今宵も、Childhood and Society 『子どもの頃と社会』の至言は、一回お休みして、昨日に続き リチャード・コート著 木鎌安雄訳の『笑いの神学』(聖母文庫)、Cote, Richard G. Holy Mirth: A Theoty of Laughter, The Alpine Press, 1986から。P.82-83の至言から。
私がここで「魂の退屈」と申し上げていることは、心が寂しく悲しくなることです。心が寂しく悲しいままでは、眼の前の≪いまここ≫が、いかに素晴らしい瞬間なのかが分からなくなります。退屈の果てしない繰り返しとなれば、毎日福音を伝える務めが、いかに気高いものかを見失ってしまいます。…神様のユーモアにある、深い真理と美しさのお陰で、毎日の暮らしが、倦怠ではなくて、チャンスとなります。私どもの魂が眠っているようなところにこそ、1つの答えが隠れていることに気付かせてくれます。神様の悦びは、思いがけないところに、ありえないタイミングで、隠れているものですし、そうであればこそ、神様は、ユーモアの分かる人を悦ばれるわけですね。
毎日が退屈、と感じる人は、感性が鈍磨しているのです。魂が新鮮さを失っているのです。それはつまり、視座が「通念」に縛られている、ということです。
ユーモアとは、視座をいつでも「弱い立場」「低い立場」に持っていけることを意味します。それは、視座をいつでも「通念」の縛りから解放させることに通じています。このように、自由に視座を変えることができますと、面白み、可笑しみ、愉しみ、微笑みを、いつでも、どこにでも、見つけ出すことができるんです。
あなたも、毎日を楽しくしてみませんか?
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