老年期の、disdain ディスデイン 「人を人とも思わない、底意地の悪い気持ち」。
成人期の、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」。
いずれも、その当人そのものが無意識の圧倒的な暴力にされされてますから、自分では止められません。周りの人が止めるのも、相当難しいものですね。でも、こういう人って、結構いるんですよ。本人はもちろん、周りもそれとは気付かないだけ。
The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p68、下から11行目途中から。
もちろん、一定のロジックはあんですね。人の中で、人の世話を(本能的に)することを(本能的に)仕上げることが、一番「馴染のある」相手、あるいは、一番「馴染のある」ことにされた相手を好んで選んでいることに対して。実際、次世代を育むことも出来なければ、よく世話も出来ないのは、ある程度ハッキリと、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」で選ぶことがない場合でしょ。まさにこういう理由のために、倫理、法律、洞察が、ある集団の中で、我慢できるrejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」(を出して良い範囲)を定義しなくてはなりません。それは宗教の信念体系や価値の信念体系が、特定の幅の社会を好む、なるべく誰もが受け容れられる原理を守り続けなくてはならないのと、一緒です。
このrejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」の幅は、実に様々なんですね。これは、日本のように厳罰主義になれば、その幅は非常に広くなり、非常に多くのケースが、「ダメだ」と裁かれることになります。したがって、ルターの話とも重なりますが、「ねばならない」感じの真面目人間が幅を利かすことになります。でも、そうであればあるほど、息詰まる空気が蔓延すんですけれどもね。空気が薄くなんですけどね。たとえば、特にその手の真面目人間が多い教員が、子どもたちにエッチなことをして、懲戒免職になる事案が次から次へと起るでしょ。「ねばならない」が強いからなんですけどね。無意識の圧倒的な暴力の侵されてんですね。
それに比べて、フィンランドは、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」の幅が狭い。修復的司法の国ですから、クリスティー教授の指導よろしく、「いいよ」と認められるケースが非常に多い訳ですね。こうなれば、新鮮な空気、濃い空気に包まれますね。
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