「危機の児童文学」という特集の中での児童文学研究者同士の対談です。
ここでいう「危機」とは、「少子化」とか、「子ども読者が、前より本を読まなくなっている」とか、「子どもが読書に求めているものが、以前と違ってきている」とかなどと思われるのですが、冒頭で石井の「危機っていう言葉自体があまり好きじゃないなあ」という発言もあって、あまり特集の主題に沿った対談にはなりませんでした。
本来だったら、初めに宮川が指摘した「子ども読者が相対的にずいぶん減ってることは確かだから、「児童文学」は本当に成り立つんだろうかと思ってしまう。」「「児童文学」が「文学」との境目を、良くも悪くも崩してる状況がずっと続いている。」「小学生ぐらいが読むのが児童文学だという思い方をしている。それが児童文学のボディーだと思ってきたので、そのボディーのところが、すごく空洞化していると思う。そこは、中心だからこそ、児童文学に固有の文体とかね、書き方とかみたいなものが試される場のはずなんだけれど、みんな、そこを避けて書いている。」といった重要な認識が、対談の中で掘り下げられるべきだったと思うのですが、実際は個々の作品に即して語られたせいか、ミクロな技術論が中心になってしまいました(所々で、本論に立ち返るところもあるのですが)。
以下のような当時の注目作について、主に「「仮説」を用いた語り方」を中心に話われ、そこに彼ららしく三島由紀夫や宮台真司や安部公房などの言説がちりばめられています。
さとうまきこ「こちら地球防衛軍」
森絵都「カラフル」「DIVE!!」
笹生陽子「楽園のつくりかた」
香月日輪「妖怪アパートの幽雅な日常」
あさのあつこ「バッテリー」
富安陽子「空へつづく神話」
たかどのほうこ(高楼方子)「ねこが見た話」「十一月の扉」
那須田淳「ペーターという名のオオカミ」
最初に、「児童文学の危機」が「世界や社会(子どもたちも含めて)の危機」に置き換えられて、いわゆる「セカイ系」の作品の書き方の話になって、本題からややはずれてしまいました。
ただ、現在の状況を自然主義で描くことは困難になっているので、「仮説の文学」(非・リアルな設定の中で、「たら、どう」って考える文学)が必要になっているという指摘は、重要でしょう。
その後に、今は希少になっている小学生読者向けの富安作品や高楼作品において、描写よりもストーリー展開を重視した書き方になっているという指摘も、「子どもが読書に求めているものが前と違ってきている」現代における児童文学作品の書き方として重要でしょう(描写を重視した「現代児童文学」(特に1980年代の作品)の書き方から、昔話などの口承文学への先祖がえりとされています)。
今回取り上げられたのは、従来の「現代児童文学」の定義で言えば、エンターテインメント寄りの、一般文学で言えば「中間小説」的な作品ばかりです。
はやみねかおるなどの純粋エンターテインメント作品には少し触れていますが、従来型の「現代児童文学」作品は全く無視されていますので、それらはすでに売れなくなって出版もされない(作家も書かない)、あっても取り上げるほどの作品がない、状況になっていたと思われます。
そういった意味では、この時期は、日本の児童文学がかつての「現代児童文学」(定義などはそれに関する記事を参照してください)から、現在の「(女性向け)エンターテインメント(今回取り扱われたのもほとんど女性作家の作品です)」へ転換する過渡期だったのでしょう。
私自身は、すでに従来型の「現代児童文学」がほとんど出版されなくなった1990年代に「現代児童文学」は終焉したという立場ですが、一般的にはこうした「中間小説的」児童文学も低調になった2010年ごろに終焉したと言われています。
そういった意味では、今回の対談で技術論が中心になったのもやむをえないのですが、その一方で二人が作品に何らかの「人生論」的な意味を見いだそうとしているのは、「評論」の方も過渡的だったことを示しているのかもしれません。
ここでいう「危機」とは、「少子化」とか、「子ども読者が、前より本を読まなくなっている」とか、「子どもが読書に求めているものが、以前と違ってきている」とかなどと思われるのですが、冒頭で石井の「危機っていう言葉自体があまり好きじゃないなあ」という発言もあって、あまり特集の主題に沿った対談にはなりませんでした。
本来だったら、初めに宮川が指摘した「子ども読者が相対的にずいぶん減ってることは確かだから、「児童文学」は本当に成り立つんだろうかと思ってしまう。」「「児童文学」が「文学」との境目を、良くも悪くも崩してる状況がずっと続いている。」「小学生ぐらいが読むのが児童文学だという思い方をしている。それが児童文学のボディーだと思ってきたので、そのボディーのところが、すごく空洞化していると思う。そこは、中心だからこそ、児童文学に固有の文体とかね、書き方とかみたいなものが試される場のはずなんだけれど、みんな、そこを避けて書いている。」といった重要な認識が、対談の中で掘り下げられるべきだったと思うのですが、実際は個々の作品に即して語られたせいか、ミクロな技術論が中心になってしまいました(所々で、本論に立ち返るところもあるのですが)。
以下のような当時の注目作について、主に「「仮説」を用いた語り方」を中心に話われ、そこに彼ららしく三島由紀夫や宮台真司や安部公房などの言説がちりばめられています。
さとうまきこ「こちら地球防衛軍」
森絵都「カラフル」「DIVE!!」
笹生陽子「楽園のつくりかた」
香月日輪「妖怪アパートの幽雅な日常」
あさのあつこ「バッテリー」
富安陽子「空へつづく神話」
たかどのほうこ(高楼方子)「ねこが見た話」「十一月の扉」
那須田淳「ペーターという名のオオカミ」
最初に、「児童文学の危機」が「世界や社会(子どもたちも含めて)の危機」に置き換えられて、いわゆる「セカイ系」の作品の書き方の話になって、本題からややはずれてしまいました。
ただ、現在の状況を自然主義で描くことは困難になっているので、「仮説の文学」(非・リアルな設定の中で、「たら、どう」って考える文学)が必要になっているという指摘は、重要でしょう。
その後に、今は希少になっている小学生読者向けの富安作品や高楼作品において、描写よりもストーリー展開を重視した書き方になっているという指摘も、「子どもが読書に求めているものが前と違ってきている」現代における児童文学作品の書き方として重要でしょう(描写を重視した「現代児童文学」(特に1980年代の作品)の書き方から、昔話などの口承文学への先祖がえりとされています)。
今回取り上げられたのは、従来の「現代児童文学」の定義で言えば、エンターテインメント寄りの、一般文学で言えば「中間小説」的な作品ばかりです。
はやみねかおるなどの純粋エンターテインメント作品には少し触れていますが、従来型の「現代児童文学」作品は全く無視されていますので、それらはすでに売れなくなって出版もされない(作家も書かない)、あっても取り上げるほどの作品がない、状況になっていたと思われます。
そういった意味では、この時期は、日本の児童文学がかつての「現代児童文学」(定義などはそれに関する記事を参照してください)から、現在の「(女性向け)エンターテインメント(今回取り扱われたのもほとんど女性作家の作品です)」へ転換する過渡期だったのでしょう。
私自身は、すでに従来型の「現代児童文学」がほとんど出版されなくなった1990年代に「現代児童文学」は終焉したという立場ですが、一般的にはこうした「中間小説的」児童文学も低調になった2010年ごろに終焉したと言われています。
そういった意味では、今回の対談で技術論が中心になったのもやむをえないのですが、その一方で二人が作品に何らかの「人生論」的な意味を見いだそうとしているのは、「評論」の方も過渡的だったことを示しているのかもしれません。
日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌] | |
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