著者は、現在(現代児童文学がスタートする前の1950年代)までの日本の児童文学者において、南吉を宮沢賢治につぐ存在だと高く評価しています。
この評価のおかげもあってか、南吉は再評価されることになり広く読まれることになります。
それから約六十年たった今でも、賢治ほどではありませんが、南吉の作品も多くの読者に読まれています。
また、南吉の作品は、多くの追随作、模倣作を、今に至るまで生み出し続けています。
賢治の作品をまねるのはとても無理でも、南吉のような作品だったら書けるかもしれないと、多くの初心者が思うのかもしれません。
それは、南吉の作品が、身近な題材を比較的平易な言葉で描き出しているからでしょう。
著者は、南吉のそれほど多くない作品を、心理型(少年の心理をほりさげるのに重点を置いた作品)とストーリー型(ストーリーの起伏や展開に重点を置いた作品)に分類しています。
著者は、それまで南吉を世に出した巽聖歌たちに高く評価されていた心理型ではなく、ストーリー型の作品を高く評価しています。
それは、「おもしろく、はっきりわかりやすく」を標榜する「子どもと文学」の立場では当然のことですが、最後まで彼のストーリーのどんな点が優れているかがはっきりしません。
いくつかの作品のあらすじを紹介していますが、評価しているのは登場人物(動物)のキャラクターだったり、「描き方がしっかりしている」、「文章のたくみさ」、「意表を突く」、「奇抜」といった抽象的なものばかりだったりして、肝心の物語構造に言及していません。
しいて言えば、「人生の中にふくまれているモラルとか、ユーモアとかいうものを事件として組み立て、外がわから描き出せる人でした。」という最後に書かれた南吉への評価ですが、これは南吉が(事件を外側から描き出せる)ストーリーテラーであるだけでなく、心理型で少年の心理をほりさげたように、人間や社会というものの内側をほりさげる能力を持っていたからではないでしょうか。
そして、それこそが、南吉の作品が「文学性の高さ」を持っていた理由だと思われます。
この論文が、いたずらに表面的なストーリーテリングの能力を強調し、南吉のもう一つの優れた一面である心理型の作品を生み出す能力を無視したために、登場人物や社会の内側を掘り下げない、南吉作品の安易な追随作、模倣作が量産されるようになったのでしょう。
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