福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

パーヴォ&N響のブルックナー2番

2016-09-24 23:15:41 | コンサート


NHK交響楽団A定期初日。
今宵は聴きにきた甲斐のあるコンサートであった。座席は1階席8列目のど真ん中、直接音主体ながら音楽を享受するには十分な音響であった。

前半はラルス・フォークトを独奏に迎えてのモーツァルト:ピアノ協奏曲第27番K.595。

フォークトはお見事。
モーツァルトがスコアに記した曲想を千変万化に描き分け、自由闊達でありながら正当的な芯の一本通った格調高いパフォーマンス。そして、モーツァルト晩年に特有の透明感、無常感も忘れていない。
ここまで素晴らしいと、さすがのN響も着いてゆけない。リズムやテンポ感で遅れをとり、音色や表現の変化にも追いつけないのだ。快進撃をつづけるパーヴォ&N響からまさかこのような印象を受けるとは思っていなかったが、それだけモーツァルトが難しいということだし、フォークトの才気が迸っていたということだろう。

後半は微に入り細を穿ったアーティキュレーションの妙、弦のヴィブラートの繊細なコントロール、印象的なピアニシモから渾身のフォルティシモまで、隅々まで新しい光に照らされたブルックナー。

第1楽章は、まだ暖まっていない真空管アンプで聴くCDのように内なる火が感じられず、計算ばかりが見える物足りなさを覚えたが、第2楽章後半からは、演奏の芯がジンワリと暖まり、ブルックナーの音楽を堪能することができた。これほど、テクスチュアの見透かせるブルックナーは稀であろう。

パーヴォのブルックナーを賞賛こそすれ、否定する気持ちは毛頭もないが、一方、朝比奈のような大らかさ、響きにどっぷり浸るブルックナーが懐かしかったことも事実。いつかは自分で振らねば、という想いが沸き上がったものである。いますぐにブルックナーを振れる境遇に居ない自分、環境づくりを怠っている自分に喝を入れよう。



パーヴォのブルックナー2番 予習せず

2016-09-24 00:03:23 | コーラス、オーケストラ



明日、9月24日(土)はNHK交響楽団の定期演奏会にて、パーヴォ・ヤルヴィのブルックナー2番。

あれほど、「もうNHKホールはいやだ、きらいだ、懲り懲りだ」と思ったのに、ついついチケットを買ってしまったのは、もちろん、演目がブルックナー「2番」だからである。もう、ほうぼうに書いたことだけれど、12~13歳のある日の午後、たまたまFM放送で聴いた曲の美しさに魅了され、「いったい誰の曲だろう」と胸を高鳴らせながら、アナウンスを待ったところ、それがブルックナー「2番」だったというわけだ。即ち、わが運命の曲なのである。

未だ、8番や9番はおろか、4番「ロマンティック」すら知らない段階で、「2番」に心奪われる、というあたり、いかに自分の魂がブルックナーを求めていたかを物語っている。

ところが、「2番」の実演はそうそう聴けるものではない。かつて、1986年に朝比奈&都響を東京文化会館で聴き(これはライヴ盤として、ビクターよりCD化された)、さらに、2014年に小泉&都響を聴いた二回がすべて。

本来、日曜日に大阪フィル合唱団練習のあるときには、前日入りするのだが、今回ばかりは、身体がキツかろうとなんだろうと、NHKホールに馳せ参ずるほかない。

ちょうど、フランクフルト放送響との同曲CDが手元に届いたところだが、今宵は予習はせず、明日の演奏を新鮮な気持ちで味わいたいと思う。



ところで、フランクフルト放送響は、hr sinfonie orchesterと改称されたはずだが、国内盤CDでの表記は旧名称のまま。まあ、その方が日本人にはイメージしやすいし、セールスにも都合良いということは、理解できる。