医院の初診料と再診料は法定料金で一定である。卒後二年目の医者が診ても二十年目の医者が診ても同じ、鼻風邪でも肺炎でも同じ、目から鼻に抜ける二十代でも何回も説明しないと分からない八十代でも同じ。
考え始めると、なぜ同じ料金なのかわけが分からず釈然としないので、できるだけ考えないようにしている。品物の値段は、例えば醤油ラーメン一杯の値段は誰が頼んでも同じだし、出てくる品物も僅かにチャーシューの厚さに違いはあっても、同等性が保たれている。
品物でなく人間相手で技術料が加味してくると、どうしても同一料金でも内容に多少幅が出てくるようだ。例えば床屋では親爺がやっても息子がやっても髪の毛の量の多少があっても同一料金である。結局、技術は測定判定が難しいからお決まりの同一にするということなのだろう。
そうはいっても、診察料金は時に何で同じ料金なんだと思うほど手間暇が違う。というのは診察の手間は病気の軽重だけでなく患者の個性に関わるからだ。日常生活ではさりげなく避けることの出来る個性の持ち主と診察室では差しで相手の納得のゆくまでお付き合いしなければならない。看護師が気を利かしてくれないと際限のない人も居る。十人も十五人も次の患者さんが待っているのに、たかだか鼻風邪で自分のこだわりに囚われて、あれこれ言われる患者さんが高熱や痛みで苦しんでいる患者さんよりも時間を取って同じ料金とはおかしいと思ってしまうのだ。
一度でいいから診察室で「ウルサイ」。と怒鳴ってみたい。
我々の業界での、例えば大工さんですが、本当に木を知り尽くして、段取りもよく、細かい細工の得意な人も、電動ノコと釘打ち(最近では釘も打たず、ビスをインパクトで打つだけ)の人も、同じ大工手間なのは合点がいきません。
本当の職人の大工は年々減っていて、カンナをかけたことのない若者が増えています。このままでは、日本の木造の在来工法が減るだけでなく、修理もきかない時代になるのでしょう。
初診では我々はどういう先生か観察しますが、やはり先生の方でもどういう患者か観察されるのでしょうね。私はズケズケとモノを言ってくれる先生の方が信頼できます。
私は5年前、脳動脈瘤のクリッピング手術を受けたことがあります。
初診では先生がどういう患者か観察されている様子が窺えました。その時はお互いが遠慮していましたが、入院後はそれこそズケズケ言う先生でした。おそらく与しやすい患者だと思われたのでしょう。手術後も度々病室に来られましたが、お互いに掛け合い漫才をやっているような会話をしていました。おかげさまで楽しい入院生活を送ることが出来ました。
患者には「ウルサイ」とか「バカヤロー」と言ってください。ちょっとはシャキッとするでしょう。