昨日の 台風のために 運動会が今日になったところがあるらしく 今朝6時ごろ 遠慮がちに 花火が上がっていました。
「あー どこかで運動会なんだ」と 朝の支度をしながら つぶやいていました。
運動神経の鈍かった私は 運動会が苦手でした。
それでも 昭和20年代 敗戦の日本 皆一生懸命 頑張っていました。
映画と ラジオぐらいの娯楽の中 子供の運動会は にぎやかでした。
当日の朝 母は早くから弁当作りに 精を出していました。
丸い小さな 飯台にノリを広げノリ巻きを巻いていました。 その海苔巻きに包丁を入れ 干瓢や椎茸卵焼きの垂れさがる端を
待ち受けて 口に入れていました。
そんな時 母の口癖は 「お前は かけっこは遅いのだから仕方ないが 転んだら次の人がすぐ来るから 転ばないように」と
口癖のように 言ってました。
そして今日は 政子ちゃんに 花を持たせる日だからとも 言っていました。 足の速い政子ちゃんはいつも最後の対団リレーの
選手でした。
ノリ巻きの端で お腹を満たすと急いで学校に駆け込んでいました。
一番初めの 入場式から見なければ 楽しくないとの母の意志は づーと続いていた記憶があります。
運動場の周りには 沢山の出店が並び お昼に少しアルコールの入った父ちゃんは 千鳥足でござを抱えて帰っていました。
あの時の 母の着物の模様まで 眼底に残っています。
帰宅すると その日の夕食は運動会のお重の残りでした。
もう70年も 過ぎた思い出ですが いまだに鮮明に記憶しています。
無事に 運動会が終わり 終了の花火が上がっていましたが 今は聞くこともありません。
おぼつかない足取りになりましたが 人生 残りの少なくなった今 色々思い出して 牛が反芻するように
思い出を かみしめています。
私の思い出は、人とはちょっと違ってるから〜〜
写真館を経営していた父は 何かにつけて その時の写真を写しに 朝一から 会場にいました。
そして私のことを先生もわかってて 何もない時は 父の手伝いをすることに目を瞑ってくれてました。
だから「運動会の思い出=楽しかった・・・」ってことは無いんです。
そして 我が子の時は 嫁ぎ先が商売をしていて 昼食の時間に間に合うように 弁当を届け ちらっと三人のこの顔を確かめて帰る、そんな運動会でした。
子供達にはかわいそうなことでしたが 反面教師でしょうか 子供は 私が思う以上に 私のことを考えててくれて 大人になってくれました。ありがたいことです。
でも、そう仕向けた姑の自慢は 「運動会に行くと 〇〇くんのかぁちゃん、来たぞ〜」ってみんなに息子を呼んできてもらえたこと でした。
商売なんてそっちのけで 丸一日学校に浸かっていたようです。笑
ご近所 同じところに座り どこの子が走るか楽しみにしていました。
時代とともに 運動会も変わり もう長いこと運動会も 見ていません。