A&K の NOTES

陽はまたのぼり、陽はまたしずむ。あちこち歩き回りながら、スケッチを楽しんでいます。

パリ管弦楽団 ・・・京都コンサートホール

2011-11-23 | 音楽

 

 

★パリ管弦楽団
京都コンサートホール 大ホール
2011/11/23(水) 15:00開演

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ 
ピアノ:ダヴィッド・フレイ

メシアン:忘れられた捧げもの
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
ベルリオーズ:幻想交響曲

 

あまりに洗練された、鮮やかな、そしてパーフェクトな音楽に、
《これはデジタル音楽か?》
目の前の80人にも及ぶフルメンバーオーケストラ演奏にも関わらず
眼を閉じれば、完璧にチューニングされた巨大ステレオ音源のような感覚。
もちろん、最大の賛辞の表現のつもりです。

これは楽器の奏でる音楽?
彼らは楽器の形をした特殊な機器を使っているのではないだろうか?

《ベルリオーズ》の《幻想》は、世界を一瞬に変える《鐘の響き》が魅力的。
僕の席は一階中央辺り、《鐘は天から響いてきた》ようだった。
ステージにはなかったが、いったい何処にあったのだろうか。
そして圧倒的なクライマックスへ。
鳥肌が立つのを感じ、
目頭が熱くなり、
全てを持っていかれないように必死に耐え、
感極まる時、《幻想》は終わった。
拍手!

アンコールは、
ビゼーの「アルルの女」より「ファランドール」
シベリウスの「悲しきワルツ」。

余韻を愉しむ。
キラキラ輝く音は一体なんだろう?

 

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ワシントン・ナショナル・ギャラリー展

2011-11-17 | 展覧会

 

★ワシントン・ナショナル・ギャラリー展
京都市美術館

印象派とポスト印象派の作品から、日本初公開作品約50点を含む全83点を展示。
観たかったのは。マネとセザンヌ。
会場でよかった、これは《得した!》と思ったんは、シスレー、ピサロ、そしてスーラー。

まず、ポスターに採用されているゴッホの自画像。
ぐるりと回って、一番最後に《おつー》とご対面になる。
この作品、かなり色褪せた印象を受けた。
制作当時は色彩が輝くばかりの激しい絵ではなかったか。
白いバラの絵もあったが、これは完全に《レッド》がはげ落ち、《白いバラ》になっている。
これだけ色彩に損傷があると、《ゴッホの絵は淡白になる》。
ゴッホの名声は情熱な色彩が後世にしっかり残ってこそ継続する。
百年後あたりにも《ゴッホ》の名声は色褪せることなく残るのだろうか。


順を追って。
バジールのプチブル的素直さが好きで、いつもじっと見つめる。
出自が裕福なんで、絵にも気品みたいなものが漂う。
そこがこの人の絵画の魅力。
しかし、そこが後世の人には解ってもらえないところでもある。
中庸にみえてしまうのでしょう。
《中庸が最高の美学》と思うこともあるんですが、、、。


マネの絵画。
彼の絵は、解りやすく、今から振り返ればかなりのアカデミックなスタイルだが、
当時は相当にスキャンダラスな旋風を巻き起こした野心家である。
絵に表現された当時の世相を理解することが《マネの絵画の本質》に迫る唯一の方法。
彼は革新家であろうとしたが、リアリストでもあった。
彼は都会の空気をこよなく愛した。


●エドゥアール・マネ 《オペラ座の仮面舞踏会》1873年 

黒の人物集団の不定形の塊と白の柱の直線の対比が美しい。
僕は密かに《マネは白と黒の作家》と決め込んでいる。
場内のざわめき、男と女の駆け引きが聞こえてきそうだ。
マネは人の息づかいみたいなものに関心があったのではないかと思われる。
向かって右端に、ちゃっかり自分自身を書き込んでいる。


●アルフレッド・シスレー《アルジャントゥイユのエロイーズ大通り》1872年

冬景色である。
シスレーとモネは同じ場所にイーゼルをたて、この風景を描いている。
モネは感情の動きが盛んで、シスレーはストイック。

 

●カミーユ・ピサロ 《カルーゼル広場、パリ》1900年


ピサロは職人である。
彼の才能は堅牢な構成力に表れている。(見逃されているが)

 


●ジョルジュ・スーラ 《オンフルールの灯台》1886年

 

大好きな《スーラー》。
彼の描く《静寂な空間》に惹かれる。
大きな面を細やかな点描で埋め尽くす執念。
計算し尽くした色彩。
早くして人生を終えているので、とにかく惜しい。
どんなに美しい作品が生み出されたことか。
彼のストイックな執念に学ぶ。


●ポール・セザンヌ 《赤いチョッキの少年》1888-1890年


今回の展覧会で一番興味があった作品。
自分の人生の中で、まさかこの作品に出会うとは思っても見なかったこと。
感激!

作品の前に立つと、人物画としては、何の情感も湧いてこない作品ではある。
しかし、いろいろ考えさせられる。
腰のひねり、手のポーズ、絵画全体の動き、
無理矢理空間をひねったような、こじ開けたような力技を感じさせる。
しかも、真ん中に《レッド》。
画面全体が《おそるべくタイトな空間》である。
《セザンヌさんは、頑固な人だったんでしょう》

 

 

 

会場を出れば、商魂逞しく、ミュジアムショップが待ち受けている。
あまりの凄さにびっくり。
出口に一番近いところに、なぜか、記念切手販売コーナーあり。
《コナン》の記念切手を1シート購入。
《赤いチョッキの少年》のイメージを引きずったかもしれない。

 

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帰ってきた江戸絵画

2011-11-15 | 展覧会

 

 

★帰ってきた江戸絵画
京都文化博物館


実はあまり期待をしていなかった。
《アメリカ人コレクターの視点》ということで、
《フジヤマゲイシャ的》なものかな?と勝手に思いつつ、
されど、やはり、宗達や若冲は気になるしというとで、
会期末ぎりぎりになって、ようやく文博に出かけてきた。
改装後、初めての京都文博である。

注目絵師のオンパレードだった。

まず、会場に入った瞬間、背筋に稲妻が走った。
若冲のキリーとした墨の線が鋭く紙に食い込んでいる。
抽象的というか、一時のアンフォルメル的線のような緊張感。
よくもこれだけ単純化したもんだと若冲の造形力に呆れて観てしまう。

 

●伊藤若冲《寒山拾得図》宝暦11年(1761)


●伊藤若冲《白象図》寛永7年(1795)


長澤芦雪には、深々と魅入った。
輪郭を描かず描写する水墨画の魅力はたまらない。
そして注目の琳派の絵師たち。

 

●俵屋宗達《鴨に菖蒲図》17世紀前期

●酒井抱一《朝陽に四季草花図》文政4-11年(1821-28)

 

宗達の筆はやはり雅である。
桃山のおおらかさが好きだ。
さすが酒井抱一あたりになると、江戸の侍の匂いがするが、
それでも琳派のデザイン性は引き継がれている。
琳派のデザインとは、僕が思うに、平安の曲線であり、平安の間(時間)である。
現在から顧みれば、すごく抽象性が強い。
平安の美意識を生み出した人々は、現実からかけ離れたところで生きていたに違いない。

江戸の絵師たちの水墨が楽しい。
江戸はリアリズムの時代と言える。
写実の視線が小気味良く筆に伝わり、洒脱で粋である。
小品が多いが、これだけ並ぶと、唸らせられ、和まされた。
池大雅、円山応挙、呉春、与謝蕪村、谷文晁、などなど、
そして、大好きな《浦上玉堂》が2点。


●浦上玉堂《火伏金生図》文化11年(1814)
墨の濃淡が繊細であり、印象派の絵のような。

 

 


コレクターのギッターさんの眼力に脱帽。
文博を出た頃は、すっかり日本人として誇りが生まれていた。

 

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キエフ国立フィルハーモニー

2011-11-03 | 音楽

 

★キエフ国立フィルハーモニー
京都コンサートホール
12月3日

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64 (Vn:川畠成道)
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35 (Vn:イヴリー・ギトリス)
ドヴォルザーク:交響曲 第9番 ホ短調 「新世界より」 op.95

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