2013年の吉川英治文学賞を受賞した作品です。
恋愛小説の名手が老人問題に新境地を開いたと評されていたので、新しい家族のあり方を期待して読んでみました。
確かに現代の大きな問題である老人の介護や性愛についてかなりきわどい分まで含めて書かれていて、その意味では流行作家らしく旬のテーマをうまくとらえています。
どこまでが、作者の実体験でどこからが創作なのかはわかりませんが、手紙やワープロに残された覚書などをたどって、幼いころに別れた父の秘密を探っていく離婚体験のある中年女性の心理や孤独感の描き方は非常にうまくさすがなものがあります。
自分自身の老人介護の経験からいえば、主人公が前妻の娘でパーキンソン病を患って老人ホームに入っている父親を時々訪ねていくという立場から、介護の当事者である後妻やその娘たちに対してをかなり批判的に書かれているのは、アンフェアな印象を受けました。
老人たちが、日常的に介護されている人間よりも、たまに会って優しく接する人間を好ましく思うのはよくある話なので、作者はある程度表現には配慮はしているものの、実際に老人介護の責任を負っている人たちが読んだら不愉快に思えるだろうなあと思える部分もかなりありました。
また、主人公の母親も認知症を患って老人ホームにいるのですが、こちらに対しては主人公が介護の責任の当事者であるのに(いやむしろそのせいなのかもしれませんが)、父親に比べて至極冷淡なのも気になりました。
物語からは離れてしまいますが、この作品からは徹底的に子どもたちの姿が(主人公の子ども時代の回想シーンはありますが)排除されているのが、すぐれて今日的で興味を引きました。
主人公の父親には、二人の妻との間に三人の娘がいるのですが、孫は一人しかいません(あるいは登場しない孫がいるのかもしれませんが、四十九日の法要のシーンもあるので何も説明がないのは不自然です)。
しかし、両親の世代、子の世代、孫の世代となるにつれて子どもの数が減っていくのは、現代の日本では一般的なことでしょう。
私の家族は作品の家族よりもやや年長なのですが、私の両親から見て、子どもは三人、孫は六人(子ども一人につき二人ずつ)ですが、ひ孫は二人しかいません。
作品の家族ほど極端ではありませんが、だんだんに子どもの数は減っています。
現代では、それほど老人たちと子どもたちは隔離されているのです。
幸いに、私の家族は三世代同居でしたので、子どもたちは生まれた時から老人たちと接することができました。
父が亡くなった時子どもたちは小学生でしたが、そのことは、父にとっても、子どもたちにとっても貴重な時だったと思います。
世代間が隔離される現象は、アメリカの白人社会では30年以上前に起こっていました(現在のアメリカは、ヒスパニック系の人たちが出生率を下支えしていて2を超えています)。
アメリカの白人社会では、1950年代に空前の反映を迎え、それ以降の世代は親の世代よりも豊かになれないことを経験する初めての世代になったのです。
コラムニストのボブ・グリーン(彼は1947年生まれのいわゆるベビーブーマーです)が1982年から1983年にかけて書いた「ボブ・グリーンの父親日記」で描いたように、彼らも1970年代から1980年代にかけて、子どもの急激な減少を体験しています。
その意味では、1970年代から1980年代にかけて繁栄を迎えた日本では、バブル崩壊以降に成人になった世代が、初めて親の世代より豊かになれない世代なのでしょう。
彼らが、現在のように少ない子どもたちしか産めないのは、彼ら自身の責任ではありません。
明らかに、それ以前の世代の人間の責任なのです。
日本より先にこの問題に直面した欧米諸国では、国全体で取り組んで出生率を改善した国もたくさんあります。
日本でも、若い世代に手厚く安心して子どもが産める体制(若年層の雇用の促進、夫も妻も仕事と家事の両方ができる仕組み、教育費の負担の大幅軽減、シングルマザー(ファザー)の徹底した保護など)を直ちに作らなければ、このままどんどん衰退していくことでしょう。
恋愛小説の名手が老人問題に新境地を開いたと評されていたので、新しい家族のあり方を期待して読んでみました。
確かに現代の大きな問題である老人の介護や性愛についてかなりきわどい分まで含めて書かれていて、その意味では流行作家らしく旬のテーマをうまくとらえています。
どこまでが、作者の実体験でどこからが創作なのかはわかりませんが、手紙やワープロに残された覚書などをたどって、幼いころに別れた父の秘密を探っていく離婚体験のある中年女性の心理や孤独感の描き方は非常にうまくさすがなものがあります。
自分自身の老人介護の経験からいえば、主人公が前妻の娘でパーキンソン病を患って老人ホームに入っている父親を時々訪ねていくという立場から、介護の当事者である後妻やその娘たちに対してをかなり批判的に書かれているのは、アンフェアな印象を受けました。
老人たちが、日常的に介護されている人間よりも、たまに会って優しく接する人間を好ましく思うのはよくある話なので、作者はある程度表現には配慮はしているものの、実際に老人介護の責任を負っている人たちが読んだら不愉快に思えるだろうなあと思える部分もかなりありました。
また、主人公の母親も認知症を患って老人ホームにいるのですが、こちらに対しては主人公が介護の責任の当事者であるのに(いやむしろそのせいなのかもしれませんが)、父親に比べて至極冷淡なのも気になりました。
物語からは離れてしまいますが、この作品からは徹底的に子どもたちの姿が(主人公の子ども時代の回想シーンはありますが)排除されているのが、すぐれて今日的で興味を引きました。
主人公の父親には、二人の妻との間に三人の娘がいるのですが、孫は一人しかいません(あるいは登場しない孫がいるのかもしれませんが、四十九日の法要のシーンもあるので何も説明がないのは不自然です)。
しかし、両親の世代、子の世代、孫の世代となるにつれて子どもの数が減っていくのは、現代の日本では一般的なことでしょう。
私の家族は作品の家族よりもやや年長なのですが、私の両親から見て、子どもは三人、孫は六人(子ども一人につき二人ずつ)ですが、ひ孫は二人しかいません。
作品の家族ほど極端ではありませんが、だんだんに子どもの数は減っています。
現代では、それほど老人たちと子どもたちは隔離されているのです。
幸いに、私の家族は三世代同居でしたので、子どもたちは生まれた時から老人たちと接することができました。
父が亡くなった時子どもたちは小学生でしたが、そのことは、父にとっても、子どもたちにとっても貴重な時だったと思います。
世代間が隔離される現象は、アメリカの白人社会では30年以上前に起こっていました(現在のアメリカは、ヒスパニック系の人たちが出生率を下支えしていて2を超えています)。
アメリカの白人社会では、1950年代に空前の反映を迎え、それ以降の世代は親の世代よりも豊かになれないことを経験する初めての世代になったのです。
コラムニストのボブ・グリーン(彼は1947年生まれのいわゆるベビーブーマーです)が1982年から1983年にかけて書いた「ボブ・グリーンの父親日記」で描いたように、彼らも1970年代から1980年代にかけて、子どもの急激な減少を体験しています。
その意味では、1970年代から1980年代にかけて繁栄を迎えた日本では、バブル崩壊以降に成人になった世代が、初めて親の世代より豊かになれない世代なのでしょう。
彼らが、現在のように少ない子どもたちしか産めないのは、彼ら自身の責任ではありません。
明らかに、それ以前の世代の人間の責任なのです。
日本より先にこの問題に直面した欧米諸国では、国全体で取り組んで出生率を改善した国もたくさんあります。
日本でも、若い世代に手厚く安心して子どもが産める体制(若年層の雇用の促進、夫も妻も仕事と家事の両方ができる仕組み、教育費の負担の大幅軽減、シングルマザー(ファザー)の徹底した保護など)を直ちに作らなければ、このままどんどん衰退していくことでしょう。
沈黙のひと | |
クリエーター情報なし | |
文藝春秋 |