朝、五月晴れの庭に出ると良い香りがする。妻は蜜柑の花の香りではないかと言うが、我が家には蜜柑などない、不思議だ。ついこの間桜が咲いたかと思ったら、もう緑が溢れ圧倒される。足元では、ムカデに似た小虫が忙しく歩いている。何処にどうやって潜んでいたか、立ち止まって考えることなく一目散に敷石を横断してゆく。
どうも時の流れに身を任せても、その速さに心身が追いつかなくなってきている感じがする。それでも、あるいはそれだからこそ、四季の移ろいを愛でる気持ちが深くなってきたと思う。亜熱帯の東南アジアや亜寒帯の北欧に生まれても、季節の移ろいを生きていること生きてきたことに重ね合わせて感得することが出来るものだろうか。俳句に季語が使われる意味合いを知らないが、日本が四季の変化に恵まれていることと無関係ではあるまい。
この不思議な日本固有の短詩を外国語でという動きもあるようだが、季語をどう教えているのだろう。時の移ろいを表象するキーワードとしているのだろうか。
同じように燃え上がる緑でも、日本のものとは何処か微妙に違っていたと一週間前を思い出している。
筍も掘り終わり、エンドウ豆の収穫も終わって、今は玉葱の時期です。
桜と藤とつつじも終わって、今は枇杷とサクランボの実が大きくなるのを楽しみに観察しています。
新緑の心地よい季節ですね。
有り難いと思っています。