日頃あまり意識しないだろう「≪私≫という感じ」は、「私」の中心であるばかりではなくて、イキイキ・ピチピチ生きる上で不可欠ですから、いくら強調していも、強調し足りませんね。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p86の第2パラグラフから。
ここで私どもは、知的関心の中にある不思議な盲点に出くわしますね。この≪私≫は、傲慢な響きのある、生き方であったり、人格論であったり、言葉であったりしますが、辞書の中にも、心理の教科書の中にも見つかりません。フロイトは、もともと、ドイツ語の同義語の Ichを使ったことは、慣例上、ego エゴと翻訳されます(エリクソン、1981)。それと同時に、ichは、≪私≫ I という意味があることも明らかです。フロイト(1923)は、このIchを、「あらゆる意識が頼っている経験の「直接性」と「確実性」」のこととしたことも、明らかです(太字にしたのは、エリクソン)。これは、単純に2つの意味がある、ということではなくて、とっても大事な考え方の輸入です。
フロイトのよれば、「私」は、経験したことが自明で確実であると言います。私が確かにあると思えなかったら、それはかなり重たい精神疾患です。そうでなければ、「私」くらい自明で、確実なものはありません。エリクソンに言わせれば、私は自明で確実なものだ、とすることが、大事な輸入品だ、という訳です。
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