あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

再び 詩人:桜井哲夫さんについて 

2011-02-10 18:32:59 | インポート

 桜井さんの詩集や解説を読んでいくと,いろいろ新たに分かったことがあり,人間としてのスケール大きさや温かな人間性をさらに強く感じました。この点なども含め,改めて桜井さんの魅力を紹介していきたいと思います。

○海外への旅行

 桜井さんがタイに行ったのは,タイへの募金がきっかけでした。タイにあるハンセン病施設が良い水に恵まれていないという情報を耳にし,井戸を掘る資金を送付しました。たとえ異国の地であっても,同じ病気で苦しんでいる人のためにできることは実践する。そのまっすぐな優しさと行動力の前に,頭が下がります。この厚意に対する返礼として,タイの施設から招待を受け,訪問することになったのです。タイの施設訪問では,子どもたちとの心温まるふれあいがあり,その様子を詩に書いています。

…… (一部を抜粋)

子供達は元気よく歌い踊ってくれた

子供達は柔らかい手で俺の手をさすり禿げた頭を撫でた

子供達が朝から作ったという花の首飾りを首からかけてくれた

名も知らぬ花の匂いに俺の目が潤んだ

女医のカンチャナ先生と一緒にジャックフルーツの苗を二本植えた

……

 子どもたちの踊りや歌声,手のぬくもり,朝から時間をかけ心をこめて作ってくれた首飾りに,目が潤んだのですね。ジャックフルーツは5年後に花を咲かせ実をつけるということを知り,桜井さんは5年後にまた来ることを子どもたちに約束します。

 韓国にも出かけていろんな交流をします。韓国行きのきっかけは,詩の先生であった村松武司さんとの出会いにあったようです。村松さんが韓国の人の前で,過去の歴史を踏まえ自らを侵略者と語るのを耳にし,桜井さん自身も韓国へ行く思いを次のような詩にしています。

……(一部を抜粋)

私は行こう韓国へ そして韓国人の前で言おう

「私は侵略者」と

そして深く膝を折り謝罪してこよう

私には謝罪の他に何もできないのだから

 自らを侵略者と表現することは,過去の歴史の加害責任を自ら背負うことであり,非を認め謝罪することは,両国の溝を超えて同じ人間として分かりあうための前提である……と桜井さんは考えたのではないでしょうか。詩の師匠であった村松さんが亡くなり,偲ぶ会が開かれた時には多くの韓国人が集まり,「お前はなぜ死んだ」と言って号泣したそうです。桜井さん自身も師の死を悼み,「侵略者」としての立場を継承したのではないかと思います。

 五体満足な私は,いろいろ不安な面があり,外国へはまだ一度も出かけたことがありません。それなのに,五体不満足であるはずの桜井さんは,さっそうと外国へ出かけ,子どもやその国の人々と心からの交流を実践してくるのですから,驚きます。国境を超えて人と人とがふれあい,分かり合うことの大切さや楽しさを,まっすぐで純粋な感性を通してしっかり味わっておられるのではないかと思います。

○ 詩の中に見る 限りない優しさと明るさ

      『 目 』  

  おふくろさん あなたがくれた左の目は

  酸性杅状菌が奪っていったよ

  だけど残った右の目から

  温かい涙がでます

※ハンセン病の進行に伴い,29歳で残った右の目も失明します。目が見えない悲しさではなく,温かい涙がでることを言葉にしています。けっして,お母さんを責めるのではなく,温かい涙を流すことのできる自分を産んでくれたお母さんへの感謝の思いが,おふくろさんと呼びかける言葉の内に込められているような気がします。

     『入れ歯が逃げた』 

  看護婦さぁーん

  入れ歯が逃げたよ

  枯れ葉と一緒に入れ歯が逃げた

  幾ら追いかけても

  早い早い 入れ歯が走る

  坂を下り 電車に乗って

  何処かへ逃げて行った

  里美のリンゴの木に登って

  リンゴを食べているのか

  赤く熟れたザクロの実を食べているのか

  それとも渋川の食堂で

  カルビを抓みながら大ジョッキを傾けながら飲んでいるのか

  入れ歯を使って二十年

  入れ歯は何時も俺と一緒に

  俺の好きな物だけ食べてきた

  たまには入れ歯よ

  お前の好きな物だけ食べるがいい

  入れ歯よ 夕食の時間までには帰って来いよ

※楽しい詩で,底抜けの明るさと優しさを感じる詩です。入れ歯はもう一人の自分なのかもしれません。枯れ葉のように風にとばされ,電車に乗ったり,リンゴの木に登ったり,渋川の食堂でカルビを抓み大ジョッキを飲んでいる自分を想像しているのでしょうか。(自由にこんなことができたらいいなあという願いでもあるかもしれません。)最後の3行がいいですね。まるで長年連れ添ってきた奥さんのように入れ歯をとらえ,優しい心遣いに微笑んでしまいます。

     『ヤヨイの手紙』  

  ヤヨイは昭和12年の春 兄の長女として生まれた

  敗戦後の食料不足の足しにと母から凍餅が送られてきた

  荷物の中に文盲の母の手紙があった

  書いたのは小学校5年でヤヨイであった

  便箋に書いたヤヨイの手紙は大きな文字で踊っていた

    しみもづおくった               ※しみもづ~凍餅

    ひとばん水にうるがして          ※うるがす~浸す    

    すりばちにいれて ましげでしって    ※ましげ~すりこぎ ※しって~擂る

    さとうをいれてやいて

    まさことふたりでけってけれ        ※まさこ~26歳で亡くなった妻 

                             ※けって~食べて

  ヤヨイが亡くなったと故郷の甥から手紙があった

  弘前市に美容院を開き 二人の子供を育て

  懸命に生きたヤヨイよ

  もっともっと長く生きて欲しかったのに

  今あなたがくれた手紙を目を閉じて

  何度も何度も静かに読んでいます

※大きな文字で書かれた,ヤヨイさんが書いた手紙。書いたヤヨイさんを悼む思いが清澄に伝わってきます。また同時に,方言で綴られた言葉から,お母さんの肉声が聞こえ,自分と妻を気遣う優しさが感じられてくるのではないでしょうか。そのお母さんの優しさまで,ヤヨイさんは手紙の文字に込めたのかもしれません。