現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

皿海達哉「橋下のトランペット」野口くんの勉強部屋所収

2017-02-01 10:36:48 | 作品論
 連作短編集の第二話です。
 第一話で塾に通うになったぼくは、ひょんなことからその通う道の途中で、私立小学校の女の子二人と知り合います。
 私立の女の子は制服姿がとても似合っていて、同じ学校の女の子たちとは比べ物にならないぐらいに可愛く感じられます。
 ぼくは、その女の子たちに会うのを励みに塾へ通っています。
 ところが、女の子たちの狙いはぼくではなく、彼女たちが通っているのが女子校なので、かっこいい男の子をぼくに紹介してもらいたいことだったのです。
 女の子の眼中にぼくはいないことがわかって、ぼくは塾に通うのが嫌になります。
 ぼくは、草野球仲間でおにいさんが中学のブラスバンド部の洋平くんに頼んで、一緒にトランペットを教えてもらうことになりました。
 しかし、トランペットでも、洋平くんと違ってなかなか上手にならないぼくは挫折してしまいます。
 ラストシーンで、ぼくは、好きになっていた私立の女の子が、これも草野球仲間だったもて男(第一話で学校のアイドルのランちゃんを草野球に連れてきた)茂くんと仲良く歩いてくるのを見て、(スイミング・スクールに入って、ランちゃんと友だちになるのをねらおうかな)と、一瞬考えます。
 ぼくは、野口くんのように勉強はできず、洋平くんのように音楽の才能もなく、茂くんのように女の子にもてない、さえない、でもどこか人のいい普通の男の子です。
 そんな男の子(特に小学校高学年)を主人公にした作品なんて、現在ではまったく売れませんから、今ではとても本にはなりません。
 主人公が女の子ならば、読者層が厚いので今でもふつうの女の子が主人公の作品でも、まだ本になるチャンスが少しはあるでしょう。
 しかし、男の子が主人公の場合、あさのあつこの「バッテリー」のエースピッチャー原田巧のように、イケメンで超人的な能力を持っていないと、本にならないのかもしれません。
 いつの世も、女の子(大人の女性も含めて)の読者は、かっこいい男の子の主人公を求めているようです(男の子も同様にかわいい女の子が好きですが、この場合はサブキャラの方が多いようです)。
 でも、この本が出た三十年前だけでなく現在も変わりなく、大半の男の子はこの作品の主人公のようにさえない普通の子なのです。
 そのような子たちが主人公の本が全く出版されない今の状況は、やはりいびつな事だと思います。

野口くんの勉強べや (偕成社の創作)
クリエーター情報なし
偕成社




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児童文学における「短編構想の長編」と「長編構想の長編」について

2017-02-01 10:05:10 | 考察
 三十年近く前に、同人誌の書き手たち(たぶん主に今は亡き廣越たかしや沖永良部島へ行ってしまった長崎夏海たちだったと思います)と、「短編構想の長編」と「長編構想の長編」ということを話し合ったことがありました。
 私自身は、基本的には短編の書き手でしたので、ほとんどの作品は初めに短編として書かれて、その後イメージがさらにふくらんだ場合は、長編(その方が単行本にしやすいです)や中編に書き直していました。
 生来の短編の書き手は、初めにあるシーン(特にラストシーン)がイメージがはっきりした画像として頭に浮かんで、次いで作品の細部が実際に書く前にどんどん浮かび上がってくる感じなことが多いと思います。
 場合によっては、どんどんディテールが浮かび上がってきて、書くのが追いつかない場合もあるかと思います。
 こういった作品では、短編ならではのディテールの面白さが勝負です。
 「真実は細部に宿る」というのは本当は建築用語ですが、本来の長編は「短編構想の長編」ではなく「長編構想の長編」で書かなければいけないと思われます。
 私の数少ない「長編構想の長編」を書いた経験を思い出してみると、最初に長編全体の骨格が頭の中で完全に浮かび上がり、細部は書きだしてから付いてくる感じだったように思えます。
 こういった作品では、全体の骨格を定めてから(必ずしもシノプシスを実際に書く必要はありません)、書きだした方が良いように思えます。
 また、単行本にするときには、同時代性ということもポイントになってきますです。
 作品のところどころに、その時代の風俗や用語を出すとどうしても作品の陳腐化が早くくなってしまうので、作品の普遍性を保つためにはでは無理して使わない方がいいと思います。
 同時代性を意識してリアリズムの作品を出版するのならば、現時点では東日本大震災や福島第一原発の事故の影響を抜きにはできないのではないでしょうか。
 震災のことを、直接的に書けと言っているのではありません。
 ただ、いつまでも変わらないと思っていた平凡な日常が、あっさりと根底から覆されてしまうことへの恐怖や不安感は、同時代性を意識するならば抜きにはできないと思います。
 また、長編を出版するならば、先行する作品との関係も意識しなければなりません。
 先に出版されている有名作品とイメージがかぶってしまうと、どうしてもそれと比較されて不利になってしまうのではないでしょうか。 
 また、タイトルも、すでに同名の作品が品が出版されていないかどうかにも注意する必要があります。
 

インディ?号の栄光
クリエーター情報なし
平野 厚


 
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老年児童文学

2017-02-01 09:56:48 | 考察
 現在の児童文学が、かつての小中学生を対象とした文学から、幼年児童文学やライトノベルを除くと、広範な年代の女性向けのエンターテインメントへと変質したことは他の記事に書きました。
 しかし、ここにもう一つの将来の児童文学の方向性が考えられます。
 それが、老年児童文学です。
 老年とはもちろん老人を意味しているわけですから、児童文学の対象とするのはおかしいと思われるかもしれません。
 しかし、老人と児童文学の親和性は意外に高いのです。
 まず、現在の老人たちは、かつて昔話やおとぎ話に親しんだ経験があるので、児童文学の作品世界を受け入れやすいです。
 また、ほとんど全員が老眼なので、児童文学のように活字の大きな本は読みやすいです。
 記憶の点でも有利です。
 一般的には、老人たちは、最近のことは覚えていなくても、子どもの頃のことははっきりと覚えています。
 そういった老人たちにアピールする作品分野は、今後開拓の余地があります。
 また、現実の老人たちの生活を童話タッチで描くことも、多くの読者を獲得できると思います。
 少子高齢化がさらに進む将来においては、必ずやこのような老年児童文学が花開く時代が来ると思われます。
 もちろん課題はあります。
 書き手の育成も必要ですし、出版や流通の問題もあります。
 ただマーケティング的に考えると、こんなに将来性のある市場は文学においては他にはありません。
 あとは、固定観念にとらわれた児童文学業界が目覚めるだけです。

絵本・児童文学における老人像―伝えたいもの伝わるもの
クリエーター情報なし
グランまま社
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