人の苦労も大きく二分する中で,マルクスは,苦労に苦労を重ねて,物が母親の様に子どもを育むイメージを作り出したんです。
 私はこれまで声高に様々な流れの中で申し上げたのは,「壁を作って、自分を上にする」行動の様な自惚れ・自己愛の場には,両手いっぱいに心から自由になることです。心から自由になる心構えは,内なる結界の恵みに夢中になることです。聖書の神様のいのちが漲る結界の中では,心から自由になる心構えは,私どもが「内的促し」と呼ぶものと心からの約束することって、こういうことなんだと腑に落ちることです。あるいは,「心の習慣」と呼ぶものと心からの約束することって、こういうことなんだと腑に落ちることです。たとえば、日ごろ私と思っている小我と、その小我の上に立つ悪い良心の関係とかね。仲間内の習慣は,「外で自分が育つ」一部になります。仲間内の習慣は,心に去来することを映し出す馬鹿デカいスクリーンなんです。私が驚き感動しながら,殊更に申し上げたいのは,心の習慣と仲間内の習慣が,聖書の神様のいのちが一巡する結界の中で,補い合い,互いに相手の為に共に居る生き方なんですね。聖書の神様のいのちが一巡する結界の中で、補い合い、助け合って生きる歓びの時,患者さんの心の中で起きたことが示すのは,成育歴はひとりびとりが生きるのは人類皆兄弟・山川草木悉仏性という見方のお陰ということ事実以上のことを教えてくれる,ということです。この成育歴は、ひとりびとりが知っていることや告白したことを遥かに超えている場合がほとんどです。人類皆兄弟・山川草木悉仏性という見方は,宗教的な世界の見方の中でも、政治的な世界の見方の中でも、文字通りイデオロギーやら,輝かしいニューディール政策やらと意識的に見えても、なんとなく、一つの「生き方」に見えても,ひとりびとりが。聖書の神様の創造を信頼して共に不動になり根っから自由になっているのか、大なり小なり、心の中で、あるいは、世間で、狡賢いクモの巣にやられて身動きが取れないままでいるかです。
 このような研究のお陰で私どもがよりよく理解できることは,魂が自由になる,という名にふさわしい革命的な治療法は,その名の通り,新しい人が生まれるというヴィジョンをもたらしてくれます。魂が自由になる生き方やイメージの中で新しい人が生まれるというヴィジョンを善く調べることは,レイ・シェファーさんが『実感に対する魂を自由にするヴィジョン』に関して印象的なことを述べていることから始めましょう。この文書の中でレイが述べているのは,心から自由になる見通しがあるおかげで,聖書の神様の台本通りに不動に成り心から自由な生き方ができる、ということです。悲劇でも、喜劇でも、風刺劇でも、恋愛劇でも。レイはまた,「聖書の神様から生かされている実感を頂く見通し」について触れています。
 
 
 見通しという言葉は,様々な心に重なる判断なんですね。その判断は聖書の神様のいのちの下に立つことから来るんです。すなわち,イメージを巡らすことや確信のある信頼は,いくら啓発的であっても、複雑なものであっても,現実を、他でもない特定の視点から見るの,ということを必ず含みます。見通しが影響を及ぼすのが,事実と事実同士の関係と事実の意味を決めることであるように、見通し同士の諍いも,「いま見えてること」を論うだけでは解決できません。見通し同士の諍いを,見解の相違、と見做せば、間違いでしょう。
 
 
 心から自由になる「生かされている実感を体感する見通し」を自分のものとする時,ロイさんも、心から自由にされた新しい人のイメージを打ち明けています。心から自由にされた新しい人は,フロイトさんが養い体得したスピリットであったことは,間違いありません。
 
 
 呼びかけに応えて,選んでいく生き方が、心から自由にされて生きる生き方に加わるにつれて,向こうからやって来る光が,「こんなはずじゃぁなかった」と諦めていたことに降り注ぎます。それで,苦しめられてきた人が心から自由にされると,苦しむことに巻き込まれると分かることを、故意に,しかも,涙を流しながら,しかし、み心に適う生き方として,選ぶようになります。それと同時に,て来る光が,「こんなはずじゃぁなかった」と諦めていたことに降り注ぎます。それで,苦しめられてきた人が心から自由にされると,ますます自由になって、生涯心からの歓びを生きて,眼に見える危険や苦痛をなくしてくれる,主なるキリストを生きる私を育むことになります。
 
 しかし,繰り返し認めなくてはならないのは,心から自由になる中でこの力強い台本の気配は,文字通り,聖書の神様のいのちの一巡とピッタリだから,その気高き気配の輝きを体感する見通しも,分かちあうことになります。それは、まるで、聖書の神様がいのちを切り出して、薬にした時の中で、気高き気配の輝きはハッキリしますからね。よくよく養うことが大事なのは,このような「晴れ晴れとした」見通しが,現代社会でもその見通しを携えて,たたき上げの人が,聖書の神様のいのちが一巡する結界で見た見通しにピッタリなだけじゃなくて,勇気を頂く居場所も示しているように思われます。この大事な居場所も、「自分は十分に自由になった」と(訳注:勘違いした)人間が抱きがちな「人間を上下2つに分けるウソ」の餌食に力づくでされた時もありました。「自分は十分に自由になった」と(訳注:勘違いした)人間は,居ても立っても居られない気持ちや空想は何とかなると勘違いしますし,ありのままそのものに上手に合わせて,正面から受け止めていると勘違いします。どうして「自分は十分に自由になった」と(訳注:勘違いした)人間になるのかは、自惚れの見方の中でよくよく調べなくてはならんでしょうね。それも、最後にお示ししなくてはならないのは,自惚れの見方を善く調べることの他にもっと善い所はない、ということでしょう。
 このように,心から自由になる中で頂くこの力強い台本の気配の仲に、新しい生き方を作り出す人を善しとすることがあるのかもしれませんよ。新しい生き方はこっちですよと指さす人は,陽気で楽しい歓びの中から見通しが生まれることについて,多くのことを教えてくれますし,それは新しい生き方が示す見通しです。
 
 
 
 まことに不思議なことですが,新しい見通し,新しい生き方は,深い悲しみの中にある陽気で楽しい歓びから生まれるようです。
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