これも、先日会員さんと話をしていた(飲んでいた)時の話。
合気道は、力と力がぶつかり合う事を嫌う
その為の技術として、「力を流す」「捌く」というものがあるのだと思う。
これが「崩し」として、自分に有利な技へと導く事ができるのである。
と、これは技術的理想論ともいえる。
この合気道の考え方が、「人生でも同じですね?」と会員に言われた。
私個人の意見であるが、正にその通りだと考えている。
そして、その方はこうも言っている。
「人生も逃げてはいけない。逃げると、その問題は追ってくる」
「でも、その都度ぶつかってばかりいては、身が持たないし、うまい方法ではない」
「だから、ぶつかった難問は、逃げるのではなく、捌いていかないと…」
以上に私は、若干合気道的な技術論も絡めて、以下お話したい。
「逃げる」と言うことは、護身的には正解であり、無駄に戦うよりは「逃げる」ことをお勧めする。
しかし、ここで言っているのは、「人生における必要な壁(難題)の様なもの」との対し方と解釈して欲しい。
例えば、仕事であるプロジェクトをしている時に、目標を遂行するために目の前に立ちはだかる問題等。
また、プロジェクト撤退に際しても、取らなくてはならないフォローや次回に繋げる解決したい問題などである。
逃げる=背を向ける事は、武道的にも弱点をさらけ出し、対応が出来ない状態の体になっている。
これでは、うまく逃げ切れればいいが、下手すれば自分が大怪我をしてしまうし、命を失う事もありえる。
人生でも、武道でも、逃げるという行為は「次のチャンスが与えられない、死の可能性が高まる行為なのである」
では、ぶつかり合った方が良いのか?
自分にそこそこ力があれば、何とかやっていけるであろうが、もっと凄いモノが現れたらそれで力負けしてしまう…
第一、ぶつかってばかりでは、心身共に持たない!
あなたの周りでも、何かと相手の意見を聞かずに自己主張を繰り返したり、喧嘩っ早い人達との付き合いは、疲れてしまうでしょう?
だから「捌く」と言うことが重要なのだろう。
「捌く」とは、「逃げる」事でもないし、「避ける」というだけでもない。
合気道の技の組み立てで言うと、「目的の技へ繋げる為の効果的な崩し」と言えるのではないだろうか?
本来の技に繋げるのであるから、相手に合わせ過ぎていては技がかからない。
しかし、相手の力を合わせないと、合気道の技へ効果的に相手を導く事ができない…
故に、「捌く」とは非常に高度で難しいと考えられる技術でもある。
人生においても、「捌きの達人」に行き着くには、一朝一夕にはいかないだろう。
私の教える、少年・少女部で先日話をした。
新しい会員の為に、改めて「礼儀作法」の指導をした。
既存会員も出来ている訳ではないが、「何度かやったもの」なので、「何で自分達もやらされるのか…」と言う雰囲気が思いっきり出ていて、全く集中していなかった。
まぁ、子供にとっては、技に比べて面白い内容ではないので、仕方ないともいえるのだが…
そこで、私の雷が落ちる!
「お前ら、自分が出来るからやらなくていいのか!」
「逆に出来るから、新しい人に手本を見せなきゃいけないんじゃないのか?」
「それをいい加減にやりやがって!合気道は、一人では稽古のできない武道だぞ!自分しか見ないで稽古に取り組むな!相手を思いやれるようになれ!」
etc.
かなり長い間お説教をした。
話は戻るが、この「自分だけ見ている」人間も「捌く」対応の出来ない人種である。
捌きは、「相手の出方を合わせていく(そう導く)」動きであるから、自己中心的では決して辿り着けない領域である。
そう考えると、合気道とはその技術の中にも、教訓となる非常に面白いエッセンスが入っている魅力ある武道だと思う。
一応、リアルを標榜する当団体においても、技術が実際に使えるのかどうかの検証の他に、このような技の理合をしっかり考え、時には人生に反映させて考えてみる行為は非常に良い事であると考える。
こういうところへ思いを馳せる事が、人格形成の一因にもなっていると思う。
故に、何度も言うが、合気道にも「道」という言葉がついているのだと思う。
合気道は、力と力がぶつかり合う事を嫌う
その為の技術として、「力を流す」「捌く」というものがあるのだと思う。
これが「崩し」として、自分に有利な技へと導く事ができるのである。
と、これは技術的理想論ともいえる。
この合気道の考え方が、「人生でも同じですね?」と会員に言われた。
私個人の意見であるが、正にその通りだと考えている。
そして、その方はこうも言っている。
「人生も逃げてはいけない。逃げると、その問題は追ってくる」
「でも、その都度ぶつかってばかりいては、身が持たないし、うまい方法ではない」
「だから、ぶつかった難問は、逃げるのではなく、捌いていかないと…」
以上に私は、若干合気道的な技術論も絡めて、以下お話したい。
「逃げる」と言うことは、護身的には正解であり、無駄に戦うよりは「逃げる」ことをお勧めする。
しかし、ここで言っているのは、「人生における必要な壁(難題)の様なもの」との対し方と解釈して欲しい。
例えば、仕事であるプロジェクトをしている時に、目標を遂行するために目の前に立ちはだかる問題等。
また、プロジェクト撤退に際しても、取らなくてはならないフォローや次回に繋げる解決したい問題などである。
逃げる=背を向ける事は、武道的にも弱点をさらけ出し、対応が出来ない状態の体になっている。
これでは、うまく逃げ切れればいいが、下手すれば自分が大怪我をしてしまうし、命を失う事もありえる。
人生でも、武道でも、逃げるという行為は「次のチャンスが与えられない、死の可能性が高まる行為なのである」
では、ぶつかり合った方が良いのか?
自分にそこそこ力があれば、何とかやっていけるであろうが、もっと凄いモノが現れたらそれで力負けしてしまう…
第一、ぶつかってばかりでは、心身共に持たない!
あなたの周りでも、何かと相手の意見を聞かずに自己主張を繰り返したり、喧嘩っ早い人達との付き合いは、疲れてしまうでしょう?
だから「捌く」と言うことが重要なのだろう。
「捌く」とは、「逃げる」事でもないし、「避ける」というだけでもない。
合気道の技の組み立てで言うと、「目的の技へ繋げる為の効果的な崩し」と言えるのではないだろうか?
本来の技に繋げるのであるから、相手に合わせ過ぎていては技がかからない。
しかし、相手の力を合わせないと、合気道の技へ効果的に相手を導く事ができない…
故に、「捌く」とは非常に高度で難しいと考えられる技術でもある。
人生においても、「捌きの達人」に行き着くには、一朝一夕にはいかないだろう。
私の教える、少年・少女部で先日話をした。
新しい会員の為に、改めて「礼儀作法」の指導をした。
既存会員も出来ている訳ではないが、「何度かやったもの」なので、「何で自分達もやらされるのか…」と言う雰囲気が思いっきり出ていて、全く集中していなかった。
まぁ、子供にとっては、技に比べて面白い内容ではないので、仕方ないともいえるのだが…
そこで、私の雷が落ちる!
「お前ら、自分が出来るからやらなくていいのか!」
「逆に出来るから、新しい人に手本を見せなきゃいけないんじゃないのか?」
「それをいい加減にやりやがって!合気道は、一人では稽古のできない武道だぞ!自分しか見ないで稽古に取り組むな!相手を思いやれるようになれ!」
etc.
かなり長い間お説教をした。
話は戻るが、この「自分だけ見ている」人間も「捌く」対応の出来ない人種である。
捌きは、「相手の出方を合わせていく(そう導く)」動きであるから、自己中心的では決して辿り着けない領域である。
そう考えると、合気道とはその技術の中にも、教訓となる非常に面白いエッセンスが入っている魅力ある武道だと思う。
一応、リアルを標榜する当団体においても、技術が実際に使えるのかどうかの検証の他に、このような技の理合をしっかり考え、時には人生に反映させて考えてみる行為は非常に良い事であると考える。
こういうところへ思いを馳せる事が、人格形成の一因にもなっていると思う。
故に、何度も言うが、合気道にも「道」という言葉がついているのだと思う。