よく、秀吉が狂ったようになって大陸を目指したというステレオタイプな事をいうものがいるが。
学校でも、自分でも調べようとせず、ただ表面だけ教えられたことを言われると、残念になる。
壱岐や対馬の殺戮のことなど一言も聞かなかったのであろう者には、わからなくなるのであろうが。
秀吉以前に、不意に、日本を攻め立ててきたものがあったから、秀吉やその当時の人々が、その壱岐や対馬、太宰府くんだりまでやってきて殺戮のかぎりを尽くされた恐怖の記憶を覚えていたからこそ、あのようなことが今後起こらないように対処しただけであろうことも、日本人はもとより、世界中が知るべきことだと思われる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2858.htmlより以下抜粋〜〜〜〜〜〜
寛仁3(1019)年といいますから、「この世をば吾が世とぞ思う望月の・・・」と読んだ藤原道長が全盛を極め、紫式部が『源氏物語』を書いた平安時代の中頃のことです。
壱岐島に突然、50隻ばかりの船がやってきました。
ひとつの船の大きさは、だいたい15メートルくらいです。
その船に約60人ずつが分乗していました。
壱岐に上陸した彼らは、100人単位で一隊をつくりました。
戦闘隊の20~30人が斬り込み隊の役目で、後ろの70~80人が弓や盾を持っています。
彼らの持っていた矢は、長さ4~50cmの短いものですが、楯も射通すほどの貫通力があったといいます。
彼らは上陸と同時に、民家に襲いかかりました。
そして牛馬を盗み、切り殺して食い、老人と抵抗する者を殺し、女を犯し、生き残った者たちを船に拉致しました。
彼らは「牛馬を切っては食い、また犬をしてむさぼり食らう」と記録されています。
船上では、病人は簀巻きにして海に投げ入れて殺したと記録されています。
略奪後の民家はすべて焼き払い、穀物も奪っています。
「暴徒上陸」という知らせを受けた国司・壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいました。
けれども敵は3000人の大部隊です。衆寡敵せず玉砕してしまう。
藤原理忠を打ち破った賊徒たちは、壱岐島の真ん中にある、国分寺(嶋分寺)に攻め込みました。
寺には島民たちも逃げ込んでいました。
そして常覚和尚(じょうかくおしょう)の指揮の元、僧侶と島民たちで応戦し、なんと賊を三回まで撃退しています。
戦闘が膠着状態になったとき、常覚和尚は島を脱出して、状況を大宰府に報告に向かいました。
残された僧侶たちは必死に戦い続けました。
そしてついには全滅し、嶋分寺も全焼させられてしまっています。
島から女子239人と、若干名の男子が連れ去られました。
壱岐島で生き残った者は、わずか35人だけでした。
4月7日、対馬からも大宰府に対馬の危急の知らせが届きました。
このときの対馬守遠晴からの報告です。
*****
対馬に刀伊国(といこく)の者が50隻あまりの船でやってきた。
彼らは殺人や放火をしている。
彼らは隼のように迅速で、数が多く、とても対抗できない。
壱岐では壱岐守理忠が殺害され、ほとんど全滅状態である。
彼らは博多警固所と目と鼻のさきの能古島まできている。
******
知らせを受けた大宰権帥の藤原隆家は、すぐに京都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばすとともに、応戦のために九州の豪族や武士非常招集をかけました。
しかし翌8日には、賊が筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸してきます。
彼らは筑前の沿岸部を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたうえ、おびえる男女を追いかけて、4~500名を捕らえて船に乗せます。
また、かず知れない米穀類を略奪しました。
この時点で戦力の不足した藤原隆家は、少数の精鋭を率いて、個別撃破を狙い、敵の不意をつく戦法で戦いを挑みました。
この作戦は有効で、賊は崩れ、この日の夕方には海に逃れて能古島に去りました。
翌9日の朝、刀伊は、藤原隆家軍の本拠である大宰府警固所を襲撃してきました。
しかし藤原隆家は寡兵ながらも勇敢に戦い、逆に賊を追い詰めました。
賊の生き残った者は、能古島に逃げて行きました。
そして神風が吹きました。
10日、波風が強くなり、船が足止めとなったのです。
賊たちは身動きできない。
一方、藤原隆家のもとには、非常呼集に応じてくれた近隣の豪族たちがから、兵が集まりました。
11日午前6時頃、賊が、再び大宰府に上陸してきました。
藤原隆家は、上陸した賊を皆殺しにし、敵の生き残り二人を逮捕しました。
一人は傷つき、一人は女でした。
13日、賊徒は、今度は肥前国松浦郡の村里を攻めてきました。
ここではすでに知らせを受けて、待ち構えていた前肥前介・源知という武将が、賊徒を殲滅しました。
そして敵の生存者一人を逮捕します。
こうして賊は、恐れをなして、半島に帰国しました。
帰国途中、高麗がこれを待ち伏せ、戦力の減った残りの賊を全滅させ、日本人捕虜270人を助けて、日本に送り返してくれました。
この事件による日本人被害者は、殺害365名、拉致1289名、牛馬380匹殺生または行方不明、家屋45棟以上全焼というものです。
とくに女子供の被害が目立っていたといいます。
拉致された1289名のうち、高麗によって保護され帰国できた者以外の千余名は、船上で殺されています。
この一連の事件の発生から、その中盤にかけて、日本側は何者が攻めてきたのかさえ分からない情況でした。
逮捕した三人の族は、三人とも高麗人でした。
その三人は、口をそろえて、
「自分たちは被害者であって、高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てました。
そこで記録上は、賊徒は刀伊(とい)ということになりました。
刀伊というのは、女真族のことを言います。
女真族は、モンゴルと朝鮮の間に挟まれた地域に住む、半遊牧民たちのことです。
高麗からは生存者を送り返してもらっているし、日本としてもあらためて高麗と事を構えたくない。
ですから、これは高麗よりももっとはるかに北側の、満洲よりも北側に住む刀伊たちが起こした事件に違いない、ということにしたのです。
ですから、この事件は、いまでも「刀伊の入寇」と呼ばれています。
時代背景を見ると、この少し前の時代、朝鮮半島の北側には渤海国が栄えていました。
渤海は、交易で栄えた国で、『新唐書』には渤海について「新羅の8倍、高句麗の4倍の領土を誇った海東の盛国」と書かれています。
ちなみに渤海は、日本の東北地方に住む人たちと盛んに交易を行っていました。
渤海には、シルクロードの交易商人たちによって、支那の産物だけでなく、アラビアやヨーロッパからのめずらしい品が入ってきます。
一方、日本の東北地方は大量の金を産出します。
そしてこの時代の東北地方は、まだ大和朝廷には服しておらず、アイヌなどの豪族たちが割拠している情況です。
そして、日本の東北を含む蝦夷地との交易は、渤海に大量の金(Gold)をもたらし、その入手した金によって、渤海は経済的な大発展を遂げていたわけです。
ところが経済重視で軍事をややおろそかにした渤海は、10世紀のはじめ頃には契丹(遼)によって滅ぼされてしまいます。
このため、渤海を追われた女真族の一部が、船で朝鮮半島方面に逃げ、これが朝鮮半島の日本海側の沿岸部を荒らしながら南下し、高麗人を捕虜にして、奴隷兵とし、壱岐、対馬を襲撃し、さらに海を渡って日本まで攻め込んできた、というのが、刀伊の入寇になるわけです。
このことは、日本に攻めてきた賊徒が手にしていた弓が、騎乗からの射撃に便利な短い弓であったことも、証明のひとつになろうかと思います。
この時代の遊牧民たちの戦いは、攻め滅ぼした町で略奪した人々は、最下級の奴隷になります。
その奴隷兵たちは、最前線で戦わせられます。
戦いに勝利すると、新たに獲得した奴隷たちが、その奴隷の下になります。
つまり、すべての兵に上下関係があるわけです。
言うことを聞かず、戦いを拒否すれば、後ろから弓で射られて殺されます。
大陸での遊牧民の戦いは、進撃していく前線の軍団の後ろから、大量の家畜が付いていきますから、食料は羊や山羊が主な食料となるのですが、日本にやってきた刀伊と呼ばれる人たちは、船ですから、家畜がありません。
自分たちの食料や奴隷たちの食料確保のためには、常に村々を襲って、新たな肉を確保しなければなりません。
つまり、最下層の新しい奴隷(捕虜)というのは、単に捕虜というだけでなく、その上の階層の人達の食料でもあったわけです。
この人肉食には、ルールのようなものがあって、病人は食べません。
病人を食べると病気が伝染ると考えられたからです。
ですから、健康な者を食べます。
食べる順は、子供→女性→男の順番です。
整理すると刀伊の入寇は、次のような事態になります。
渤海国を築いていた女真族(刀伊)は、契丹に攻められ、国を失いました。
国を追われた刀伊たちの中で、船で海に逃れた者たちは、朝鮮半島の日本海側を転々と南下し、その間に住民を皆殺しにしたり、捕虜にして食料や奴隷にしていきました。
こうして、徐々に大きな軍団となり、彼らはついに3千人の大軍となったのだとされています。
ここは重要なポイントであり、いちぶ割愛され省略された話です。
というのは、逆に言えば、もともと渤海を追われて船で逃げ出した女真族(刀伊)は、もともとは決して大きな人数ではなかったということだからです。
おそらくはせいぜい100〜200人位の敗残兵たちであったことでしょう。
人は食べなければ生きていけませんから、自分たちの自給の道を断たれた刀伊たちは、朝鮮半島に至る道中で村を襲ったであろうことは容易に想像がつきます。
ただ、遊牧民というのは、基本的な行動パターンとして、生き物を大切にします。
もともと家畜とともに生きる人たちだからです。
その意味で捕虜は家畜のうちですが、移動に際して生きていれば、動物にせよ人間にせよ、自分で歩いてくれるのです。
死んだらただの荷物です。
そういう思考が彼らの思考です。
ですから刀伊が朝鮮半島沿岸を移動しながら、もともと100〜200しかいなかった集団が、いつの間にか3千の大軍団に増殖したということは、ひとつには朝鮮半島沿岸部の人たちが捕虜や奴隷になって行ったことを示すとともに、今度は逆に人数が増えた分の食料確保の必要が生じたということです。
そうなると捕虜となった人たちは、自分たちが食べられないためには、もっと別な村を襲い、そこの住民から食料を奪い、またそこの住民を食料にする必要が出てきます。
ですから壱岐対馬を襲撃した「刀伊」というのは、女真族の集団ではなくて、女真族(刀伊)を頂点としながら、9割以上が朝鮮半島の人たちで構成される集団だったということです。
彼らはまず、小さい方の島である壱岐を襲撃し、住民たちを奪いました。
このときの彼らの行動は、
1 牛馬を盗み、穀類を奪い、犬をしてむさぼり食った。
2 老人と抵抗する者は殺した。
3 女は犯し、生き残った者は船に拉致した。
4 船上では、病人は簀巻きにして海に投げ入れて殺した。
5 略奪後の民家はすべて焼き払った。
というものです。
人の肉を食べるという民族的習慣は、遊牧民のものではありません。
もともと飢餓に際して人肉食をあたりまえに行っていた支那人と、その隣国であって同じく収奪国家であった朝鮮半島人固有の習慣です。
その人肉食の習慣を持つ支那朝鮮には特徴があって、病人は食べない。
老人も、肉が少ないので、他に食べ物があれば、食べない。
また、犬を食料にすることでは、最近でも、赤系の犬の行方不明が相次いでいる事件が日本国内で起きています。
また、略奪のあと、民家に火を付けますが、これは焼き肉のためでもあった習慣で、いまでも特に半島人は、なにかにつけて、爆破や火をつけます。
こうした民族的傾向というか特徴というのは、普段は埋没しているけれど、いざ危機状態になるといかんなく発揮されるものです。
そして彼らの戦いというのは、そもそもが食料を得るための戦いですから、相手が無抵抗であったり、寡兵で弱いと見れば徹底的になぶり殺しにします。
相手が強ければ、そくさくと退散する。
戦いの目的が、政治的なものであったり、主張を通したりするためのものではなくて、あくまで食料確保のため、生きるためだからです。
自分が死んだら食えなくなるどころか、食われてしまう。
刀伊の入寇が起きたのは、11世紀のはじめです。
元寇よりも250年も昔のことですが、パターンは元寇と実はよく似ています。
どういうことかというと、元寇に先立って、モンゴルは朝鮮半島を従えようとしました。
ところが当時の高麗の王族たちは、自分たちだけ離島にサッサと逃げています。
モンゴル軍団は馬を使いますが、島に逃げれば彼らは海を渡れないからです。
このため朝鮮半島内は無政府状態となり、三別抄といういわば暴力団が跋扈します。
そこにモンゴル騎兵達が攻め込んできたわけです。
ところが高麗国そのものは、まるで無抵抗です。というより逃げてしまっています。
結果、朝鮮半島内では、普通にはありえない、不思議なことが起こります。
朝鮮半島内に侵攻したモンゴル騎兵達が、朝鮮半島内の民衆を保護するために、朝鮮人の三別抄という匪賊たちと戦うことになったのです。
こうなると一般の朝鮮の民衆からしてみれば、モンゴル騎兵は自分たちを保護してくれる神様のような存在となります。
結果、モンゴル軍団が帰るとき、朝鮮半島内の民衆60万人が、モンゴル軍団に付いて大陸方面に移動してしまうのです。
当時の朝鮮半島の人口は約2百万人です。
つまり、人口の約3分の1が、朝鮮半島を捨ててモンゴルに付いて行ってしまうのです。
モンゴルは、こうして付いてきてしまった朝鮮人たちに、いまの満洲南部あたりの土地を与え、そこで自活し生活するように命じます。
そしてその後、高麗王朝がモンゴルに降伏する。
降伏した高麗は、モンゴルのハン(大王)であるフビライに、
「我々の土地には何もないが、海を渡った向こうには巨万の富を持つ国がある」と、日本を攻めることを進言しました。
このことはマルコ・ポーロの『東方見聞録』に記述があります。
*****
ジパングは東方の島で、大洋の中にある。
住民は肌の色が白く礼儀正しく偶像を崇拝している。
ジパングには金(Gold)があり、彼らは限りなく金を所有している。
この島の君主の宮殿は、屋根がすべて純金で覆われ、床も約4cmの厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様である。
また、この島には赤い鶏がいて、すこぶる美味である。
多量の宝石も産する。
フビライはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。
*****
要するに自分が助かりたいがために、南の島の日本にたいへんな富があるとホラを吹いたわけです。
その結果、元寇でやってきたのは、元の軍団と高麗の軍団ということになっていますが、これまたすこし言葉が足りません。
ここでいう元の軍団というのは、先にモンゴルについて、満洲南部に移動した元高麗人たちです。
その元高麗人たちは、高麗国に残った人たちよりも「先にモンゴルの子分になったから、自分たちは高麗兵よりも偉い」として、高麗兵に対して居丈高になっています。
彼らの考え方は、上下関係がすべてなのです。
ですから、日本にやってきた元寇は、モンゴルと高麗の軍団ではなくて、実は元高麗人と、現高麗人、つまり指揮官を除き、兵はことごとく朝鮮族であったということです。
そして彼らは壱岐対馬を襲い、住民を皆殺しにして食料にしました。
繰り返しますが、遊牧民は人殺しは好みません。
人は生かして使う、というのが彼らの発想です。
だからこそ、朝鮮半島から60万人がついてきたのだし、高麗の住民をモンゴル族が皆殺しにしたり食料にしたという記録はありません。
ところが支那人や朝鮮族は、相手が弱ければ殺して食べるというのが風俗習慣です。
ですから壱岐対馬を襲っています。
つまり、250年後に起きた元寇と、11世紀初頭の刀伊の入寇は、実はきわめてパターンの酷似したものであるということができます。
元寇も、元、つまりモンゴルによる日本侵攻とされていますが、実体は朝鮮兵による日本侵攻です。
刀伊の入寇も、女真族(刀伊)による日本侵攻とされていますが、実体は朝鮮兵による日本侵攻です。
同じなのです。
おもしろいのは、日本国内では、この刀伊の入寇をきっかけとして、平安中期の武士団が形成されていきます。
そして武士団が勢力を増し、源氏と平家の二大勢力を生み、源氏による鎌倉政権ができて、武士による政治がおこなわれるようになったとき、元寇が起き、元の大軍は駆逐されています。
それにしても・・・。
「千年経っても忘れない」ところか、
「千年経っても歴史の事実を忘れてはいけない」のは、むしろ日本の方といえるのではないでしょうか。
学校でも、自分でも調べようとせず、ただ表面だけ教えられたことを言われると、残念になる。
壱岐や対馬の殺戮のことなど一言も聞かなかったのであろう者には、わからなくなるのであろうが。
秀吉以前に、不意に、日本を攻め立ててきたものがあったから、秀吉やその当時の人々が、その壱岐や対馬、太宰府くんだりまでやってきて殺戮のかぎりを尽くされた恐怖の記憶を覚えていたからこそ、あのようなことが今後起こらないように対処しただけであろうことも、日本人はもとより、世界中が知るべきことだと思われる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2858.htmlより以下抜粋〜〜〜〜〜〜
寛仁3(1019)年といいますから、「この世をば吾が世とぞ思う望月の・・・」と読んだ藤原道長が全盛を極め、紫式部が『源氏物語』を書いた平安時代の中頃のことです。
壱岐島に突然、50隻ばかりの船がやってきました。
ひとつの船の大きさは、だいたい15メートルくらいです。
その船に約60人ずつが分乗していました。
壱岐に上陸した彼らは、100人単位で一隊をつくりました。
戦闘隊の20~30人が斬り込み隊の役目で、後ろの70~80人が弓や盾を持っています。
彼らの持っていた矢は、長さ4~50cmの短いものですが、楯も射通すほどの貫通力があったといいます。
彼らは上陸と同時に、民家に襲いかかりました。
そして牛馬を盗み、切り殺して食い、老人と抵抗する者を殺し、女を犯し、生き残った者たちを船に拉致しました。
彼らは「牛馬を切っては食い、また犬をしてむさぼり食らう」と記録されています。
船上では、病人は簀巻きにして海に投げ入れて殺したと記録されています。
略奪後の民家はすべて焼き払い、穀物も奪っています。
「暴徒上陸」という知らせを受けた国司・壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいました。
けれども敵は3000人の大部隊です。衆寡敵せず玉砕してしまう。
藤原理忠を打ち破った賊徒たちは、壱岐島の真ん中にある、国分寺(嶋分寺)に攻め込みました。
寺には島民たちも逃げ込んでいました。
そして常覚和尚(じょうかくおしょう)の指揮の元、僧侶と島民たちで応戦し、なんと賊を三回まで撃退しています。
戦闘が膠着状態になったとき、常覚和尚は島を脱出して、状況を大宰府に報告に向かいました。
残された僧侶たちは必死に戦い続けました。
そしてついには全滅し、嶋分寺も全焼させられてしまっています。
島から女子239人と、若干名の男子が連れ去られました。
壱岐島で生き残った者は、わずか35人だけでした。
4月7日、対馬からも大宰府に対馬の危急の知らせが届きました。
このときの対馬守遠晴からの報告です。
*****
対馬に刀伊国(といこく)の者が50隻あまりの船でやってきた。
彼らは殺人や放火をしている。
彼らは隼のように迅速で、数が多く、とても対抗できない。
壱岐では壱岐守理忠が殺害され、ほとんど全滅状態である。
彼らは博多警固所と目と鼻のさきの能古島まできている。
******
知らせを受けた大宰権帥の藤原隆家は、すぐに京都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばすとともに、応戦のために九州の豪族や武士非常招集をかけました。
しかし翌8日には、賊が筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸してきます。
彼らは筑前の沿岸部を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたうえ、おびえる男女を追いかけて、4~500名を捕らえて船に乗せます。
また、かず知れない米穀類を略奪しました。
この時点で戦力の不足した藤原隆家は、少数の精鋭を率いて、個別撃破を狙い、敵の不意をつく戦法で戦いを挑みました。
この作戦は有効で、賊は崩れ、この日の夕方には海に逃れて能古島に去りました。
翌9日の朝、刀伊は、藤原隆家軍の本拠である大宰府警固所を襲撃してきました。
しかし藤原隆家は寡兵ながらも勇敢に戦い、逆に賊を追い詰めました。
賊の生き残った者は、能古島に逃げて行きました。
そして神風が吹きました。
10日、波風が強くなり、船が足止めとなったのです。
賊たちは身動きできない。
一方、藤原隆家のもとには、非常呼集に応じてくれた近隣の豪族たちがから、兵が集まりました。
11日午前6時頃、賊が、再び大宰府に上陸してきました。
藤原隆家は、上陸した賊を皆殺しにし、敵の生き残り二人を逮捕しました。
一人は傷つき、一人は女でした。
13日、賊徒は、今度は肥前国松浦郡の村里を攻めてきました。
ここではすでに知らせを受けて、待ち構えていた前肥前介・源知という武将が、賊徒を殲滅しました。
そして敵の生存者一人を逮捕します。
こうして賊は、恐れをなして、半島に帰国しました。
帰国途中、高麗がこれを待ち伏せ、戦力の減った残りの賊を全滅させ、日本人捕虜270人を助けて、日本に送り返してくれました。
この事件による日本人被害者は、殺害365名、拉致1289名、牛馬380匹殺生または行方不明、家屋45棟以上全焼というものです。
とくに女子供の被害が目立っていたといいます。
拉致された1289名のうち、高麗によって保護され帰国できた者以外の千余名は、船上で殺されています。
この一連の事件の発生から、その中盤にかけて、日本側は何者が攻めてきたのかさえ分からない情況でした。
逮捕した三人の族は、三人とも高麗人でした。
その三人は、口をそろえて、
「自分たちは被害者であって、高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てました。
そこで記録上は、賊徒は刀伊(とい)ということになりました。
刀伊というのは、女真族のことを言います。
女真族は、モンゴルと朝鮮の間に挟まれた地域に住む、半遊牧民たちのことです。
高麗からは生存者を送り返してもらっているし、日本としてもあらためて高麗と事を構えたくない。
ですから、これは高麗よりももっとはるかに北側の、満洲よりも北側に住む刀伊たちが起こした事件に違いない、ということにしたのです。
ですから、この事件は、いまでも「刀伊の入寇」と呼ばれています。
時代背景を見ると、この少し前の時代、朝鮮半島の北側には渤海国が栄えていました。
渤海は、交易で栄えた国で、『新唐書』には渤海について「新羅の8倍、高句麗の4倍の領土を誇った海東の盛国」と書かれています。
ちなみに渤海は、日本の東北地方に住む人たちと盛んに交易を行っていました。
渤海には、シルクロードの交易商人たちによって、支那の産物だけでなく、アラビアやヨーロッパからのめずらしい品が入ってきます。
一方、日本の東北地方は大量の金を産出します。
そしてこの時代の東北地方は、まだ大和朝廷には服しておらず、アイヌなどの豪族たちが割拠している情況です。
そして、日本の東北を含む蝦夷地との交易は、渤海に大量の金(Gold)をもたらし、その入手した金によって、渤海は経済的な大発展を遂げていたわけです。
ところが経済重視で軍事をややおろそかにした渤海は、10世紀のはじめ頃には契丹(遼)によって滅ぼされてしまいます。
このため、渤海を追われた女真族の一部が、船で朝鮮半島方面に逃げ、これが朝鮮半島の日本海側の沿岸部を荒らしながら南下し、高麗人を捕虜にして、奴隷兵とし、壱岐、対馬を襲撃し、さらに海を渡って日本まで攻め込んできた、というのが、刀伊の入寇になるわけです。
このことは、日本に攻めてきた賊徒が手にしていた弓が、騎乗からの射撃に便利な短い弓であったことも、証明のひとつになろうかと思います。
この時代の遊牧民たちの戦いは、攻め滅ぼした町で略奪した人々は、最下級の奴隷になります。
その奴隷兵たちは、最前線で戦わせられます。
戦いに勝利すると、新たに獲得した奴隷たちが、その奴隷の下になります。
つまり、すべての兵に上下関係があるわけです。
言うことを聞かず、戦いを拒否すれば、後ろから弓で射られて殺されます。
大陸での遊牧民の戦いは、進撃していく前線の軍団の後ろから、大量の家畜が付いていきますから、食料は羊や山羊が主な食料となるのですが、日本にやってきた刀伊と呼ばれる人たちは、船ですから、家畜がありません。
自分たちの食料や奴隷たちの食料確保のためには、常に村々を襲って、新たな肉を確保しなければなりません。
つまり、最下層の新しい奴隷(捕虜)というのは、単に捕虜というだけでなく、その上の階層の人達の食料でもあったわけです。
この人肉食には、ルールのようなものがあって、病人は食べません。
病人を食べると病気が伝染ると考えられたからです。
ですから、健康な者を食べます。
食べる順は、子供→女性→男の順番です。
整理すると刀伊の入寇は、次のような事態になります。
渤海国を築いていた女真族(刀伊)は、契丹に攻められ、国を失いました。
国を追われた刀伊たちの中で、船で海に逃れた者たちは、朝鮮半島の日本海側を転々と南下し、その間に住民を皆殺しにしたり、捕虜にして食料や奴隷にしていきました。
こうして、徐々に大きな軍団となり、彼らはついに3千人の大軍となったのだとされています。
ここは重要なポイントであり、いちぶ割愛され省略された話です。
というのは、逆に言えば、もともと渤海を追われて船で逃げ出した女真族(刀伊)は、もともとは決して大きな人数ではなかったということだからです。
おそらくはせいぜい100〜200人位の敗残兵たちであったことでしょう。
人は食べなければ生きていけませんから、自分たちの自給の道を断たれた刀伊たちは、朝鮮半島に至る道中で村を襲ったであろうことは容易に想像がつきます。
ただ、遊牧民というのは、基本的な行動パターンとして、生き物を大切にします。
もともと家畜とともに生きる人たちだからです。
その意味で捕虜は家畜のうちですが、移動に際して生きていれば、動物にせよ人間にせよ、自分で歩いてくれるのです。
死んだらただの荷物です。
そういう思考が彼らの思考です。
ですから刀伊が朝鮮半島沿岸を移動しながら、もともと100〜200しかいなかった集団が、いつの間にか3千の大軍団に増殖したということは、ひとつには朝鮮半島沿岸部の人たちが捕虜や奴隷になって行ったことを示すとともに、今度は逆に人数が増えた分の食料確保の必要が生じたということです。
そうなると捕虜となった人たちは、自分たちが食べられないためには、もっと別な村を襲い、そこの住民から食料を奪い、またそこの住民を食料にする必要が出てきます。
ですから壱岐対馬を襲撃した「刀伊」というのは、女真族の集団ではなくて、女真族(刀伊)を頂点としながら、9割以上が朝鮮半島の人たちで構成される集団だったということです。
彼らはまず、小さい方の島である壱岐を襲撃し、住民たちを奪いました。
このときの彼らの行動は、
1 牛馬を盗み、穀類を奪い、犬をしてむさぼり食った。
2 老人と抵抗する者は殺した。
3 女は犯し、生き残った者は船に拉致した。
4 船上では、病人は簀巻きにして海に投げ入れて殺した。
5 略奪後の民家はすべて焼き払った。
というものです。
人の肉を食べるという民族的習慣は、遊牧民のものではありません。
もともと飢餓に際して人肉食をあたりまえに行っていた支那人と、その隣国であって同じく収奪国家であった朝鮮半島人固有の習慣です。
その人肉食の習慣を持つ支那朝鮮には特徴があって、病人は食べない。
老人も、肉が少ないので、他に食べ物があれば、食べない。
また、犬を食料にすることでは、最近でも、赤系の犬の行方不明が相次いでいる事件が日本国内で起きています。
また、略奪のあと、民家に火を付けますが、これは焼き肉のためでもあった習慣で、いまでも特に半島人は、なにかにつけて、爆破や火をつけます。
こうした民族的傾向というか特徴というのは、普段は埋没しているけれど、いざ危機状態になるといかんなく発揮されるものです。
そして彼らの戦いというのは、そもそもが食料を得るための戦いですから、相手が無抵抗であったり、寡兵で弱いと見れば徹底的になぶり殺しにします。
相手が強ければ、そくさくと退散する。
戦いの目的が、政治的なものであったり、主張を通したりするためのものではなくて、あくまで食料確保のため、生きるためだからです。
自分が死んだら食えなくなるどころか、食われてしまう。
刀伊の入寇が起きたのは、11世紀のはじめです。
元寇よりも250年も昔のことですが、パターンは元寇と実はよく似ています。
どういうことかというと、元寇に先立って、モンゴルは朝鮮半島を従えようとしました。
ところが当時の高麗の王族たちは、自分たちだけ離島にサッサと逃げています。
モンゴル軍団は馬を使いますが、島に逃げれば彼らは海を渡れないからです。
このため朝鮮半島内は無政府状態となり、三別抄といういわば暴力団が跋扈します。
そこにモンゴル騎兵達が攻め込んできたわけです。
ところが高麗国そのものは、まるで無抵抗です。というより逃げてしまっています。
結果、朝鮮半島内では、普通にはありえない、不思議なことが起こります。
朝鮮半島内に侵攻したモンゴル騎兵達が、朝鮮半島内の民衆を保護するために、朝鮮人の三別抄という匪賊たちと戦うことになったのです。
こうなると一般の朝鮮の民衆からしてみれば、モンゴル騎兵は自分たちを保護してくれる神様のような存在となります。
結果、モンゴル軍団が帰るとき、朝鮮半島内の民衆60万人が、モンゴル軍団に付いて大陸方面に移動してしまうのです。
当時の朝鮮半島の人口は約2百万人です。
つまり、人口の約3分の1が、朝鮮半島を捨ててモンゴルに付いて行ってしまうのです。
モンゴルは、こうして付いてきてしまった朝鮮人たちに、いまの満洲南部あたりの土地を与え、そこで自活し生活するように命じます。
そしてその後、高麗王朝がモンゴルに降伏する。
降伏した高麗は、モンゴルのハン(大王)であるフビライに、
「我々の土地には何もないが、海を渡った向こうには巨万の富を持つ国がある」と、日本を攻めることを進言しました。
このことはマルコ・ポーロの『東方見聞録』に記述があります。
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ジパングは東方の島で、大洋の中にある。
住民は肌の色が白く礼儀正しく偶像を崇拝している。
ジパングには金(Gold)があり、彼らは限りなく金を所有している。
この島の君主の宮殿は、屋根がすべて純金で覆われ、床も約4cmの厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様である。
また、この島には赤い鶏がいて、すこぶる美味である。
多量の宝石も産する。
フビライはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。
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要するに自分が助かりたいがために、南の島の日本にたいへんな富があるとホラを吹いたわけです。
その結果、元寇でやってきたのは、元の軍団と高麗の軍団ということになっていますが、これまたすこし言葉が足りません。
ここでいう元の軍団というのは、先にモンゴルについて、満洲南部に移動した元高麗人たちです。
その元高麗人たちは、高麗国に残った人たちよりも「先にモンゴルの子分になったから、自分たちは高麗兵よりも偉い」として、高麗兵に対して居丈高になっています。
彼らの考え方は、上下関係がすべてなのです。
ですから、日本にやってきた元寇は、モンゴルと高麗の軍団ではなくて、実は元高麗人と、現高麗人、つまり指揮官を除き、兵はことごとく朝鮮族であったということです。
そして彼らは壱岐対馬を襲い、住民を皆殺しにして食料にしました。
繰り返しますが、遊牧民は人殺しは好みません。
人は生かして使う、というのが彼らの発想です。
だからこそ、朝鮮半島から60万人がついてきたのだし、高麗の住民をモンゴル族が皆殺しにしたり食料にしたという記録はありません。
ところが支那人や朝鮮族は、相手が弱ければ殺して食べるというのが風俗習慣です。
ですから壱岐対馬を襲っています。
つまり、250年後に起きた元寇と、11世紀初頭の刀伊の入寇は、実はきわめてパターンの酷似したものであるということができます。
元寇も、元、つまりモンゴルによる日本侵攻とされていますが、実体は朝鮮兵による日本侵攻です。
刀伊の入寇も、女真族(刀伊)による日本侵攻とされていますが、実体は朝鮮兵による日本侵攻です。
同じなのです。
おもしろいのは、日本国内では、この刀伊の入寇をきっかけとして、平安中期の武士団が形成されていきます。
そして武士団が勢力を増し、源氏と平家の二大勢力を生み、源氏による鎌倉政権ができて、武士による政治がおこなわれるようになったとき、元寇が起き、元の大軍は駆逐されています。
それにしても・・・。
「千年経っても忘れない」ところか、
「千年経っても歴史の事実を忘れてはいけない」のは、むしろ日本の方といえるのではないでしょうか。