あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

生きるということについて 思うこと

2011-02-14 10:21:23 | インポート

筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症した千葉県勝浦市の照川貞喜さんの闘病記録が,新聞に連載されていました。『患者を生きる』のシリーズで取り上げられていました。

1992年の4月のことです。2度目の呼吸困難に襲われた時,貞喜さんは人口呼吸器を着けるか着けないかの判断で迷い,着けないと決めました。しかし症状が進み死への恐怖が強まり,その決心が揺らぎます。着けないと決めたのに,着けてほしいと言うのは恥だ。そう主治医に話す夫の思いを聞いて,妻の恵美子さんは,本人は生きたがっているんだと確信します。同時に自分が夫の手足となって介護することを覚悟します。再度呼吸困難に陥った2日後に,貞喜さんには首に通した管を通じて空気を送る人工呼吸器がとりつけられます。

それ以来,奥さんの献身的な介護に支えられ,声が出なくても,文字盤や口文字盤,センサーで操作できるソフトを組み込んだパソコンなどを使って,貞喜さんは奥さんと意思疎通を図ることができました。しかし,症状は進み,貞喜さんに残った体の機能を容赦なく奪っていきます。スイッチを操作する指や口が動かなくなり,やがて額のしわに張り付けたセンサーも操作ができなくなります。1903年には,センサーを貼り付けた左ほおの筋肉も活動をとめ,「最後に残った右ほおも動かなくなれば,社会と隔離される。それは耐えられない」と思うようになります。

そして1906年から少しずつ,今後の医療についてついての希望を要望書として書き始めます。パソコンの五十音表から目的の文字を一つずつほおのセンサーを動かして拾い,1年間根気よく入力して計9ページの要望書を作り上げます。

意思を伝える方法をなくし,外界との意思疎通を完全に断たれた状態をTLSと言います。貞喜さんはこの要望書の中で,TLSになったら,苦しくないようにして,呼吸器をはずして死なせてほしいと希望し,最後に「TLSになって人生を終わらせてもらえることは,『名誉ある撤退』と確信しています」と述べています。

恵美子さんは,夫に何度もその決心を尋ね,変わらないことを確かめます。そして,発症して20年近く,夫が苦しみを乗り越え続けてきたことを思い,1907年11月に,その要望書に3人の子どもといっしょに署名し,病院に提出します。病院では,倫理問題検討委員会で1年近く議論を重ね「意思を尊重することは,倫理的に問題はない」という結論を出します。しかし,呼吸器をはずすという行為は,刑事責任を問われる可能性もあり,院長は「実際に止めるのは難しい」との立場を語っています。

一度着けた呼吸器は,はずすのが難しい。貞喜さん自身は,着けるかどうかで悩み,着けることでその後の楽しい生き方を見つけることができましたが,中には後で外すことができないことを知って着けることを拒否し亡くなった人もいます。

意思疎通ができなくなったら,呼吸器を外してほしいという貞喜さんの思いは,変わりません。伝える手段が本当に尽きる時まで,精いっぱい生き,その考えを発信していきたい。その根底には「体が不自由でも心はいまも自由だ」という思いがあります。

尊厳死という言葉がありますが,文字通り貞喜さんの決意は,精いっぱい生きた上で死を選択するという尊厳死の考え方なのではないかと思います。生の終わりを自らの意思で決めることができるのは,意思疎通ができる段階までです。体が不自由でも心が自由だという思いには,生きる上でどんなに意思疎通ができるということが大切であり,尊いものであるかを実感している,貞喜さんの心からの熱いメッセージが込められているように感じます。

孤族の国のシリーズでは,ゆがんだ社会の中で,助けを求めることもできずに亡くなっていく,さまざまな孤独死が取り上げられていました。そこからは,人と人とがつながることのできない社会の矛盾やゆがみと同時に,生きる力を喪失した人間としての弱さを強く感じました。

たとえ孤という弱い存在であっても,生きる上での懸命さや強さを失ってはいけないように思います。なぜなら,死と隣り合わせの病床にあっても,唯一動かすことのできるほおを使って,意思疎通を図り,精いっぱい生きている貞喜さんのような方もいるのですから。誠実に生を全うし死に臨む在り方を,その姿や生き方を通して教えてくださっているように思います。

私自身同じような立場になった時には,『名誉ある撤退』を選択したいと思います。