葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「開国と攘夷」下田の街レポート⑪総領事タウンゼンド・ハリスの業績

2023年05月14日 | 歴史探訪<江戸と明治の歴史>

下田開国博物館館長尾形征己氏著2006年刊「ハリスとヒュースケン 唐人お吉 ―物語の虚実」に次のような記述がある。

終わりに 
 鎖国の日本が開国し、近代化に向かうにあたり、ペリー提督に ついて語られることは多いが、ハリスについては少ないような気 がする。むしろハリスは 「唐人お吉」との係わりで語られることが多い。 
 今年はタウンゼンド・ハリスが米国初代総領事として下田に着任してから150年目になり、少しでもハリスの役割、功績を知って貰いたくてまとめてみた。 
 ハリスが総領事として来日し、開国通商の道を開いた事が、開国か攘夷か、佐幕か尊皇かを巡って国内争乱になったとの見方もある。しかし、19世紀、東南アジアから中国にかけて西欧列強の植民地や半植民地になった国や地域が多いなかで、外国との武力衝突をさけ、列強の植民地・半植民地への道をたどらずに争乱を乗り切ったのは、日本の当時の指導者が有能だったことにもよるだろうが、ハリスの西欧諸国との協約交渉の仲介、武力攻撃の危機回避のための奔走など、彼に依ることも多いと思う。 
 ハリスは軍人ではなく、商人出身の外交官であった。もしハリスではなく、軍人が日本開国・通商の道筋をつける任務で日本に派遣されていたとしたら、同じであったろうか。 
ハリスは商人出らしく、通貨交換比率や欧米と日本の金銀交換比率の差で利益を得たり、お吉との間に男女関係があったからと言って、総領事ハリスの功績が薄まるものではない。

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日米通商条約は、安政5年6月19日(1858年7月20日)、朝廷からの勅許のないまま米軍艦ポーハタン号艦上で、総領事タウンゼント・ハリスと目付岩瀬忠震・下田奉行井上清直との間で調印された。

岩瀬忠震は無勅許調印の影響を心配する同僚に「岩瀬冷笑して曰く、京都公卿等には、宇内の大勢を弁別して国家の利害を悟り条約勅許に同意する者、一人も無し、是を知りながら徒に勅許々々と勅許をたのみ、その為に時期を失ひ、英仏全権等が新捷の余威に乗じて我国に来るを待たんは、実に無智の至りなり。かかる盤根錯節(ばんこんさくせつ)の場合に遭遇しては、快刀直截のほかは、有るべからず」と答えた。

大老井伊掃部守直弼はこのときの心境について「勅許が得られないからと言って条約調印を行わず、アメリカと戦争になりアメリカに敗北・屈服して占領され領土を割譲されるとなれば、これ以上の国辱はない。今日アメリカの開国要求を拒絶してアメリカとの戦争に敗れ永久に国体をはずかしめるのと、勅許を待たないで開国しアメリカとの戦争を回避して国体を堅持するのと、どちらが大事か。現在、我が国の海防・軍備は充分でない。しばらくの間、外国の要求を取捨し、害のないものを選んで許可するだけである。朝廷の意向は国体を汚さぬたようにとの趣旨である。そもそも大政は幕府に委任されている。しかし勅許を得ない重罪は甘んじて直弼一人がこれを受ける決意である」と、決心に至った心の内を述べている。

孝明天皇をはじめ、公卿や水戸藩らが世界から意識的に目を逸らしていた頑迷さには呆れるばかりだ。尊王攘夷だった薩長が中心となった新政府は、「井伊直弼、岩瀬忠震、井上清直」らの功績を横取りしたと断ぜるを得ない。

4月28日伊豆急下田駅発踊り子号で、歴史と観光の街・下田から大江戸の街・東京へと向かった。

下田の街三日間の調査・研究の成果を、秋に企画する東京の戦争遺跡を歩く会主催「世田谷松陰神社と豪徳寺(井伊直弼の菩提寺)」に生かしたいと考えている。

(完)

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