紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

稲架ふたたび

2007-10-11 23:16:16 | 季節
 先日、小学生が作った案山子と、小学校の田んぼで実った稲を天日干しにするための稲架のことを書いた。写真も付けた。

 実は同じ日に夫・H氏がその近くの田んぼで、やはり見事な稲架を発見したのである。本日は日をまたいでもう一仕事しなくてはならず、ブログを書く余力があるか自信がない。H氏の写真を見ていただくことで、本日のブログとさせていただきたい。

 では、どうぞ!






実は彼は稲架を見せたかった訳ではなく、もともとは「面白い案山子があるでー♪」というところから連れて来てもらったのだ。
おまけに強烈に渋い小屋まである。


そこには小さな橋があったが、その下を手漕ぎ観光和船が潜って行くというシャッターチャンスにも恵まれた。


通りすがりに去ってゆく感じが、曇天の空と相まって、ちょっとばかり切ない。




魔法の箱

2007-10-10 23:55:37 | ファミリー
 例えば我が家の子どもたちが、産まれて初めて目にした魔法は、ティッシュペーパーの箱だろう。

 赤ちゃんを育てたことがある人なら、経験があるのではないだろうか。

 ちょっとした家事なんかで、しばし目を離した隙に、1歳くらいの子どもの周りが白いふわふわでいっぱいになっているのを。そうして、まだたっぷり入っているティッシュペーパーの箱から、赤ちゃんが次々に紙を引っ張り出しているのをみたお母さんは「ぎょえええ~」と叫びながら、彼、または彼女に突進するのである。

 子育て指南には「少し遠くから赤ちゃんが紙を引っ張り出すのを見守り、全部出し終えたら『あら、なくなっちゃったわね』と赤ちゃんの心を代弁してあげ、ふわふわしたティッシュで遊んだ後、元通りに箱に戻してください」なんて書いてあったりするのだが、そんな余裕綽々のお母さんがどこにいる?と聞いてみたいものだ。

 赤ちゃんが機嫌のいい時、すやすやお昼寝の時を見計らって、必死に家事をする子育てあけぼの時代なのである。細切れの寸暇が勝負の毎日なのである。人生における時間の貴重さを、これほど感じる時代は無いと思うくらいだ。

 それなのに、みすみすティッシュの箱が空になるまで見守る訳にはいかない。まして「元通り箱に戻す」なんて笑止千万、ごっそり集めてそのまま突っ込んでしまった。それでも何の支障もなかった。子育てに関わるところで几帳面な人間が家族にいなくて、しみじみとよかったといまさらながらに思う。

 それでもティッシュを拾い集めながら「もーー!おかーさんの仕事増やしてー」と怒ることもなかった。

 出しても出してもひょっこり出て来るティッシュペーパーは、彼らにとって不思議の塊であり、人生最初の魔法かもしれないと、心中ニマニマしてしまうからだ。だって真剣に興味津々といった、マニアックな実験してるヒトみたいな表情だったもんな。「なんで? なんで!? なんでまたでるのだ??」ってかんじで。

 Kちゃんはそれだけではなく、1歳を過ぎた頃、テレビの裏を覗きに行ってたっけ。どうもブラウン管の中に「小さな人たち」が入っていると思っていた模様。「小さな人たち」を舞台裏から、ぜひ見てみたいと思ったに違いない(笑) 彼女にとってはどうやらテレビも魔法の箱だったらしい。

平和な時代は物見遊山。

2007-10-09 21:46:14 | テレビ
 NHK教育テレビが放つ10月の『知るを楽しむ/歴史に好奇心』の講師は、江戸時代の旅(ことに女旅)に関してはまかせなさい!な金森敦子先生である。金森先生の著書などについては、以前少しこのブログでも紹介した。思わず「待ってました!!」と声をかけたくなり、書店でテキストを見つけるやいなや即購入。今回のテーマのタイトルは『お伊勢参り ニッャ投マ光事始め』。これは「買い」でしょう。

 放映日時は毎週木曜日、午後10時25分~10時50分まで。4日から始まっていたので、すでに1回目の放映は終了していたが翌週の早朝5時5分から5時30分まで、再放送がある。(かなりの根性がないと無理かな・・・。)

 金森先生によれば、江戸時代当時、出島から外国人が外にでるのは禁止されていたが、年に一度、江戸の将軍に謁見することが義務づけられていたため、そのときの道中の様子を、ことこまかに日記にしたためたドイツ人医師がいたらしい。

 彼が江戸に向かう道中でみたもの。それは道に溢れる旅行者だったらしい。身分は一般庶民。目的はお伊勢参り。さすが泰平の世が続いた江戸時代である。平和でなければ物見遊山などできない。

 その様子をみたドイツ人医師は、驚愕したらしい。無一文でも旅をする人人。丸腰でのんびり長距離を旅する一般庶民。当時そんな安全でインフラが整った国は、世界でも類をみないそうだ。江戸時代には旅人を大事にするよう幕府が全国に号令をかけていたし、もしも行き唐黷ノなったら、村から村へと病人を故郷に運ぶシステムなども完備していたのだ。旅をするためのあらゆるシステムが、ハードもソフトも完備されていたらしい。

 当時大ベストセラーだった『東海道中膝栗毛』はたんなる物語としてのみではなく、旅のガイドブック「東海道の歩き方」としても読まれていたこと、「道中記」や「図絵」とよばれる、さしずめ「るるぶ」のような旅行ガイドが爆発的に売れていたこと、なぜ「お伊勢参り」がブレイクしたのか、仕叶lは誰で、どのように行われたのか、などなど、枚挙にいとまがないくらい、「へええ~」なエピソードを交えて、テキストが書かれている。実に「知る愉しみ」というのを味わえる。

 図版や資料もてんこもりなので、ぜひテレビでも見なければ。もっとも第1回の再放送については、時間的に言って、かなり気弱なところでもある。

稲架(はさ)を発見

2007-10-08 23:51:12 | 季節
 稲刈り跡の田んぼでは、三匹のコブタの長男の家のように、ワラが束ねられ立てられている、ということは、先月書いた。
 それがどのようなものかというと、こんな風なのだ↓

(画像をクリックすると拡大されます)                 

しかし、こういうテントのようなのでなく、もっと長屋のようにずらりとお米付の稲藁が干された「稲架(はさ)」というものが、昔はあちこちで見られた。これはもちろん稲刈り、脱穀、籾の乾燥、などが手作業でされていた時代だったからだ。

 今はビーチパラソルやクーラー付の稲刈り機である。しかも脱穀、ワラ切りまで機械の中で流れ作業として進むので、農家の方の負担は随分軽減した。それはそれで大事なことだ。それにカラフルなパラソルの稲刈り機のあとを付いて移動する、はらぺこシラサギ集団との共存共栄?する姿は、微笑ましい。

 それでも最近、稲架を見ないなあ~、と気をつけて探していたら、思わぬ場所で発見した。

 先々週の土曜日、Kちゃんの母校である小学校の飛び地の敷地がある北之庄までH氏と一緒にいってみた。ビオトープ、すり鉢状のキャンプファイアー場、田んぼ、畑、穴窯やパン窯、秘密基地まである発展途上、開墾途上の地である。おまけに道を隔てた向かいの沢では、カヌーだってできるし、水鳥観察や釣りもできる。

 私は以前有志の旅行で、この場所が解散場所になっていたときKちゃんにねだられて、ここでザリガニ釣りをしたことがある。コンビニでスルメを買って来て糸に括りつけ、垂らすと釣れるのだ。
 もう1家族の父子も参加されたが、都会の方だったので、ザリガニ釣り初体験者である。免疫がない?ので、それは夢中になられた。面白いように釣れたのだ。

 釣れたザリガニは50匹ほど。気味の悪いくらいにうじゃうじゃ、がさがさしていたが、お子さん以上にすっかりテンションの上がった都市部出身のお父さんは、何匹か連れて帰られた。残りは、元いた場所に戻してあげる。

 話を戻して9月の末の北之庄は、コスモスが咲き乱れ、バッタなどの虫が飛び跳ね、秋まっただ中。


 そして発見したのが、稲架と案山子。息を呑みました。しっかりと穂のついた稲が、それは美しく整えられ、天日干しにされている様子は、どきどきするくらいカッコいい。これを小学生で見た子どもたちは幸せだ。しかも稲架を守る案山子たちの躍動感が素晴らしい。もちろん子どもたちの手づくりである。どうぞご覧いただきたい。




忘れじの人

2007-10-07 23:49:56 | 新聞
 新聞を読めば思わず苦く呻きたくなるような昨今であるが、本日10月7日付けの日経新聞では、思わず微笑んでしまうような記事を発見した。

 タイトルは『彼らの第4コーナー』。偉人の晩年についての、小さな連載コラムである。和歌山が産んだ大奇人、粘菌で有名な生物学者であり民俗学者でもある、南方熊楠の晩年エピソードである。

 彼が63歳の春、1929年に、和歌山にみえる昭和天皇への進講が決まったのだ。無位無冠、在野の一学者なのに、である。しかも複数の神社を合祀しようとする国策に抗し、17日間も拘留された罪人でもあるのに、だ。熊楠は合祀されれば、手つかずの自然が残る小島、神島(かしま)での伐採がなされ、人の手が入ってしまうのを、何としても阻止したかったのだ。

 それでも熊楠にご指名が下ったのは、昭和天皇が早くから熊楠の粘菌研究に関心を寄せ、日本では在野の変人研究者でしかない熊楠が、欧米の学会では広く知られていたことをご存知だったのだ。昭和天皇は生物学に造詣が深かったのである。

 当日、天皇は熊楠が身を挺して守った神島に粘菌採取のため上陸された。御召艦長門での講義は、予定時間を越えたにも関わらず、天皇の希望により話を続けさせたそうである。

 そしてこのコラムの白眉は、熊楠が天皇に献上した粘菌が、桐の箱ではなくキャラメルの空き箱に入れてあったというのだ。キャラメルの空き箱! 居並ぶお歴々の「目が点」模様を想像すると、もう・・・(笑) 後年、天皇は側近にその一件を、さも楽しげに語ったと伝えられている。

 『御幸の島』神島は、後に国の天然記念物の指定を受け、晴れて保護されるようになった。

 学問一筋のピュアな熊楠が、昭和天皇にとってどれほど忘れがたい人だったかを思うと、なんとも心温まる気持になる。天皇という身分故に常人には計り知れない苦労をされたであろう昭和天皇が、熊楠の学問への熱い想いに、深く共感をされたことは想像に難くない。また彼の飾らない無垢な人柄も、いたく愛された事と思う。

 ほんの短い間ではあったが、二人の間に立場も身分も越えた、何かしら心温まる交流がなされたように思う。それは熊楠にとっても「身に余る名誉なこと」だけではない、同じ生物学を愛する人間同士の、対等な深い交流だったはずである。これはふたりにとって、生涯においても幸福な時間だったのではあるまいか。
 そして、このような出会いをただ見聞きする事もまた、たいへん幸せな気持になるのだ。

 キャラメルの箱をみるたび、昭和天皇は熊楠を思い出しては、微笑まれたのではないだろうか。私もしばらくの間は、キャラメルの箱を見るたび、ちょっと幸せな気分で思い出し笑いをしてしまいそうである。