現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学における試練や困難の意味

2017-08-06 17:34:26 | 考察
 児童文学(特に現代児童文学(定義については他の記事を参照してください))の特徴の一つに、成長物語(物語の最初と最後を比較すると、主人公たちが成長(あるいは変化)している)というものがあります。
 これは現代児童文学の特徴の一つである「変革の意志」(詳しくは、児童文学研究者の宮川健郎の論文についての記事を参照してください)を子どもたち自身に適用したものだと言われています(本来の「変革の意志」の意味は、社会主義的リアリズム作品などにおいて社会の変革を目指したものです)。
 もちろん、そうではない作品(「遍歴物語」と呼ばれています。詳しくは、児童文学研究者の石井直人の論文についての記事を参照してください)もありますが、1950年代以降から1990年代ぐらいまでの長い間、児童文学の主流は成長物語でした。
 そういった作品では、主人公はいろいろな試練や困難に直面します。
 わかりやすい例でいえば、小学校低学年の主人公に、責任ある仕事や係りが任され、それを達成する過程において様々な試練や困難が登場するようなお話です(一番シンプルな成功例は、筒井頼子の「はじめてのおつかい」(その記事を参照してください)でしょう)。
 いろいろな試練や困難に立ち向かう緊張感や、それを克服した時の誇らしい気持ちなどを通して、主人公の成長が描かれます。
 一般的には、そういった試練や困難は、読者が成長していくときに実際に出会う様々な障害のメタファーとして描かれています。
 そして、それらを克服していく主人公の行為を読書で追体験することによって、読者自身も成長すると考えられています。
 こうした読書の持つ機能性は、エンターテインメント全盛の現在ではかなり失われているかもしれません。

はじめてのおつかい(こどものとも傑作集)
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福音館書店


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児童文学におけるユーモアホラーについて

2017-08-06 17:02:01 | 考察
 児童文学において、怪談を初めとした怖いお話は、長い間流行しています。
 一定数の販売が期待できるので、多くの出版社で怖いお話のシリーズを持っています。
 私自身にも、そういったアンソロジーに作品を提供して、本が何回も再版されて驚いた経験(短編なので印税は微々たるものですが)があります。
 いろいろ出尽くしたのでブームは一段落していますが、他のジャンルとドッキングすればまだまだ売れる本は作れるのではないでしょうか?
 例えば、SFホラーとか、推理ホラーとか、変身ホラーとか、動物ホラーとか、昔話ホラーとか、サイコホラー(他の記事に書きましたが、サイコパスについては取扱い要注意です)とか、スポーツホラーとか、たくさんジャンルは作れると思います。
 その中で、書き手の立場から見ると、一番書きやすそうに思えるのはユーモアホラーですが、実は上質なユーモアを書くのは非常に難しいことなので、あまり成功作は思い出せません。

黒いユーモア (5分後に意外な結末)
クリエーター情報なし
学研教育出版
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児童文学におけるサイコパスの取り扱いについて

2017-08-06 16:28:48 | 考察
 サイコパスとは反社会的人格者で、社会には一定の割合が存在すると言われています(欧米人と比較すると日本人は極端に少ないと言われていますが)。
 猟奇的な犯罪が行われた場合に、犯人がサイコパスではないかとメディア(特にネット上なので)に書かれることもありますし、少年犯罪でもそのように言われることもあります(特定の事件に言及しませんが、私自身もどう考えてもサイコパスではないかと思っている犯人もいます)。
 エンターテインメント作品の中では、そういったサイコパスが描かれることは昔からありました。
 有名なのは、ヒチコックにより映画化されたその名も「サイコ」です。
 また、ジャンルとしてサイコホラーという分野もあります。
 これを確立したのは、映画化もされたトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」を頂点としたハンニバル・レクター博士を主人公にしたシリーズ(その記事を参照してください)だと言われています。
 日本でも、やはり映画化された貴志祐介の「黒い家」のような成功作があります。
 しかし、最近は若い世代を中心にしてその言葉が一人歩きして、ネットなどにあふれているチェックリストなどを使って、他人を攻撃したり阻害したりする理由として悪用されている場合もあります。
 児童文学において、サイコパスをどう取り扱うかは悩ましい問題です。
 大人の犯人として登場させるのは、「サイコパス」という言葉を使わない(一人歩きさせない)という条件付きで認めたいと思います。
 しかし、子どもの登場人物にそういった設定を使うことには、より強いためらいがあります。
 児童文学においては、「童心主義」などのように子どもを純真無垢な存在として描く傾向があり、それへのアンチテーゼとしてサイコパス的な人物を登場させるという考えも理解はできます。
 しかし、そういった作品中の登場人物が一人歩きして、新たな差別などに繋がらないかが心配です。
 ですから、仮にそういった登場人物を児童文学に登場させるとしても、ホラーなどではなくそういった行為の意味をより考えさせるような作品が望ましいのではないでしょうか。



羊たちの沈黙〈上〉 (新潮文庫)
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新潮社


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児童文学におけるスポーツエンターテインメントの書き方

2017-08-06 13:28:20 | 考察
 児童文学において、スポーツを題材にしたエンターテインメント作品が増えています。
 過去にこの分野で一番成功したのは、あさのあつこの「バッテリー」シリーズでしょう。
 ただし、この作品では、野球を題材にしてはいますが、明らかに登場キャラクターの魅力や人間ドラマの方で読ませた作品でした。
 ところが、最近の作品では、子ども読者があまり知らないような、マイナーだったり新しかったりするスポーツを題材にした作品が増えています。
 そういった作品では、「バッテリー」とは逆に、そのスポーツに対する興味をバネにして出版されていることが多く、子ども読者に知識を伝達するといった側面が強くなっています。
 また、多くの場合、作者がそのスポーツを実際にやった経験が十分でなかったり(全くない場合もあるでしょう)するので、その情報が伝達ゲーム(調べたり取材したりして他者から得た知識を、作品化することで今度は読者にその知識を伝達する)になっていて、そのスポーツの専門家から見たら噴飯なものもあるでしょう。
 専門書などで十分に調べたり、専門家に取材したり、原稿のチェックを受けたりするのは最低のルールだと思うのですが、きちんと守られていないケースもあります。
 また、知識の伝達としてはきちんとしいても、それだけでは十分ではありません。
 そのスポーツならではの試合や練習の様子や雰囲気、選手たちの体感、空気感などを、説明でなくきちんと描写できなければなりません(スポーツではありませんが、恩田陸の「蜜蜂と遠雷」(その記事を参照してください)のピアノコンサートの描写は見事でした。スポーツ物で描写のすぐれた作品としては、佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」(その記事を参照してください)があげられます)。
 仮にこれらの条件がすべてクリヤされたとしても、作品の分量の問題がありますので、そのスポーツを描く部分と、登場人物のキャラクター作りや人間ドラマとのバランスを取るのは、多くの人が知っている野球を題材にした「バッテリー」の場合よりもかなり難しいです(「バッテリー」も「一瞬の風になれ」も長大な作品になっていますが、最初からそんな長い作品を出版することが許されるケースはまれでしょう)。
 東京オリンピックで新たに採用された、空手、サーフィン、スケートボード、スポーツクライミングなどを題材にした作品も、これからきっと出版されることでしょう。
 その場合は、前述したような条件をクリアし、なおかつ登場人物のキャラクターの魅力や人間ドラマも優れた作品が生まれることを期待しています。


バッテリー (角川文庫)
クリエーター情報なし
KADOKAWA/角川書店

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