詩の入門書ではなく、日常に潜む「詩的」なものに気づくことに目覚めさせるのを目的にした本です。
前半の「日常にも詩は〝起きている"―生活編」では、かなりそれに忠実に書かれていて、「名前をつける」「声が聞こえてくる」「言葉をならべる」「黙る」「恥じる」の各章で、それぞれ「詩的」なものに出会わせてくれます。
しかし、後半の「書かれた詩はどのようにふるまうか―読解編」では、「品詞が動く」「身だしなみが変わる」「私がいない」「型から始まる」「世界に尋ねる」といった構成になっていますが、章によっては「詩の鑑賞」風になっていて、国語の授業のようにつまらなく思える個所もあります(まあ、そこは読み飛ばせばいいだけなのですが)。
私が現代詩を熱心に読んでいたのは、10代から20代のごく短い時期で、その後は現代児童文学を中心として散文の方へ読書傾向は移っていってしまいました。
しかし、18歳の時に大学の児童文学研究会に入る時には、「どの作家が好きか?」と問われた時に、即座に「宮沢賢治とエーリヒ・ケストナー」と答えていました。
ご存知のように、二人とも児童文学作家であるとともに詩人でもあります。
このように、私にとって児童文学と詩は表裏一体のものだったのでしょう。
現在、児童文学において詩があまり表面に出てこないのは、「現代児童文学」がその出発時に、近代童話の小川未明たちの「詩的」な文章を否定し、「散文性の獲得」を目指したからだと思います。
もちろん、その後も「少年詩」(ここでいう少年とは単に年代を示しているだけなので男女を問いません)を書かれている方はたくさんいらっしゃいますが、その行為が一部の例外(谷川俊太郎など)を除いては、散文の児童文学以上にお金にならないので、なかなか注目を浴びることはありませんでした。
しかし、近年、未明たちの近代童話が復権するにつれて、これからは児童文学の中の「詩的」な部分がより重要になってくると思われます。
私が属している児童文学の同人誌にも、詩的才能を持った書き手がいますし、それが散文の作品に生かされていて、他の書き手との差別化要因になっています。
個人的には、久しぶりに詩集をまとめて読んでみようと思わせてくれただけでも、この本を読んだ価値はありました。
詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること | |
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