一日の終りに見てる いちにちのいみとふところおくそこのもののふ
宗像家に纏わる山田館の惨劇の後の怨霊の祟を鎮めるようにして小高いところに墓がある、あの山田の地蔵尊に行ってみた。
しかも、父と母を連れだして。
ちょっと寒いかもしれんけど、山田の地蔵尊にいってみようや
と、なんとはなしに誘ったのではあるが、一人で行くよりも、父と母と行ったほうがより、漠然としているものが見えてくる気がしていたのである。
どこか父と母の間に横たわる長年の確執の向こうに見えるものを、山田の地蔵さんであった物語に重ねていたのかも知れなかった。
もちろん、山田家にあったという家庭内内紛に由る「惨殺」あるいは「虐殺」が起こったわけではなかったが、山田の地蔵さんに行くことで、見えてくるものが有るような気がしていたのである。
車のバックミラーには母が映っている。
其の先にはさっき通ってきた道が見える。
左のサイドミラーは助手席に座って己の右足を執拗にさすっている父が遮っている。
以前、見た夢とは、状況がかなり違っている。
当然といえば当然である。
夢の中のように坂道を後ろ向きに進んでいるわけでもないが、ふと思い出したことがあった。
夢の中に出てきた昔の友人の名前である。
もとむら。
ここいらは「元」村だったのは確かである。今もそうかもしれないが。
冗談のようで意外と的を得ているトリックスター的なものに関する精神分析的解釈の一例。
死んでしまっている、もとむらさん。人形のように動かない、もとむらさん。
過去と今と夢と未来との共時性。を見ていたのだろうか。
では、現実の、目の前の「元」村に、何が見えてきたか。
宗像の山の中というよりも、山を越えたそこに田んぼが広がる景色があった。
冬枯れた田には人もなく、烏を追い払う案山子もない。
田んぼの中を通り抜けた一本道の先に、山田の地蔵尊があった。
助手席の父が、降りる手前で、急に話しだした。
昔、ここいらのちょっと先にある山ん中ば、修験者が足を滑らせてから、崖の下に落ちたものがおったらしいが、助かりようがないというて、上から石を投げて谷底で早く死んでしまえるように、他のものがあの世へ行くのば手助けしたこともあるげな。
修行というよりも、手助けというよりも、死がすべてを終わらせるということを暗に示しとるんじゃろうが、谷底で石を投げられ死んでいく身にもなれというものだ。
地獄の谷じゃろうが、険しい山を行くことそのものが山地獄でもあったやろうから、生きていても、死の間際まで地獄はつきまとうということなんじゃろうがの。
ちょっと、そこまでいって谷底をのぞいてごらん。
母が、右半身不随の父の背中をくいっと押した。
よろよろと父が振り向いて、にやにやしだした。
ちょっと前の母ならば、すかさず石の礫でも枯れ枝でも草でも拾い集めて、立て続けに投げつけたであろうが、今は言葉だけでなんとか済んでいるのだった。
しかも、父と母を連れだして。
ちょっと寒いかもしれんけど、山田の地蔵尊にいってみようや
と、なんとはなしに誘ったのではあるが、一人で行くよりも、父と母と行ったほうがより、漠然としているものが見えてくる気がしていたのである。
どこか父と母の間に横たわる長年の確執の向こうに見えるものを、山田の地蔵さんであった物語に重ねていたのかも知れなかった。
もちろん、山田家にあったという家庭内内紛に由る「惨殺」あるいは「虐殺」が起こったわけではなかったが、山田の地蔵さんに行くことで、見えてくるものが有るような気がしていたのである。
車のバックミラーには母が映っている。
其の先にはさっき通ってきた道が見える。
左のサイドミラーは助手席に座って己の右足を執拗にさすっている父が遮っている。
以前、見た夢とは、状況がかなり違っている。
当然といえば当然である。
夢の中のように坂道を後ろ向きに進んでいるわけでもないが、ふと思い出したことがあった。
夢の中に出てきた昔の友人の名前である。
もとむら。
ここいらは「元」村だったのは確かである。今もそうかもしれないが。
冗談のようで意外と的を得ているトリックスター的なものに関する精神分析的解釈の一例。
死んでしまっている、もとむらさん。人形のように動かない、もとむらさん。
過去と今と夢と未来との共時性。を見ていたのだろうか。
では、現実の、目の前の「元」村に、何が見えてきたか。
宗像の山の中というよりも、山を越えたそこに田んぼが広がる景色があった。
冬枯れた田には人もなく、烏を追い払う案山子もない。
田んぼの中を通り抜けた一本道の先に、山田の地蔵尊があった。
助手席の父が、降りる手前で、急に話しだした。
昔、ここいらのちょっと先にある山ん中ば、修験者が足を滑らせてから、崖の下に落ちたものがおったらしいが、助かりようがないというて、上から石を投げて谷底で早く死んでしまえるように、他のものがあの世へ行くのば手助けしたこともあるげな。
修行というよりも、手助けというよりも、死がすべてを終わらせるということを暗に示しとるんじゃろうが、谷底で石を投げられ死んでいく身にもなれというものだ。
地獄の谷じゃろうが、険しい山を行くことそのものが山地獄でもあったやろうから、生きていても、死の間際まで地獄はつきまとうということなんじゃろうがの。
ちょっと、そこまでいって谷底をのぞいてごらん。
母が、右半身不随の父の背中をくいっと押した。
よろよろと父が振り向いて、にやにやしだした。
ちょっと前の母ならば、すかさず石の礫でも枯れ枝でも草でも拾い集めて、立て続けに投げつけたであろうが、今は言葉だけでなんとか済んでいるのだった。
中国新疆ウイグル自治区西部のホータン地区で12日に起きたマグニチュード7.3の地震で家屋などの被害は広範に及び、被災者が45万5000人余りに上ったことが15日までに分かった。死傷者は出ていないが、家屋のほか、各地で橋や道路が損壊し、家畜は1万1515頭(匹)が死んだという。(編集担当:古川弥生)(写真は「CNSPHOTO」提供)
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ウイグルの人たちの無事を祈り
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ウイグルの人たちの無事を祈り
フィリピンのアキノ大統領が米紙ニューヨーク・タイムズとの会見で、南シナ海で傍若無人にふるまう中国を第二次世界大戦前のナチス・ドイツになぞらえて、フィリピンに対する国際社会の支援を訴えた。アキノの指摘は、尖閣諸島をめぐって中国の威嚇的挑発にさらされている日本にも、そのまま当てはまる。
アキノ大統領は90分にわたる会見でこう語った。
「もしも私たちが間違っていると信じることに『イエス』と言うなら、事態がさらに悪化しない保証がどこにあるのか。私たちはいつ『もうたくさんだ』と言うのか。世界はそう言うべきだ。第二次世界大戦を防ごうと、ヒトラーをなだめるためにズデーテン地方を(ドイツに)割譲した史実を思い出す必要がある」
いまの中国はかつてのナチス・ドイツと同様に勝手に南シナ海のほぼ全域で権益を主張し、岩礁に構造物を建築したり、他国の漁船に嫌がらせを繰り返している。アキノ大統領はこうした行為を国際社会が放置していれば、いつかドイツと同じように、世界にもっと大きな悲劇を招くだろうと警告したのである。
大統領の目には、世界が中国を甘やかして宥和政策を展開しているように映っているのだ。鍵を握っているのは、とりわけ米国だ。
米国はフィリピンと相互防衛条約を結んでおり、2000年からは共同軍事演習を再開した。それでもフィリピン内には「米国は本当に自分たちを守る気があるのか」という疑念がある、という(防衛省防衛研究所編「東アジア戦略概観2013」の分析)。このあたりも「米国は日本を守るだろうか」という議論が絶えない日本とそっくりだ。
そうだとすれば、日本はどうすべきか。答えはあきらかである。フィリピンや同じように中国の脅威にさらされているベトナムなどと連携を強めるべきだ。実際、フィリピン外相は英紙フィナンシャル・タイムズとの会見で「日本の再武装を大歓迎する。私たちは日本が地域の需要なバランス要因になるのを期待している」と語っている。
こういう一連の発言と報道を日本の一部マスコミと見比べると、いかに論調がずれているかが分かる。集団的自衛権の議論の核心も、まさしくフィリピン同様、中国の脅威にどう対抗するかという点にあるのだ。
(文中敬称略)
文■長谷川幸洋:東京新聞・中日新聞論説副主幹。1953年生まれ。ジョンズ・ホプキンス大学大学院卒。政府の規制改革会議委員。近著に『2020年新聞は生き残れるか』(講談社)。
※週刊ポスト2014年2月28日号
アキノ大統領は90分にわたる会見でこう語った。
「もしも私たちが間違っていると信じることに『イエス』と言うなら、事態がさらに悪化しない保証がどこにあるのか。私たちはいつ『もうたくさんだ』と言うのか。世界はそう言うべきだ。第二次世界大戦を防ごうと、ヒトラーをなだめるためにズデーテン地方を(ドイツに)割譲した史実を思い出す必要がある」
いまの中国はかつてのナチス・ドイツと同様に勝手に南シナ海のほぼ全域で権益を主張し、岩礁に構造物を建築したり、他国の漁船に嫌がらせを繰り返している。アキノ大統領はこうした行為を国際社会が放置していれば、いつかドイツと同じように、世界にもっと大きな悲劇を招くだろうと警告したのである。
大統領の目には、世界が中国を甘やかして宥和政策を展開しているように映っているのだ。鍵を握っているのは、とりわけ米国だ。
米国はフィリピンと相互防衛条約を結んでおり、2000年からは共同軍事演習を再開した。それでもフィリピン内には「米国は本当に自分たちを守る気があるのか」という疑念がある、という(防衛省防衛研究所編「東アジア戦略概観2013」の分析)。このあたりも「米国は日本を守るだろうか」という議論が絶えない日本とそっくりだ。
そうだとすれば、日本はどうすべきか。答えはあきらかである。フィリピンや同じように中国の脅威にさらされているベトナムなどと連携を強めるべきだ。実際、フィリピン外相は英紙フィナンシャル・タイムズとの会見で「日本の再武装を大歓迎する。私たちは日本が地域の需要なバランス要因になるのを期待している」と語っている。
こういう一連の発言と報道を日本の一部マスコミと見比べると、いかに論調がずれているかが分かる。集団的自衛権の議論の核心も、まさしくフィリピン同様、中国の脅威にどう対抗するかという点にあるのだ。
(文中敬称略)
文■長谷川幸洋:東京新聞・中日新聞論説副主幹。1953年生まれ。ジョンズ・ホプキンス大学大学院卒。政府の規制改革会議委員。近著に『2020年新聞は生き残れるか』(講談社)。
※週刊ポスト2014年2月28日号