駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

「さすけねえ」という人達に

2011年07月17日 | 世の中

  

 「さすけねえ」。というのは「たいしたはことない、心配することはない」という意味の福島弁だ。

 放射能の危険性について、さまざまな見解が飛び交っており、国民は戸惑うばかりだ。確かに今回の福島第一原発の事故による健康被害を正確に予言することは難しいのだが、ある蓋然性を示して冷静で息の長い科学的な対応は可能なはずだ。

 チェルノブイリの例も参考になるし、何よりも唯一の被爆国として蓄積されたデータがある。それらを参考にすれば、かなりの精度で物が言える。

 それなのにどうして今回の放射能汚染の評価が曖昧模糊と遠ざけられたり、あるいは瞬時に「さすけねえ」と判断されてしまうのか。それは利害と責任が絡むからなのだ。

 個人レベルの数百万、零細企業の数千万であれば責任追及の手は緩まないのだが、大企業行政の何千億、何兆となると口を拭い、下手をすれば借金棒引きとする構造が潜んでいる。下流域に生息しているのに中流意識を持ち、長い物には巻かれろという防御姿勢が、巨誤に対する制御不全を招いている。

 塵も積もれば山となる。実現は簡単ではないかもしれないが、原理は簡単なこと、フィードバックを働かせることだ。「さすけねえ」という人達には「さすけねえ」リスクを取って貰えばよい。放射能汚染肉を食べても「さすけねえ」という人達にどうだろう、二割引で放射能汚染肉を販売すれば三方一両徳になる。勿論、家族で食べて頂く。「お父さん!あるいはお爺さん!」。と家族の非難に抗しきれない人達に「さすけねえ」という資格はない。あるいは割安で、喜ばれたというならそれもよいではないか。

 私は勿論、今回程度のものであれば平気で食べるのだが、家族郎党には妻から禁止令がでるだろう。例えば浜岡原発から10キロに住宅地が坪一万円で五百坪売りに出れば、私なら太平洋を望む高台に喜んで隠居するのだが、当然妻からは見放され一人侘びしく住む羽目になるだろう

コメント (2)
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