現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

柏原兵三「兎の結末」

2017-02-04 08:52:28 | 参考文献
 戦後の食糧難の時期を背景に、天才志向で革命を夢見ている陸軍幼年学校帰りの兄との奇妙な共同生活をおくる男子中学生を描いた作品です。
 優れた点はたくさんあるのですが、中でも少年の性衝動をこれほどストレートにしかもテーマと絡めて鮮やかに描いた作品はそれまでなかったし、少なくとも児童文学の世界ではそれからもなかったと思います。
 この作品は、柏原がドイツ留学中の1965年ごろに書かれ、1966年に同人誌に発表されて、その年の下半期の芥川賞の候補になりました(芥川賞は67年下半期に、「徳山道介の帰郷」で受賞しています)。
 柏原の作品群はもちろん一般文学として書かれているのですが、この作品のように児童文学として取り扱っていい作品もたくさんあります。 
 しかし、閉鎖的な児童文学界では、ほとんど無視されています。
 これからも、児童文学として議論すべき一般文学の作品を掘り起こしていきたいと思っています。

兎の結末 (1968年)
クリエーター情報なし
文藝春秋
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皿海達哉「コギツネコンコン」坂をのぼれば所収

2017-02-04 08:49:57 | 作品論
 二人の女の子の、繊細だが確かな手ごたえのある友情を描いています。
 主人公の女の子は、ゴミ捨て場に捨ててあった壊れかかった(ファとシが出にくい)オルガンをおとうさんに頼んで、仏間と兼用の自分の部屋に運んでもらいます。
 やっと「コギツネコンコン」は弾けるようになったとき、一番仲のいい転校生の女の子を家に招いてその曲を弾いて見せますが、何回か弾いているうちにファとシが出なくなってしまいます。
 なぜかなかなか家に呼んでくれない転校生の家に、退院(盲腸で入院していました)のお見舞いに行ったとき、彼女の家には応接間にも彼女の部屋にも立派なピアノがあり、彼女がずっとピアノを習っていたことを知ります。
 転校生のすてきな演奏を聴いた後で、うながされてピアノで「コギツネコンコン」を弾きながら、主人公は友だちの思いやりと変わらぬ友情をかみしめます。
 この作品でもデリケートな感情を描いていますが、物語の起伏や主人公のアクションがきちんと描かれているので、他の作品よりも今の女の子の読者(男の子だけでなく女の子もきちんと描けるのが皿海の強みでしょう)に受け入れやすいと思われます。

坂をのぼれば
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PHP研究所
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Think the Earth「続・百年の愚行」

2017-02-04 08:46:11 | 参考文献
 前作「百年の愚行」が20世紀の愚行だったのに対して、今作では21世紀の愚行を告発しています。
 しかし、今作は前作とはかなり違っていて、写真での客観的(もちろんどの写真を取り上げるかは恣意的なのですが、その写真をどう見るかは読者にゆだねられています)な告発は大幅に後退し、恣意的に集められた文章が大半を占めています。
 少なくなった写真もまるで迫力がなく、前作と違って詳しいキャプションを付けなければ何が言いたいのかわからないほどです。
 一目瞭然といった明解さが前作の魅力だったのですが、今作では全く失われています。
 そのため、読者に与えるインパクトは非常に小さくなっていて、同じシリーズの本とは思えないほどです。
 うがった見方をすれば、前作がヒットしたので、たんねんに写真を集める労を省いて、急遽原稿をを集めて一作にした感じです。
 英文のタイトルが「ONE HUNDRED YEARS OF LUNACY(百年の狂気)」なのに、邦題を「続・百年の愚行」にしたのも、「売らんかな」という思惑が露骨に感じられます。

続・百年の愚行
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Think the Earth
 
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ウルズラ・ヴェルフェル「マニのサンダル」灰色の畑と緑の畑所収

2017-02-04 08:44:19 | 作品論
 知的障碍者へのいじめを描いた作品です。
 こういったことは、この瞬間も、日本中で、そして世界中で行われているでしょう。
 2016年には、相模原で19名もの人々が殺されるという恐ろしい事件も起こりました。
 自分よりも弱い者に対して、優越感を持ったり迫害したりするのは、いけないことだとわかっても止められないのは、人間の心の持つ大きな欠点でしょう。
 この問題を取り扱った児童文学作品はたくさんありますが、この作品は障碍者の視点で描いている点がユニークで、静かだけれども確かな告発の力を持っています。

灰色の畑と緑の畑 (岩波少年文庫 (565))
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岩波書店
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内田百閒「ノラや」ノラや所収

2017-02-04 08:42:03 | 参考文献
 野良猫だった愛猫が姿を消して嘆き悲しむ老先生の姿が、日記体で書かれています。
 文字通り涙にくれる毎日をすごす老先生。
 新聞広告、貼り紙、折り込みチラシなど、当時としてはありとあらゆる手をつくし、三千円(現在ならば五万円ほどか)のお礼まで準備しましたが、ひと月たっても愛猫は帰ってきません。
 私事ばかり書いて恐縮ですが、今は亡き私の父も、野良猫上がりの家猫(老先生と違って家の中に閉じ込めて飼っていました)のうちの一匹の「クロちゃん」にふとしたはずみに窓から出ていかれてしまった時には、老先生と同様にいつまでも嘆いていました。
 老先生は、ここまで悲しめるか(毎日何かにつけて泣き続け、不眠による寝不足が続き、初めの三週間は風呂も入らす顔も洗わず、8キロ近く痩せて目も悪くしています)と思うほどですが、ノイローゼにかかってしまったのかもしれません(実際に医者の診察を受けています)。
 こんな老先生を支える奥様や周囲の人たちの優しさ、そして、まだ人と人のつながりがあった昭和三十年ごろの市井の人たちの暮らしがしのばれて、悲しいけれど心あたたまる作品になっています。
 児童文学でも、高橋秀雄の一連の作品のように当時を舞台にした作品もありますが、その時代時代の雰囲気を残す作品がもっと書かれてもいいかもしれません。

ノラや (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論新社
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児童文学における動物ファンタジーのパターン

2017-02-04 08:06:10 | 考察
 児童文学の動物ファンタジーにおいて、よくあるパターンのひとつに、遍歴型があります。
 主人公の動物(人間の場合もあります)が、あるところ(海だったり、荒野だったり、時には自分の家の庭の場合もあります)を遍歴している間にいろいろな動物たちに出会い、彼らから様々な忠告や生きるためのヒントのようなものを得て、主人公がだんだんに成長して、最後に目的(最初はそれにすら気づいていない場合もあります)を達成するものです。
 そのひとつひとつの出会いに対して、どれだけ読者に納得のいくようなエピソードや美しいシーンを描けるかが作者の腕の見せ所です。
 ただし、その遍歴過程で、他者を傷つけたり、他者と比較して貶めたりするのは、読み味を悪くするので要注意です。
 一般に、遍歴している主人公は幼い場合が多いので、出会う動物たちは年長者として、相手に気づきを与えることが必要でしょう。
 その過程で、読者が作者の深い母性なり父性なりを感じて、子どもの視点と親の視点の違いまで読み取れたら、その作品は成功していると言えるかもしれません。
 しかし、あまりパターンにはまった書き方をすると、読者に既視感を与えてしまうので、その作品ならではのひねりを加える必要もあるでしょう。

おとぎの国のモード―ファンタジーに見る服を着た動物たち
クリエーター情報なし
勁草書房
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