中世の神学では、神が存在するのかどうかが決定的に重要でした。しかし、中世の人々にとっては、神が存在することは自明のことでした。
Young Man Luther 『青年ルター』のp187の3行目から。
実在論は、観念の世界が本当に存在する、ということを前提していました。実在論が聖遺物に対する物心崇拝(それはあの世からのメッセージで、まるで空から降ってくるひとかけらの流星のようでした)と非哲学的に手を結んだことは、聖トマスが、亡くなったすぐ後で、同僚によって釜茹でにされてから、積み上げられ、やり取りできるまでになった骨から、朽ちてゆく肉が切り離された、という事実以上にうまく示されたためしがありませんでした。
日本ではありま知られてないことが議論されています。
実在論は「聖遺物」(イエス・キリストや聖母マリアの遺品とされた物)を崇拝することと結びついていたようですね。ショッキングなことですが、トマス・アクィナスの遺体も、修道士たちが一部を保存し、一部は食べちゃったようです。
いまではちょっと考えられませんが、人肉食(カニバリズム)は当時はそんなに「異常」なことではなかったようですね。
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