紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

陰翳礼讃

2007-05-17 23:05:07 | 読書
 なにしろ耽美主義の文豪、谷崎潤一郎である。「文豪」というだけで恐れをなして読まず嫌いで通して来たが、今回読書会でテキストに『陰翳礼讃』が選ばれてしまった。本の周りを遠巻きにうろうろして日が経ってゆく。

 が、幸いにも『陰翳礼讃』は、日本伝統美について熱く語った短い文化論らしい。やはりたまには歯ごたえのあるものを食べなきゃ、流動食しか受け付けなくなるかもしれない、と気を取り直した。

 職場のお昼休みに居住まいを正し、きちんと座り直して中公文庫の『陰翳礼讃』のページを繰る。なにしろ谷崎である。耽美なのだ。大正モダニズムなのだ。しかも妖しいエロティシズムなのだ。これでいいノダ。

 が。どうも様子が「可笑しい」。ゲラゲラに可笑しいのだ、『陰翳礼讃』。私のなかの耽美で端正な谷崎バイアスが、ガラガラと崩壊してしまった。え?・・・厠についてアツく語る谷崎潤一郎? ・・・もしかして、好きなタイプのお方かも。『陰翳礼讃』、とんでもないビッグな掘り出しものなのだった。

 「まことに厠は虫の声によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう」

 ためらいつつも、笑いを禁じ得ない。諧謔を狙ったのか? それとも本気なのか? 古来の俳人は厠でしゃがみつつ、お尻が冷えるのも忘れ、俳句づくりに熱中していたのだろうか? 芭蕉や蕪村が厠(彼らはむしろ特定の使用目的に限定された厠より、野原の方が似合いそうだけど)で呻吟している様子を想像すると、やっぱり可笑しい。でもいかにもありえそうでもある。その辺の微妙さが、またいっそう可笑しいのだ。

 「わび・さび」を尊ぶ風流人が使用する日本語に「なれ」という言葉があり、これは長年人が器物に触っているうち、自然と脂が沁み込んでくることを言うらしい。この「なれ」を愛する日本人の伝統は、履き古したジーパンほど値打ちが高い、あるいはストーンウオッシュ仕様にこゝろ引かれるという感覚に、今も脈々と受け継がれている。
 「わび・さび」を心から愛している谷崎氏が、「なれ」は云い換えれば「手垢」にすぎない、と身も蓋もなく言い放つところが、やっぱり可笑しい。「厠」の次には「手垢」を愛でていることをカミングアウトしているのである。う~ん・・・。

 ほかにも羊羹を評して「私は見る物である以上に瞑想するものであると云おう」ときっぱりと断言なさっている。羊羹が素晴らしきお菓子であることには深く同意するも、「瞑想」ときたか・・・。どうにも褒め方が翔んでいらっしゃるのだ、谷崎さまは。しかもその瞑想的なさまは、西洋の菓子とは比べものにならないらしい。

 クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。

 とまでおっしゃっているのだ。クリームが「浅はか」とは! そこのイチゴショートのクリームが、哀れにもベソをかいているではないか!クリームよ、君に罪はないのに・・・。

 しかし、この大仰な言い草はなんだかどこかで読んだ気がする。とてもデジャヴュな言い回しな気がする。ええと・・・あれ? ショージくん? 

 谷崎潤一郎の後を継ぐものが、まさか東海林さだおだったとは。思わぬ着地点であった。