紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

上を向いて歩いてはいけない。

2008-04-25 21:54:25 | ノンジャンル
 坂本九の『上を向いて歩こう』がヒットした年に生まれた私であるが、上を向いて歩かないようにしようと決意した本日。

 おりしも総合病院の車の詰まった駐車場である。実家の母が検査入院しているので、明日の退院の時間などを聞いておこうと思い、車を停めて病院の大きな窓を見上げながら歩き出した。

 窓際にはパジャマ姿の老婦人が、椅子にゆったりと座って眼下に広がる絶景をながめていた。そして私はいつものように、彼女の境遇や心理状態をいろいろと空想し、歩を進めた。そのとき、何の前触れもなく、いきなり私は宙を飛び、目前に地面が近づいた。

 賢明な読者はもうおわかりであろう。車止めのコンクリートにけつまずいて、コケたのだ。

 私も子どもの頃は、始終コケて、あちこちを擦りむいたものである。それがオトナになるに従って、けつまずいてもコケなくなった。バランス感覚がついたのであろうか。
 それが久方の光のどけき春の日に、しづこころなくコケてしまった。久方なのだ、当然のように、コケ方なんぞ忘れ去っており、最低にへたくそなコケ方をしてしまった。大失態である。

 最初、目前は病院なのだ、救急車を!と、切望した。あまりの激痛に、しばらくは車につぶされたカエルのような格好で唐黷トいたが、ともかく病院に来た当初の目的を果たすべく起き上がる。なんとか病室にたどり着き目的を果たした後、母は言った。
 「すぐ病院に行き!」

 顔から血を出して、手を腫らして、ぎこちなく動いては「いたた」と言う娘にかける言葉としては順当だが、ほとんどギャグである。

 なんとか自力で車を運転し、地元の整骨院に駆け込んだ。幸いホネに異常はなかったので、ほっとする。しかし、握力とスナップは能力ゼロとなり、重いものも持てなくなった。いきなり両手が不自由なひとと化す。

 ということで、今後は年齢を考慮の上、上を向いて歩かない事を決意した次第である。とほほ。
 

夜明けが消える!?

2008-04-24 23:39:15 | おでかけ
 大阪府の(財)大阪府男女共同参画センターことドーン(DAWN)センターの動向が大変なことになっている。

 施設内にある女性の本の専門店『ウィメンズブックストアゆう』のHPは、まめに更新されているので、女性情報関係の本の刊行状況が手に取るようにわかり、また本の内容に付いてもきちんと簡単なレビューが付いている、まことに手をかけたHPになっている。
ここの社長、森屋裕子さんのブログ「ゆう刊社長日記」の4月15日の記事を見て、愕然。ついこのあいだまで、相談事業やライブラリ機能は残すという話だったのに、どちらの予算もゼロ査定。昨年度計画されたセンターの事業も、当然行うことができない状況みたいだ。

 どうせメディアはいつもの紋切り型な「自分たちのことしか考えてないヒステリックな女性団体」みたいな視点で報道するんじゃないかと危惧してるんだけど、ドーンセンターは、なんとしても残さなければならないスペースである。でなければ大阪どころか日本の損失になりかねない。

 たぶん日本の中でもとりわけ活発な活動が繰り広げられている大阪府内の各市の女性施設の頂点にあるだけのことはある場所であり、それだけにスペシャリストで優秀な人材も集っている。開催される研修や講座やシネマや講演なども出色で、ここで研修を受けた後、どれだけ大きな仕事ができたか。またどれだけプロフェッショナルとしての自覚を促されたか。おまけに斎藤美奈子さんをオープンスペースで間近で見ながらの、たっぷり時間をとった講演まで聞く事ができた。私にとっては非常に恩のある場所なのだ。

 ドーンセンターのスタッフは、ワンランクどころかスリーランク上くらいレベルが違うので、研修企画も速攻で仕事に役立つノウハウ満載、常時プロとして持つべき心構えがちりばめられ、フランクな語りと気さくなユーモアで場を和ませながらの、またとないくらい楽しい研修である。しかし演習などは、ハードルが高い事もあるのでドキドキ感もある。

 そういう思い入れのある場所なので、いてもたってもいられず予定がなかった今日、現地に足を運んだ訳だが、だから何が出来るというわけでもない。ドーンセンターの1階のブックストアで、スタッフの方や森屋さんと少しお話しして、本を2冊買っただけである。現状はまだ霧の中らしいが、どうもあまり期待がもてる状態ではないみたいだった。雨のせいでもあるのか、なんだか打ちしおれたような空気が漂っている。

 でも、こういうときこそ、うそでも威勢良くしなくちゃ、とも思う。逆境にこそ元気でいなくちゃ。なんてったって「夜明け=DAWN」なんだから。
 なくなっちゃうと次に来るのはたぶん「(村上春樹いうところの)やみくろ=DARKNESS」であろう。

 このひとたちが防波堤を乗り越えて来ちゃうことを考えると・・・。せめて地面にころがっているカナリアたちに、なんとか、気付いていただけたら。

石畳にカタバミ

2008-04-23 22:25:14 | 季節
 用事があり、すこし実家に立ち寄る。

 家も建て替えられたし、庭の様子も植物たちもすっかり変わったし、山の麓も加工された。だから変わらないものを見ると、ささいなものでも心を動かされてしまう。

 たとえば、石畳の線のように狭い隙間に生息する小さなカタバミ。とても好きだった。

 「とても好きだった」ということを、今日これをみてにわかに思い出し、思わずシャッターを切ってしまった。

 認知症のお年寄りが、彼らが若い頃使った道具や、子どもの頃遊んだ玩具や、昔の生活環境に触れる事で生き生きとした表情を取り戻し、会話が始まるということを新聞で読んだ事がある。回想療法でしたっけ? 心から何かが溢れ出すような、思わず誰かと共感したり伝えたりせずにはおられないような感動は、私が今日カタバミを見た思いに近いもの、もしくは、そのものなのかもしれない。
 

仏壇にムスカリ

2008-04-22 23:30:09 | 季節
 家の仏壇にある花瓶は、ちょびっとしか水が入らず、おまけに細い茎のものでないと、筒に入れること自体がかなわない。当然あっという間に水はなくなり、沈黙の内に花は枯れたり散ったりしている。

 この春、初めて昨年秋に植えてみたムスカリが、むくむくと花をつけた。白い花、ブルーの花、そしてなんと水色から青紫までのグラデーションのもの! その形状から、別名ブドウヒヤシンスというらしい。

 この花が園月G誌で人気を博していた10年以上前には、まったく興味がなかったのに、ふと植えてみる気まぐれを起こしたのだ。
 今年、私はムスカリが上品に香る花だと言う事を、初めて知ることになる。なるほどヒヤシンスに似た清楚な美少女のような香だ。もともと「ムスカリ」という名前の由来は、ギリシャ語のムスク(moschos)であり、麝香(じゃこう)のことである。 
 
 あれ? でも麝香って野性的でセクシーな香りです、って香水カタログみたいな本で読んだ記憶が・・・といっても私は麝香の匂いをリアルでは知らないからなあ・・・いや、いまは麝香の話ではない。ムスカリに話を戻そう。
 
 小さな花だし、茎は細いし、仏壇に飾るにはぴったりかもしれない。トライしてみれば、なかなかシュールな光景となった。

 きんぴかの黄金世界に、コバルトの小さな花房がアクセントになる。写真を撮っておけばよかったかなあ。

 武田花の本『仏壇におはぎ』のタイトルはインパクトがあったが、それに匹敵するくらい、気に入っている語感『仏壇にムスカリ』。外国語のような語感がここちいい(ムスカリは完全に外国語!)

ヘヴィーな話

2008-04-21 23:58:10 | ノンジャンル
 先日の日曜日、CAP(子どもへの暴力防止)の公開講座に行った。CAP滋賀の主催で、講師はNPO法人SEAN代表の遠矢家永子(とおや かえこ)さん。大阪/高槻市で活動をされている。

 SEANで取り組まれた『(中学生が読んでいる・対象の)マンガ・雑誌の調査分析』「中学生の『性』意識調査」「セクシュアルライツ教育で出前授業実施」などをもとに、いま子ども(中高生)を取り巻く「性」情報の現実を知り、大人ができることを考えるというものである。

 いくつもムネに堪える話はあった。

 たとえば女の子のマンガは恋愛一色。しかもほぼイケメンの彼氏の言いなりで、氷室冴子の「なんて素敵にジャパネスク!」に出てくる私の好きな瑠璃姫のような威勢のいいかっこいい女の子は見かけないそうなのだ。
 ええーっ?いつからそんなことに? ジャジャ馬な女の子というのは35年前の少女マンガでは定番だったのに(古いねん)
 それも「モテるため」の技術のひとつらしいというのだけど。少女向け雑誌はお洒落とダイエットのオンパレードとなるそうだ。そりゃぜんぶが全部そうではないとは思うけど、気になる傾向である。

 それからDV(ドメスティックバイオレンス/配偶者からの暴力)は愛を支配/管理/暴力による束縛という思い込みによって起こるということ。そしてDVの構図がそのまま母親による子どもの支配「あなたのためを思ってしているのよ」にリンクしているというのも、かなり浮「話だった。

 逆に自尊感情を育まれ、支配や管理でない豊かな思い遣りや子どもへの尊敬の念によって育てられた子どもは、DV加害者(男女を問わず)予備軍を見破ることができ、たとえいっときは恋人になったとしても、支配/束縛されることに耐えられなくて逃れることができるという。
 ということは支配/束縛による育て方をされている子どもは、支配と愛を同化しているので、加害者になるのはもちろん、被害者側であっても「これは愛されているゆえのこと」という思い込みから、加害者より逃れる事ができないというのだ。ああ恐ろしい。 

 ただ救いは、女の子を踏みつけにするようなマンガのシーンをパワーャCントで見せると、真剣に「女の子に失礼じゃないか!」と怒る男子生徒がいるという話。中学生くらいの子は柔軟だし、中学生男子は、(たぶん)ごく一部の成人男性のように「女性に失礼な事をしたってなんぼのもん」かと思っている子は少ないと思う。「だって男は生まれつきそういうふうにできているから~」なんて自己弁護するような人と一緒にされること自体、怒っちゃうんじゃないかな、彼らは。

 遠矢さんはジェンダーの人で、そういうと敬遠しちゃう人もいるかもしれないけど、この公開講座のサブタイトルは「誰もが生き生きと暮らしていくために私たちにできること一緒に考えてみませんか」である。ジェンダーとはそういうことでもあるのだ。ほとんど一般理解はされてないけれど、知っている人は知っている。

 男女共同参画についての活動を10年以上にわたり、どんなにひどい嫌がらせを受け続けても粘り強く続けて来られた方がいらっしゃって、その屈する事のない精神力と忍耐力と学習を重ねる努力は驚嘆に値する。そんな彼女の活動を支える礎が何か、ふと漏らされた事がある。
 「だれでものびのび自由に空気の吸えるような、息苦しくない世の中を次代に手渡したいから」
 ほうらね。

 でも時代はもうずいぶんまえから反対方向に向かっているので、彼女らが休息を取れる日は当分こないかも。映画『YASUKUNI』上映中止事件みたいなことは、実はけっこうあるところにはあるのである。