雨の音がしています。
世の中には「レインスティック」といって、雨の音がする楽器があります。
乾燥させた筒状のサボテンの内側に、たくさんの刺が刺さっていて、
筒の中には種が入っていて、揺するとザァ~ッと雨が降るような音がする楽器です。
アフリカや中南米で使われる楽器のようで、雨乞いの儀式にも用いられるそうです。
私がYouTubeで聴いたレインスティックでの雨音は、心地よいリズムで、眠くなる音でした。
アロマトリートメントをするときのBGMでも、
水の音や波の音、雨が降っているような音のCDをかけます。
なんだか、落ち着くのでBGMに選ぶことがあります。
でも実際の今、私の耳に入ってくる雨の音は、
「嗚呼、また雨が降りだした…」という感歎の気持ちが沸くだけです。
不思議なもんです。
珈琲とお茶、どっちが飲みたいか。
赤と青の紙、どっちにするか。
ラーメンとうどん、どっちにするか。
・
・
・
その他、どっちにするか、どっちにするか。
私たちは、色々な場面で何かを選択しています。
そして、選択するときには、無意識のうちに「選択肢A」「選択肢B」を比べて、
どちらか一方を選んでいます。
ときには「選択肢C」や「選択肢D」もあることもあるかもしれません。
そして、選ぶ理由は、
自分が好むほうであったり、そのときの状況にふさわしいものであったり、
体調に左右されたり、懐具合であったり、
集団の場だからだったり、個人の事情が優先されたり、様々だと思います。
複数のものの状況を分析して、何をしているか、どういう状況か、違いは何かを分析する、
これはフォイヤーシュタインの「比較」という教材の入り口になります。
ものすごく、卑近な例だと、
「リラックマとキティちゃん、どっちが好き?」と聞かれてどちらかを選択する場合、
頭の中で、両方のキャラクターを思い浮べて、どちらが好きかを選びます。
「キティちゃんが好き!」と答えたならば、
「どうしてキティちゃんが好きなの?」とその理由を言語化してもらいます。
理由を考えるということは、「どうして自分はキティちゃんを選んだのか」ということを
リラックマとキティちゃんとの違いを比べて、分析していくことになります。
比べるということは比較するということ。
比較して、違いを見つけて、自分が好きなほうを選ぶ。
自分で自分が好きなものを選ぶ、という行為は楽しいものだと思います。
さらに、比較ができるということは、細かな違いがわかるということです。
3と8は形が似ているけれど、違うということをわかっていないと計算間違いをします。
字が乱暴で、6と0が同じようになってしまっても、ちっとも構わないという感覚の子もいます。
「人」とい字と「入」とい字も一緒のように感じるかもしれません。
「ろ」と「る」もごちゃごちゃ、「シ」と「ツ」も運次第ということもありますね。
「バナナとキウイ、なにが同じで、何が違う?」
そんな入り口から、食べながらでもくらべっこしてみると良いですね。
そういう日常のくらべっこの積み重ねで言語化していくことが、
やがては「私は、あれとこれ、どっちがやりたいのかな。」と
進路の選択や人生の選択にまで繋がっていく、そう思うのです。
世の中には「レインスティック」といって、雨の音がする楽器があります。
乾燥させた筒状のサボテンの内側に、たくさんの刺が刺さっていて、
筒の中には種が入っていて、揺するとザァ~ッと雨が降るような音がする楽器です。
アフリカや中南米で使われる楽器のようで、雨乞いの儀式にも用いられるそうです。
私がYouTubeで聴いたレインスティックでの雨音は、心地よいリズムで、眠くなる音でした。
アロマトリートメントをするときのBGMでも、
水の音や波の音、雨が降っているような音のCDをかけます。
なんだか、落ち着くのでBGMに選ぶことがあります。
でも実際の今、私の耳に入ってくる雨の音は、
「嗚呼、また雨が降りだした…」という感歎の気持ちが沸くだけです。
不思議なもんです。
珈琲とお茶、どっちが飲みたいか。
赤と青の紙、どっちにするか。
ラーメンとうどん、どっちにするか。
・
・
・
その他、どっちにするか、どっちにするか。
私たちは、色々な場面で何かを選択しています。
そして、選択するときには、無意識のうちに「選択肢A」「選択肢B」を比べて、
どちらか一方を選んでいます。
ときには「選択肢C」や「選択肢D」もあることもあるかもしれません。
そして、選ぶ理由は、
自分が好むほうであったり、そのときの状況にふさわしいものであったり、
体調に左右されたり、懐具合であったり、
集団の場だからだったり、個人の事情が優先されたり、様々だと思います。
複数のものの状況を分析して、何をしているか、どういう状況か、違いは何かを分析する、
これはフォイヤーシュタインの「比較」という教材の入り口になります。
ものすごく、卑近な例だと、
「リラックマとキティちゃん、どっちが好き?」と聞かれてどちらかを選択する場合、
頭の中で、両方のキャラクターを思い浮べて、どちらが好きかを選びます。
「キティちゃんが好き!」と答えたならば、
「どうしてキティちゃんが好きなの?」とその理由を言語化してもらいます。
理由を考えるということは、「どうして自分はキティちゃんを選んだのか」ということを
リラックマとキティちゃんとの違いを比べて、分析していくことになります。
比べるということは比較するということ。
比較して、違いを見つけて、自分が好きなほうを選ぶ。
自分で自分が好きなものを選ぶ、という行為は楽しいものだと思います。
さらに、比較ができるということは、細かな違いがわかるということです。
3と8は形が似ているけれど、違うということをわかっていないと計算間違いをします。
字が乱暴で、6と0が同じようになってしまっても、ちっとも構わないという感覚の子もいます。
「人」とい字と「入」とい字も一緒のように感じるかもしれません。
「ろ」と「る」もごちゃごちゃ、「シ」と「ツ」も運次第ということもありますね。
「バナナとキウイ、なにが同じで、何が違う?」
そんな入り口から、食べながらでもくらべっこしてみると良いですね。
そういう日常のくらべっこの積み重ねで言語化していくことが、
やがては「私は、あれとこれ、どっちがやりたいのかな。」と
進路の選択や人生の選択にまで繋がっていく、そう思うのです。