明鏡   

鏡のごとく

『子豚とサイクリング』5

2015-11-13 22:06:00 | 詩小説

雨も小ぶりになってきた。

永遠に店を開けないようなので、蕎麦屋をあとにして、子豚とまたサイクリングを始めた。

季節によってはゲンジボタルが翔ぶ川の近くを通り、猫峠が見えてきた。

昔通った時、ゲンジボタルは橋の上をただようていた。

蛍に筋肉があるわけではないが、腹が横線に割れており、その腹割り線二つ分が光るものが雄、一つ分光れば雌だったか。

雄は小さく、どこまでも飛び回り、雌は川辺の草場でじっとその時が来るのを待っているのだ。

一つの魂がもう一つの魂に吸い寄せられるように闇の中をただようていた。

はなればなれであった魂が集う、墓場のようであったが、墓はなく、野ざらしのままの魂。

点滅する魂。

もうすぐこの世からいなくなる夜にだけ気づく魂。

魂は、夜の虫の腹の中にも収まっていたのだ。

などと、思いつつ、いつも、夜にしか通らないので、どこをどう通ったかもよくわからないまま、いつのまにかたどりつく、猫峠の曲がりくねった坂を登ろうかと覚悟を決め、走りに速度をつけていった。

民家が疎らにあった。

集会場の光が見えた。

そこからの帰りの人が歩いていたが、人の目に光は見えなかった。

子豚のように。

真夏の手前の夜、橋の上にでもこぼしてきたのだろうか。


しばらく走っていると、暗闇の中、二つの小さな光を見つけた。

蛍火のように漂うことなく、じっとそこで待っていたように青白く光る光。


野生の子鹿の目の中の、夜にだけそこにあると気づく、魂のようなもの。


我に返ったように、子豚の目を覗き込もうにも、前籠の中の塊は、真っ暗で何も見えないのだった。

朝日新聞あるいは毎日新聞(東京日日新聞)といった戦前からある新聞社

2015-11-13 16:18:35 | 日記
朝日新聞あるいは毎日新聞(東京日日新聞)といった戦前からある新聞社
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1941年9月、日本は日中戦争を行ないつつ対米戦争に踏み切るという、勝ち目のない二方面作戦を選択した。これは陸軍の強硬派だけが主張し、実行したためであると多くの日本人が考えている。しかし、事実は違うと作家・井沢元彦氏は言う。週刊ポストの連載「逆説の日本史」から、日本を戦争に引きずり込んだ「戦犯」の正体を解き明かす井沢氏の解説をお届けする。

 * * *

 戦後日本ではしばらくそういう教育をしていた。つまり多くの国民は戦争に反対していたが、軍部の強硬派が満州事変など次々に既成事実を作って日本を戦争に引きずり込んだ、というストーリーを歴史上の事実として教えていたのである。

 そうした側面もまったくなかったとは言わないが、もし日本を無謀な戦争に引きずり込んだ人間を「戦犯」あるいは「戦争犯罪人」と呼ぶならば、陸軍の強硬派に匹敵する、いやある意味でそれ以上の「戦犯」がいる。朝日新聞あるいは毎日新聞(東京日日新聞)といった戦前からある新聞社である。

 

 戦前はテレビは無く、雑誌とラジオはあったがマスコミといえば新聞が中心であった。マスコミ=新聞と言っても過言ではない。その新聞社がいかに日本を戦争の方向に誘導したか、日本人がとにかく戦争で物事を解決するように煽動したか。

 私や私よりは少し年上の団塊の世代の人々は、いわゆる戦後教育において、戦前の新聞社は軍部の弾圧を受けた被害者だと教えられてきた。学校で近代近現代史の授業は受けられなくても小説や映画やテレビドラマを通じて、戦前の新聞社はいかに軍部の弾圧に対して抵抗したかという英雄的ストーリーを叩きこまれてきた。それは大嘘である。

 確かに昭和十八年以降敗戦が決定的になった頃、その事実を隠した大本営発表を強要する軍部に対し一部抵抗した記者がいたのは事実だ。だが、抵抗の事実はほとんどそれだけである。それ以前まさに、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変からの一連の日中戦争そして日米開戦まで、「日本は戦争すべきだ」と常に国民を煽り続けたのが新聞社であった。これが歴史上の真実である。

 特に朝日新聞社は、満州事変が始まると戦争推進派の評論家などを動員し全国で講演会や戦地報告会を多数開催した。またテレビ以前の映像メディアとして「ニュース映画」というものがあったが、朝日のカメラマンが現地で撮影してきた事変のニュース映画も全国で多数公開された。

 昔は普通の映画館に隣接して全国各地に「ニュース映画専門館」があったことを、団塊の世代ならかろうじて覚えているだろう。もちろん、これらの朝日のキャンペーンは、この戦争が正義の戦いであるから、国民は軍部の方針を支持するように訴えたものである。

 

 それだけではまだ不充分だと朝日は戦意高揚のための「国民歌謡」の歌詞を全国から公募した。しかし応募作の中には朝日の意に沿うような作品がなかったのだろう。結局朝日新聞記者の作品を当選作としプロの作曲家に作曲を依頼し完成したのが『満州行進曲』である。これは大ヒットし親しみやすい曲調からお座敷などでも盛んに歌われた(戦後作られた「反戦映画」にはこうしたシーンはほとんど出てこない)。

 世の中には新聞を読まない人、ニュース映画を見ることができない人もたくさんいたが、そういう人々にこの歌は「戦争することが正しい」と教えた。その結果日本に「満州を維持することが絶対の正義である」という強固な世論が形成された。

 軍部がいかに宣伝に努めたところでそんなことは不可能である。やはり、「広報のプロ」である朝日が徹底的なキャンペーンを行なったからこそ、そうした世論が結成された。それゆえ軍部は議会を無視して突っ走るなどの「横暴」を貫くことができたし、東條(英機)首相も「英霊に申し訳ないから撤兵できない」と、天皇を頂点とする和平派の理性的な判断を突っぱねることができた。

 

 新聞が、特に朝日が軍部以上の「戦犯」であるという意味がこれでおわかりだろう。

 朝日新聞社にとって極めて幸いなことに、戦後の極東軍事裁判(東京裁判)によって東條らは「A級戦犯」とされたが朝日にはそれほどの「お咎め」はなかった。そこで朝日は「A級戦犯である極悪人東條英機らに弾圧されたわれわれも被害者である」という世論作りをこっそりと始めた。

 たとえばその手口として「反戦映画」に「新聞社も被害者」というニュアンスを盛り込むというのがある。「よく言うよ」とはこのことだが、特に団塊の世代の読者たちはずっと騙され続けてきた。いやひょっとして、今も騙されている人がいるのではないか。身近にそういう人がいたら、是非この一文を読ませてあげてください(笑)。

※週刊ポスト2015年11月20日号

NEWSポストセブン
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夢野久作の動画発見 80年前、父の骨つぼを抱え [福岡県]

2015-11-13 07:54:05 | 日記



 福岡市出身の小説家、夢野久作(幼名杉山直樹、1889~1936)が、1935年に父親の政治運動家杉山茂丸の葬儀で福岡に戻った際の様子を撮影したモノクロ動画が見つかった。久作自身の動画は非常に珍しい上、現在地に移転する前の旧博多駅の様子もはっきり写り、郷土史を検証する面でも貴重な史料と言えそうだ。22日から福岡市博多区大博町の立石ガクブチ店である「夢野久作の童話展」で公開される。
 動画を記録したフィルムは昨年、茂丸と親交の深かった筑豊の炭鉱主、中島徳松の子孫宅(東京)で発見。今年4月、DVDの形で、久作の孫の杉山満丸さん(59)に贈られたという。
 今回公開するのは動画のうち6分49秒。蒸気機関車が駅に到着する場面で始まり、羽織はかま姿の久作が白布に包んだ骨つぼを抱え、駅員に先導されてホームを歩く様子などを収めている。駅舎には、右から横書きされた「はかた」の駅名看板も見える。久作は翌年、脳出血のため急死した。
 童話展の主催団体「ハカタ・リバイバル・プラン」の立石武泰会長(63)は「80年前の博多の映像自体珍しい。当時の駅員の服装なども分かり、史料としても重要」。童話展は28日までの正午~午後7時。動画は終日上映。入場無料。
=2015/11/13付 西日本新聞朝刊=

~~~~~~~~~~~~~~~~~~これは見たい。当時が偲ばれる。