僕はあの娘に手紙を書いた。決して読まれない手紙だ。
彼女の母親は彼女が小さなときに他に男をつくって蒸発してしまった。
彼女のトラウマ的な深い傷はやがて僕にとっても深い傷となった。
混乱は混乱を招き、傷はやがて溝となった。
世の中には取り返せないことがらがある。しょうがないことがある。
そう自分に言い聞かせないと呼吸すらうまくできなくなってしまう。
結局のところ、手紙というのは自分に対して書く行為だと思った。
書いた後にそう思った。自分を癒す行為なのだと。
完璧な文章など無い。完璧な絶望が無いようにね。
前略
元気ですか?
僕は新しい街にやってきました。(いや、街はそのままで僕が新しくなったのかな?)
波乗りの街です。海へ続く坂道のある街です。君がよく知っている坂道だ。
僕は毎日規則正しく目を覚まし、朝は波乗りをしてから会社に行きます。
風がある日はウインドもします。ウインドはいまだに続けているんだよ。
時々は友人と酒を飲みに行くこともありますが、たいていはこの部屋に戻り、
パスタを茹でてネットサーフをやったり、このような形で自身の記録をとっています。
ビールの量は幾分減ったように思います。
海は本当に僕をリラックスさせてくれる。
僕は「海でなら死んでもいいや。すごく気持ちがいいもん」と、思ったりしてしまいます。
でも大丈夫。もちろんそんなに簡単に僕は死なない。
経験した死別や離別から、孤独や死の恐怖は前ほど僕を襲わなくなりました。
それを感じることもあるけれど、なんとか折り合いをつけてやっています。
そして君から奪ってしまったもの、君を傷付けてしまったことについて心から詫びなければなりません。
いろいろなものが僕の前を通り過ぎていきました。もちろん君の前もね。
そうやって失ってしまったものを、よく夢にみます。
たいていは別れてしまった彼女のことや死んでしまった人たちの夢です。
目覚めたときにひどく悲しい思いをします。
まだあきらめのいい大人にはなりきれてないのですね。
それを引き止めることもせずに、なくしてしまったものをひどく悔やむ。
僕は往生際の悪い人間だ。やれやれ。
僕の当面の目標は、自分自身を好きになることです。
それは僕自身が誰かに愛される条件のひとつだから。
足を止めないように、振り向かないように、前だけを見て走り続けること。
君がどこかで自分自身のために何かしらの努力をしているのと同じように、
僕も自分のためにいろいろやってみています。いつか胸を張って君に会うために。
(もう二度とあえない事は分かっているのだけれど、僕はそうやって生きていきたい)
そして、きっとそれが何らかのかたちで報われることがあったときに、
僕はやっと、僕が何を本当に欲しいのか、分かるような気がします。
そしてその後に、それを手に入れるための、僕の中で本当の人生がまた始まるんだ。
人間が生きていく意味はそこにあることが最近わかりました。
君は(あるいは僕を愛した別の人間)僕の何を愛したのだろう?
そして僕は(あるいは君は)なぜそれを捨ててしまったのだろう?
僕たち(僕と、君と、僕を通り過ぎた人々と、君を通り過ぎた人々)は
一体どこに辿り着くんだろう?
失ってしまったものをもう一度手に入れることは非常に難しい。
それでも、僕は連続ドラマの最終回で時々やる、
後日談(「何年後ー」というテロップが入る)がすごく好きです。
離れていった友人、ハッピーエンドになったカップル、そんな人たちの何年後かの映像。
彼らはドラマの本筋の中よりも、何百倍も幸せそうに見える。
僕はいつも君と歩いた海へと続く坂道を思い出します。
ロングボードを頭に乗せて笑いながら歩いた日の当たる坂道です。
坂道を下り切ったところにはきっといいことがある。
そして僕はさっきのドラマの最終回の後日談を夢に見るんだ。
僕たちの素敵な未来を祈って。