「福岡民話集」(叡智社)は持っていますが、地元なのに、意外と知らないことが多くて面白いのです。
「濡れ衣」の元の話が、福岡(博多)なのですが、この民話集に、確か載っていたと思います。
九州大学の心理学(主にカウンセリング系)の授業に当時の教授の許可を得て、潜り込んでいた時に、自転車でえっちらおっちら漕いで行ってたら、偶然、この「濡れ衣」塚を見つけて、びっくりしたのを覚えています。
こんなところにあったのかと。3号線の川沿いにひっそりとあったのですが、今まで自動車でしか通っていなかったので、わからなかったのです。
ゆっくりと、自転車の速さや歩く速さで、街を行くと、何か違った速度のものが、ゆったりとした、昔からあった、普段は気づかないことをも見つけられるような気がします。
たまには?急がず焦らず、ぼちぼちですね。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://mainichi.jp/articles/20160902/ddg/041/040/009000c
江戸時代の九州諸藩の研究などに取り組んだ歴史学者で、九州大教養部教授(国史学)を務めた故檜垣元吉(ひがきもとよし)さん(1906〜88年)が、第二次世界大戦中に配属された旧陸軍の部隊から家族に送ったはがき約200枚が見つかった。戦友たちから古里での暮らしや民話を聞き取った民俗学調査のような内容が多く、九大関係者は「戦下でも庶民の歴史を記録し続けようとした学者の覚悟がみてとれる」と話す。【祝部幹雄】
檜垣さんは、旧九州帝国大(現九州大)法文学部を卒業。九州の文化や歴史を研究する同大九州文化史研究所に勤務していた42年2月に召集され、福岡県若松市(現北九州市若松区)の高射砲部隊に配属された。はがきは召集当時9歳の長男、8歳の次男、3歳の三男に宛てたものがほとんどで、終戦まで送り続けていた。いずれも檜垣さんが最晩年を過ごした同県久留米市の四男御楯(みたて)さん宅に保管されていたが、御楯さんが昨年の戦後70年を機に改めて捜し出した。
内容は、85通が大分県の「吉四六(きっちょむ)」や熊本県の「彦一」、福岡県の「福間の又(また)ゼー」など各地に伝わるとんち話や、幸せな夫婦の笑い話「屁(へ)ひり嫁」などの民話▽51通が入隊前の戦友が過ごした古里での猟師や漁師時代の生活▽37通が寒さやシラミに苦しめられる部隊生活−−などに分類される。小さな文字がびっしりと書き込まれ、色鉛筆で描いたイラストが添えられている。
幼い子供宛てにこのような内容のはがきを送った理由は分からない。しかし、同大教授を務めた社会学者の故蔵内数太さん(1896〜1988年)宛てのはがきには「雑談をきっかけに、まず九州の河童(かっぱ)の糸をたどりました」「今は九州のとんち物語はおろか村の話に入り、鉱脈を掘り当てたところです」などと書き残しており、民俗学的な関心を持って九州各地から集まった戦友たちの話を聞き取って記録に残そうとしていたことがうかがえる。
檜垣さんは戦後、同大に復職した。江戸時代の九州諸藩を研究する一方、「福岡民話集」(叡智社)の編集にも関わったが、はがきに記された戦時中の聞き取りを基にした出版物などはない。
檜垣さんの死後、遺族から寄贈された古文書や郷土資料などを「檜垣文庫」として整理した一人で同大の高野信治教授(日本史)は「檜垣さんは人々の実際の生活に寄り添って歴史を描こうとした研究者だった。今回見つかったはがきは、その後の檜垣さんの生き方につながる内容だ。歴史や民俗について聞き書きし、もしものことがあっても後世に残るようにしたのだろうか」と感慨深そうに話した。