【2013・9・11「地震被害で旧乃木邸公開ならず」】をご参照下さい!
明治天皇は1912(明治45)年7月30日に崩御(ほうぎょ)した(亨年61歳)。同年(大正元年)9月13日、青山陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大葬の礼が執り行なわれた。その夕、陸軍大将乃木希典は静子夫人とともに自宅で自害した。この自宅は乃木将軍の遺志により、東京市に寄贈され、大正2年に乃木公園として開設された。昭和25年、港区に移管され、管理をおこなっている。(所在地:赤坂8丁目11番32号)乃木将軍は、明治12年10月にこの地に住んだ。園内には、明治35年、将軍自身の設計によって改造された邸宅が今も残っている。傾斜した地形を上手に利用した3階建てで、地下の天井が直ちに1階の床板となり、1階の天井が2階の床板を兼ねる、無駄のない簡素な建物で、また、将軍は馬をこよなく愛し、今も立派なレンガ造りの厩が残されている。
普段は回廊から室内が見えるが、自害した9月13日前後の日に特別公開がある。今年は9月12日(日)と13日(月)が公開日となった。管理人がメンバーとなっているシニアネット「シニア・ナビ」の有志のミニミニオフ会として13日に「東郷神社と乃木神社の参拝と旧乃木邸見学ツアー」を企画した。案内人は管理人である。
『彰古館~知られざる軍陣医学の軌跡~』 (防衛ホーム新聞社刊)によれば、「明治38年1月5日、水師営会見所でロシア軍ステッセル将軍と乃木希典大将の降伏会議が開かれた。会議で使用された会見卓は、前日まで野戦病院であった2台の手術台である。そのうちの1台が中国の現地に、もう1台は陸軍軍医学校(現国立感染症研究所)に保管されたいた。敗戦後は乃木邸に寄贈されたのである。」
その手術台をはじめ、遺品の画像をアップしたい。
下記の画像は中国大連市水師営会見所に展示されている会見卓である。
手術台に記載してある文 明治三十八年一月二日 水師謍二於ケル第一師團衛生隊繃帯所二於イテ日露両軍使旅順開城談判所二充テラレシセル際此手術臺上白布ヲ被シテ卓子ヲ爲シ両軍使相對シテ條約ヲ締結シタルモノナリ 第一師團衛生隊醫長 横川徳郎識
下記の画像は旧乃木邸に展示されている会見卓である。
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