現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

松本清張「菊枕」

2017-08-04 18:41:58 | 参考文献
 戦前に実在した女流俳人をモデルにした短編です。
 主人公は、画家として世に出ると思って結婚した夫が、地方の中学の美術教師に甘んじていることが我慢できずに、自分で俳句を作り始めます。
 もともと東京の高等女学校出身で文才もあった彼女は、めきめき頭角を現し、九州の俳誌だけでなく、中央の有名な俳誌にも掲載されるようになります。
 彼女は、その俳誌を主宰する当代随一の俳匠に傾倒して、夫に無理を言って上京するようになります。
 しかし、その俳匠には富裕層の取り巻きの女性たちがたくさんいて、田舎の貧乏教師の妻ではなかなか割り込めないように本人は思い込みます。
 次第に彼女の行動は常軌を逸するようになり、肝心の俳句の方も精彩を欠きます。
 最後には、その俳誌からも除名されて、狂死します。
 題名の菊枕は、彼女が中国の故事にならって、健康と長寿を祈念して俳匠に贈った、菊を中に詰めた手製の枕のことです。
 現代の俳句の世界がどうなっているかは知りませんが、児童文学の世界でも、かつては高名な先生の周りに同じような取り巻きがいるといううわさを聞きましたし、かなりスケールダウンはしますがそれに近い状況を実際に目撃したこともあります。
 ただし、たびたび他の記事にも書いたように、今の児童文学の世界はほとんど女性社会なので、昔のようなことはないでしょう。
 一方で、これも他の記事にも書きましたが、児童文学の世界はプロとアマチュアの垣根がますます低くなっているので、何年か真面目に創作に励めば、商業出版するのはそれほど難しいことではありません。
 問題は、そこからプロになるかどうかです。
 かつては、エンターテインメント的な作品と純文学的な作品を書き分けている作家もいましたが、児童文学のマーケットがシュリンクした現在ではそれは不可能です。
 エンターテインメント(特に女の子向け)専業になればプロになることも可能ですが、それも現在では限定的な存在でしょう。
 その場合は、他に仕事を持つか、配偶者の収入に依拠した主婦(主夫)作家になるしかありません。
 しかし、それも時間的及び経済的な理由で、続けていくことはかなり困難なので、断念する人たちも少なくありません。
 それでも、中には、自分のライフサイクルに合わせて創作活動をいったん中断し、再開後に商業出版する人もいます。
 
松本清張傑作短篇コレクション〈下〉 (文春文庫)
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文藝春秋
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松本清張「或る「小倉日記」伝」

2017-08-04 13:04:43 | 参考文献
 清張が第二十八回芥川賞を受賞した出世作です。
 推理小説が特に有名な清張ですが、ご存知のように社会派小説やこの作品のような純文学的な作品まで多彩な作品を書き分けています。
 鴎外の日記の中で小倉赴任時のものが行方不明になっていた時期に、小倉時代の鴎外の事跡を調べ上げてその空隙を埋めることに生きがいを見出した文学青年の話です。
 肉体に障害があって、外見やしゃべり方から知的障害もあるように周囲から思われている主人公に対して、年齢を重ねてますます美しくなった優しい母親を配したことにより、作品の哀切が増しています。
 戦前のことですから、人並み以上の知性を持ちながら、仕事や恋愛のチャンスがない主人公が、「小倉日記」伝を作り上げることに生きがいを見出す姿に深く共感させられます。
 また、主人公と鴎外、さらには清張の文学者としての生き方が、作品に投影させられていて大いに刺激されます。

或る「小倉日記」伝 (新潮文庫―傑作短編集)
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新潮社
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スポットライト 世紀のスクープ

2017-08-04 11:24:31 | 映画
 ボストン・グローブ誌の調査報道班(チーフを入れてもわずか四名)スポットライトとその上司の部長と局長が、カソリック教会の多くの神父が子どもたちに性的虐待し、それを枢機卿(ボストンに当時1500人以上いると描かれていた神父たちの頂点)を初めとしたカソリック教会が組織的に隠ぺいしている実態を、2002年にスクープ(2003年ににピューリッツァー賞を受賞)した実話に基づいた2015年のアメリカ映画で、翌年の第88回アカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞しています。
 全国的にはプロテスタントの占める割合が多いアメリカで、ボストンは過半数がカソリック信者であり、そのために性的虐待が深刻だったことと取材に対する反発が強かったことが、このスクープと映画をより際立たせています。
 いろいろな困難や妨害に負けずに、真実に迫っていくチームの姿が感動的に描かれています。
 日本の映画と違って、働く人々の様子にリアリティがあるのが魅力です。
 日本と違って今でも宗教が大きな意味を持つアメリカで、カソリック教会という大きな権威に立ち向かう報道機関(映画界も)を見ると、政府などの権力に媚びへつらうメディアが多い日本から見ると羨ましくなります(アメリカにも、トランプ政権に媚びへつらっているFOXニュースのようなところもありますが)。
 ラストのテロップで、性的虐待被害がボストンだけにとどまらず、全米、全世界的な規模で発生していることに慄然するとともに、当の枢機卿はその後カソリック教会組織の中で栄転したことに、権力の変わらぬ腐った体質を感じました(国会で「記録は破棄しました」「記憶にございません」と鉄面皮のように答弁を繰り返していた某局長が、その後に栄転したのと同様の構造です)。
 ただ、カソリック教会の隠蔽体質だけではなく、カソリックの神父が今でも妻帯を許されず、その多くが性的欲求を非倫理的な方法(性的虐待だけではありません)で解消し、また多くの神父が未熟(特に性的に)なことが、問題の本質であることがほのめかされているのですが、上映時間の制限のせいかつっこんで描かれなかったのが残念でした。

スポットライト 世紀のスクープ (字幕版)
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長谷川潮「子ども読者は何を受容するか(下)」日本児童文学2016年3-4月号所収

2017-08-04 09:32:11 | 参考文献
 今回は、子ども読者の古典や外国文学の受容について論じています。
 まず、講談社の「少年少女古典文学館」で、「雨月物語」を執筆した佐藤さとると「源氏物語」を執筆した瀬戸内寂聴(後に「源氏物語」を現代語で全訳しています)が、中学校や女学校時代にそれらの作品に触れて魅かれていたことを紹介しています。
 彼らのような一流の作家に限らず、子ども時代にそういった優れた古典に出会うことは現代でも意味のあるものだと思います。
 次に、再話(古典の現代語訳や外国文学の翻訳を含みます)における問題点について論じています。
 1987年に出版された児童文学研究者の佐藤宗子の「「家なき子」の旅」によると、エクトール・マロの「家なき子」の再話(彼女の定義では、翻訳・翻案・抄訳・改変などのいっさいを含むものとしています)は、1903年から1986年までの間に121点もあるそうです。
 ですから、一口に「家なき子」といっても、子ども読者がどの再話を読んだかによって、受けるイメージは大きく変わってくると思われます。
 さらに、ある年齢以下では、「ハイジ」や「フランダースの犬」や「母を訪ねて三千里」などはテレビアニメの影響が、「白雪姫」や「シンデレラ」や「くまのプーさん」などではディズニーの影響が圧倒的でしょう。
 「母を訪ねて三千里」などは、アミーチスの「クオレ」(その記事を参照してください)の一挿話(主人公の担任の先生が毎月クラスで話してくれるお話の一つ)にすぎません。
 また、外国文学の古い再話においては、正しく訳されていない場合が多々あると指摘しています。
 マーク・トウェインの「トム・ソーヤ―の冒険」でアメリカ原住民を意味する「インディアン」がインド人と訳されていたり、カレル・チャペックの「長い長いお医者さんの話」がオリジナルのチェコ語ではなく英語版をもとに訳されたために、登場人物にアメリカ人風の名前がついていたりした例が紹介されています。
 後者の例では、英語版が出版される時に、意図的にアメリカの子どもたちに親しみのある名前に変えられたのではないかと推定しています。
 私自身の読書体験でも、同様の経験がたびたびありました。
 例えば、カニグズバーグの「ベーグル・チームの作戦」は私の大好きな少年小説ですが、この本が日本で最初に出版された時のタイトルは、「ロールパン・チームの作戦」でした。
 確かに、そのころの日本ではベーグルはまだなじみのない食べ物だったので、タイトルには付けづらかったのかもしれませんが、この作品はユダヤ人の主人公が少年時代に別れを告げるのが大きなテーマなので、ロールパンでは違和感があります。
 最後に、再話における縮小の問題が指摘されています。
 出版形態の制限により、多くの場合、再話は原作よりも縮小される場合がほとんどです。
 「今昔物語」や「宇治拾遺物語」のような「短編集」の場合は、子ども読者にとって興味深い話を「選択」できるので大きな問題はないが、長編の場合は難しいと指摘しています。
 縮小の例としては、「三国志」、「西遊記」、デュマの「モンテ・クリスト伯」、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」などが挙げられていますが、これらの大長編を全巻読んだ読者は大人でもまれだと思われます。
 私自身の「三国志」の読書体験でも、初めは小学生のころに講談社版少年少女世界文学全集であらすじのような再話を読みましたが、それでもそこに描かれていた英雄、豪傑、軍師たちの世界に魅かれ、中学生になってから吉川英治版に夢中になりました(大人になってから岩波文庫の完訳版も読みましたがそれほど感心しなかったのは、吉川英治版の方が巧みにジャパナイズされていることと文章が格段に優れているせいでしょう)。
 「西遊記」も同様に抄訳で十分な気はしましたが、「水滸伝」とデュマの「三銃士」は岩波文庫の完訳の方が面白かったです。
 こういった大長編でなくても、文学全集や文庫版では長編は抄訳が一般的です(最近は完訳版が増えていますが)。
 この件について、私の読書体験をいくつか述べます。
 ケストナーの作品に出合ったのも講談社版少年少女世界文学全集が最初で、「エーミールと三人のふたご(「エーミールと軽業師」というタイトルでした)」(その記事を参照してください)、「飛ぶ教室」、「点子ちゃんとアントン」の三作品の抄訳が一冊に入っていました。
 しかし、これらの抄訳は完訳に近かったのか、小松太郎の訳がうまかったのか、大学に入った最初の日に大学生協で買いそろえた(5%引きでした)高橋健二訳の「ケストナー少年文学全集」で同じ作品を読み直してもあまり違和感はありませんでした。
 一方、ケネス・グレアムの「たのしい川べ」も、同様に初めは講談社版少年少女世界文学全集で出会ったのですが、「ヒキガエルの冒険」というタイトルでした。
 山本麻里耶(その記事を参照してください)によると、「たのしい川べ」は、以下の三部構成だそうです。
1.モグラとネズミを中心とした「川べ」や「森」の生活(主に1、3、4、5、9章でしょう)
2.ヒキガエルの冒険(主に2、6、8、10、11、12章でしょう)
3.行方不明になったカワウソの坊やを探して、パン神に出会う(7章です)
 私が読んだ抄訳は、もちろん第二部を中心にしていて、第一部のかなりの部分も入っていましたが、第三部はそっくりカットされていました。
 大学に入ってすぐに、石井桃子訳の「たのしい川べ」を買って読んだときに、「7章あかつきのパン笛」と「9章旅びとたち」を初めて読んで、大きな衝撃を受けました。
 子どものころは、この作品の重要なテーマである「神と自然」や「旅人と定住者」などがすっかり抜け落ちた、全くの別物を読んでいたのです。
 それでも、「楽しい川べの生活(特にモグラとネズミの友情)と怖い森」や「ヒキガエルの冒険」だけでも十分に魅力があったからこそ、後に完訳版を買ったのでしょうから、抄訳を読んだことにも十分に意味があったのだと思っています。
 著者は、最後に「再話」を検討する際は、「刊行された時の時代との関わり」と「その時代の子ども読者に作品の精神がきちんと伝わる文章であるか」が欠かせないと指摘していますが、私自身の読書体験と照らし合わせても全くその通りだと思います。
 小学生の頃に読んだ講談社版少年少女世界文学全集に入っていた再話の多くは、時代も国も違う日本の子どもにそれぞれの作品の精神をわかりやすく伝えてくれていました。

「家なき子」の旅
クリエーター情報なし
平凡社
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川上未映子「三月の毛糸」愛の夢とか所収

2017-08-04 08:59:15 | 参考文献
 妊娠八か月の妻を連れて彼女の実家に行った帰りに、主人公は京都に立ち寄ります。
 京都のホテルで、彼女はすべてが毛糸でできた世界の夢を見ます。
 そこでは、三月までが毛糸でできていて、ほどけていくのです。
 この作品も、東日本大震災の比喩として書かれたものだと思われます。
 「楽しいときは短い。しんどい時間はうんと長い。」と彼女は言います。
 ひどい目に合わなかったのは、ただその順番が来なかっただけだという彼女の考えは、東日本大震災に直接巻き込まれなかった多くの日本人が共感を持てると思います。
 この不安に満ちた現実をどう生き抜いていくかは、児童文学など若い世代に向けた文学が問い続けなければならない大きなテーマのように思えます。

愛の夢とか
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講談社
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