現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

三大怪獣 地球最大の決戦

2020-12-18 13:53:36 | 映画

 「モスラ対ゴジラ」(その記事を参照してください)と同じく、1964年に作られたゴジラシリーズ5作目です。
 三大怪獣というのは、モスラ、ゴジラと、もうひとつ東宝の誇る怪獣スター、ラドンのことで、人気スターのそろい踏みです。
 実は、もうひとつキングギドラも登場するのですが、それは途中まで伏せられています。
 初めはけんかをしていたゴジラとラドンを、正義の怪獣モスラ(国会の要請により、平和の島インファント島からやって来ました)が説得して、金星の文明を滅ぼしたというふれこみの宇宙怪獣キングギドラを、地球の三大怪獣が力を合わせてやっつけるという怪獣ストーリーに、命を狙われている外国の王女(なぜか金星人になったり、日本語をしゃべれたりします)とボディーガード役の日本の警察官の恋と冒険のストーリー(「ローマの休日」の完全なパクリです)をからめた娯楽作です。
 この作品で、怪獣たちの擬人化度が格段に上がったこと、「人類の敵」であったゴジラが「人類の味方」へ変身したこと、怪獣だけではスト―リーが持たないので人間たちのドラマを付け加えたことなどで、ゴジラシリーズはこの後急速に堕落していきます。
 人間社会の個々の問題(当時であれば、東西冷戦、核実験、安保、公害など)を批判するのではなく、人類のためとか地球のためといった大きな(それゆえあいまいな)正義を持ち出して、悪(この映画の場合は金星を滅ぼした宇宙怪獣)をやっつけるといった構図は、児童文学でもファンタジー作品でよく用いられますが、たんなる娯楽作品以上の価値は持ちえません。

 

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長谷川 潮「子ども読者は何を受容するか(上)」日本児童文学2016年1-2月号所収

2020-12-18 13:42:59 | 参考文献

 子ども読者は、日本の児童文学だけでなく以下のような多様な文学を受容しているので、何を受容しているかについてはその総体として論じる必要があることを述べています。
1.日本の児童文学(絵本も含む)
2.外国の児童文学(絵本も含む)
3.日本の古典や一般文学の児童版
4.外国の古典や一般文学の児童版
5.日本の古典や一般文学(児童版化されていない)
6.外国の古典や一般文学(児童版化されていない)
 ただし、5と6は一般論として論じるのは不可能として除外しています。
 私自身の読書体験でも中学生の時は5や6の本をかなり読んでいましたが、具体的にどんな本が子どもたちに読まれていたかを調べるのは困難なので、筆者の意見に同意します。
 まず、2002年に出版された「子どもの本・翻訳の歩み辞典」を、日本の子ども読者が何を受容してきたかを知るために有益であることを紹介しています。
 この本には、翻訳書だけでなく、全962項目中72項目も日本の本が含まれているそうです。
 筆者は、大石真の「教室205号」(その記事を参照してください)とカニグズバーグの「クローディアの秘密」の翻訳が、同じ1969年に出版されていることに、「なるほどと思わせられた」と述べていますが、まったく同感です。
 「教室205号」の学校で疎外された子どもたちの悲劇的な結末に心を痛めた子ども読者たちが、「クローディアの秘密」も読んだら、家庭で疎外されていたクローディアのその後の生き方にどんなに励まされたことでしょう。
 同様に、「子どもの本・翻訳の歩み辞典」には、古典や一般文学も190(ただし同じ作品の翻訳が複数含まれています。例えば、「ロビンソン・クルーソー」は8回、「ガリヴァ―旅行記」は4回など)も入っています。
 次に、いわゆる「童話伝統批判」について、筆者の体験的な評価が述べられています。
 まず、佐藤忠雄の「少年の理想主義について - 「少年倶楽部」の再評価」(その記事を参照してください)については、読者の立場からの意見として紹介するにとどめています(児童文学史的には、他の研究者たちも同様の立場です)。
 石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)の「おもしろく、はっきりわかりやすく」という主張に対しては、「読んだ時のおもしろさだけで歴史的評価を無視している。最大公約数的な読者像で、個性的な読者は見落とされている。主に幼児、幼年向きの者にしかあてはまらない。機能面、形式面に傾きがちである」と批判しています。
 早大童話会の「少年文学宣言」派の鳥越信の「子どもの論理、子どもの価値観にのっとったもの」「内包するエネルギーがアクティブなものが望ましい」という主張に対しては、「現実の子どもと作品の中の子どもを単純に結び付けている。現実の子どもはもっと複雑多様だと思う」と、やや控えめに批判しています(「少年文学宣言」派について論じるときには、理論の中心的な役割を果たした古田足日の主張(例えば「現代児童文学論」(その記事を参照してください)を紹介するのが一般的ですが、筆者は古田の論は難解すぎるとして、より分かりやすい鳥越信の主張を紹介しています)。
 日本の児童文学界においては、日本児童文学だけを個別に取り上げて議論することが多かったのですが、筆者が述べているように外国の児童文学や内外の古典や一般文学の影響を含めて総体的に検討する必要があるでしょう。
 例えば、他の記事にも書きましたが、ピアスの「トムは真夜中の庭で」が翻訳された後に日本でもタイムスリップ物がたくさん書かれるようになったり、トールキンの「ホビットの冒険」や「指輪物語」が斎藤敦夫の「冒険者たち」などに影響したり、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の若者の話し言葉を使った文体が日本の児童文学に影響を与えたりなど、興味深いテーマがたくさん見つかりそうです。

戦争児童文学は真実をつたえてきたか―長谷川潮・評論集 (教科書に書かれなかった戦争)
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村中李衣「『商品』としての幼年童話は……」日本児童文学1999年1-2月号

2020-12-18 13:31:02 | 参考文献

 児童文学者(作家、評論家、研究者など多面に活動しています)の著者が、幼年童話の古典的な作品と1990年代の商品化された幼年文学を比較して論じています。
 幼年童話で名作と言われている「くまの子ウーフ」、「いやいやえん」、「ながいながいペンギンの話」、「モモちゃんシリーズ」などにおいては、手渡し役としての大人の存在が必要だったとしています。
 読み聞かせにしろ、子どもと一緒に読む形にしろ、大人たちのリアクションが、物語に対する子どもたちの理解を助けるのに有効だったのです。
 子どもたちだけでは、物語の個々の場面には敏感に反応できても、物語全体を理解することは困難であったろうと推定しています。
 これらの物語が書かれてから三十年以上が経過して、親子関係や子どもたち自身の変化(働く女性の増加、子どもたちの識字能力の向上など)から、この論文が書かれた時点では、子どもが単独で本を読むことが増えてきたとしています。
 そして、この傾向に適応している作品として、「かいけつゾロリシリーズ」や「まじょ子ちゃんシリーズ」などをあげています。
 これらの本では、ストーリーで読ませるよりは、擬音語や擬態語を多用して、個々の場面の面白さで読ませているとしています。
 著者自身は、「かいけつゾロリシリーズ」や「まじょ子ちゃんシリーズ」に否定的なようですが、文中では明言していません(この論文のあいまいな表題にもそれが表れています)。
 その理由は、最後に述べられているように、これらに代わるものを彼女自身が提案できないからです。
 この論文を読んで、商品性を前面に出した幼年文学に対する著者の批判の歯切れの悪さが不満でした。
 たしかに、著者は研究者や評論家であるとともに幼年童話の実作者でもあるので、自分自身でこれらに代わるものを書けていない負い目はあるでしょう。
 しかし、それよりも彼女が児童文学業界の体制内の人間であることが、批判の刃を鈍らせているような疑いもあります。
 こうした児童文学界の業界内部への批判精神の欠如が、現在の児童文学の退廃(この論文が書かれてから20年以上がたった現在では、児童文学の商品化は幼年だけでなく全体を覆い尽くしています)を生み出したのかもしれません。

日本児童文学 2014年 12月号 [雑誌]
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小峰書店
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