現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

藤田のぼる「「赤毛のポチ」のリアリズム」日本児童文学1974年10月号所収

2017-08-16 18:34:47 | 参考文献
 「現代児童文学」(定義などは他の記事を参照してください)のリアリズム作品の出発点(そして代表する作品)である山中恒の「赤毛のポチ」について論じています。
 著者も、管忠道や神宮輝夫の文章を引用して、この作品を「現代児童文学、とりわけ現代児童文学のリアリズムという意味で、出発点に位置する作品であることはほぼ了解されている」としています。
 その理由として、「散文による長編という方法を獲得したこと」、「現実の矛盾をリアルに告発すると共に、その中における変革への志向性を描き出す」を挙げています。
 これらと、この論文で著者も後述している主人公の子どもたちを生き生きと描写したことも含めて、「赤毛のポチ」は、山中も属していた「少年文学宣言」派(他の記事を参照してください)が掲げていたとされる「現代児童文学」の三要件である「散文性の獲得」、「変革の意思」、「子どもへの関心」のすべてを十全に満たしていたと言えます(詳しくは、児童文学研究者の宮川健郎の論文に関する記事を参照してください)。
 しかし、著者は、「この「赤毛のポチ」のリアリズムがその後の児童文学の流れの中ではきわめて不十分にしか継承され」なかったとしています。
 さらに、山中自身が「「赤毛のポチ」の世界の廃棄を公然と宣言したこと」を「無残」という言葉を使って強く非難しています。
 一般に、「現代児童文学」は、1959年に佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」の、二つの長編ファンタジーでスタートしたとされています。
 しかし、私は、それに先行して行われていた「新しい児童文学」の論争がスタートした1953年に出発したとする立場をとっています(その記事を参照してください)。
 その論拠のひとつが、そうした論争の中心の一つであった早大少年文学会OBによる同人誌「小さい仲間」に、その主張に基づいた創作「赤毛のポチ」が翌1954年に連載され始めた(完結と日本児童文学者協会新人賞受賞は1956年、出版は1960年)ことです。
 著者は、「赤毛のポチ」のリアリズムの特徴として、長屋に住む主人公たち「労働者」の子どもと大人たち、炭鉱会社(兵器産業にも進出しようとしている)の重役の家族たち「資本家」の子どもと大人たち、そして、担任の若い女性の教師と仲間たち「小市民」の大人たち、といった三つのグループを、図式的にではなくそれぞれリアリティを持って描き出した点にあるとして高く評価しています。
 また、一般に「赤いポチ」を批判されるときに言われる、「組合結成を問題解決のオールマイティな手段として安易に使っている」点についても、前述した主人公たちが懸命に生きている姿を描いたように、主人公の父親や組合を結成した大人たちをもっとリアリティティを持って描けば克服できると擁護しています。
 そして、今後の方向性としては、第三のグループ(「小市民層」)の描き方にあるとしています。
 著者は、このグループに、山中自身と読者たち(当時小学校教師だった著者も同様でしょう)も含まれるとしています。
 そして、第一グループ(労働者階層)の人たちの連帯だけを描くだけでなく、第三グループを核にして、第一グループや第二グループ(資本家階層)の人たちも含めた全体の連帯を目指すべきだとしています。
 このあたりの考えは、当時の(60年安保も70年安保も階級闘争に敗れた)革新系の市民運動のロジックに近いものです。
 そして、著者の主張に近い作品(後藤竜二の「歌はみんなでうたう歌」(その記事を参照してください)など)も生み出されていました。
 しかし、こうした路線は大衆が学生運動や市民運動から離れていく傾向とともに行き詰まり、「現代児童文学」のリアリズム作品はより個人的な「小さな物語」を描いた作品(森忠明や皿海達哉など(関連する記事を参照してください)に主流は移っていきます。
 私自身も、この論文が書かれた前年に大学の児童文学研究会に入ってすぐに、先輩たちから薦められて読んだたくさんの「現代児童文学」の本の中で、最も衝撃を受けた作品が前述した佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」とこの「赤毛のポチ」でした。
 特に、「赤毛のポチ」には、今まで読んできた児童文学作品(今も変わりませんが、賢治とケストナーが最も好きです)にはなかった貧困の中の労働者階級の子どもや大人たちがリアルに描かれていて、今までにないリアリズム作品として興味を引かれました。
 しかし、その後に集中的に読んだ「赤毛のポチ」に続くリアリズム作品(山中恒、古田足日、後藤竜二など、主に早大少年文学会出身の作家たちによるもの)には、残念ながら「赤毛のポチ」を超える作品を見つけることができませんでした。
 そういった意味では、当時の私の「現代児童文学」のリアリズム作品に対する評価は、この論文に書かれている著者のものと非常に近いものでした。
 しかし、それからの方向性については、著者の主張とは真逆な考えを持っていました。
 私が大学に入った1973年(この論文が書かれた前年)には、70年安保の敗北後の革新勢力の低迷時期になっていて、特に学生運動では内ゲバがすでに激化(私が高校生の時に早稲田大学で有名な「川口くんリンチ殺人事件」が起きて、私たちの高校の全校集会でも犯行者たちの属する革マル派(当時、早稲田大学の自治会を実効支配していた過激派グループ)に対して糾弾声明が決議されていました)していて、一般学生の学生運動離れが決定的になっていました。
 また、前述したような「小市民層」(彼らの定義によれば私自身もその中に含まれていたでしょう)を核にして全体の連帯を求めるような「市民運動」のロジックに魅かれ、この作品や他のリアリズム作品に描かれたような教師像(この流れは、その後灰谷健次郎の作品などに引き継がれ、児童文学の世界では長年生き続けました)にあこがれて教師を目指す学生たち(そう言えば、私の入った「児童文学研究会」の隣の部室のサークルはその名もズバリ「教師を目指す会」でした)もたくさんいましたが、私自身は強い反発を感じていました。
 そのころは、明瞭には言語化されていなかったのですが、今振り返ってみると、ここで主張されているような「小市民層」のような第三のグループなどは存在せず、世の中には「資本家階層」と「労働者階層」しかないし、両者が連帯することなどはありえず前者は後者を搾取し続けるだろうと思っていたようです。
 そして、この論文で書かれているような「小市民層」(自分自身も含めて)は、たんに労働の形態を変えただけの「労働者階層」にすぎず、同様に「資本家階層」に搾取される存在だと考えていたようです(ここでは資本主義体制について書いていますが、共産主義体制においても支配者層が大衆層を搾取している構造は同じです)。
 この論文が書かれた1974年に、私は「児童文学研究会」の後輩たちと、日本女子大で行われた山中恒の講演会を聴きに行きました。
 詳しい内容は覚えていないのですが、最後に彼が言った次の言葉だけは、今でも明瞭に覚えています。
「児童文学者協会賞はいらないから、課題図書になりたい」
 山中は、1969年に日本児童文学者協会を退会し、同年の児童文学者協会賞に「天文子守歌」が選ばれていたのですが、辞退しています。
 この言葉を、前述した「小市民層」と「労働者階層」の文脈に当てはめてみると、社会を「連帯」させるのに貢献するような褒められる作品(児童文学者協会賞受賞作品のような)ではなく、お金を稼げる本(毎日新聞社の読書感想文コンクールの課題図書は、選定されれば現在でも一千万円を超える印税を期待できると言われていますが、当時は「家が建つ」と言われ程の莫大な印税が得られました)を書きたいということです。
 山中自身も、自分をこの論文で規定しているような「小市民層」ではなく、「労働者階層」であると認識していたようで、「児童文学者」ではなく「児童読み物作家」を自称して、ますますエンターテインメント系の作品を書くようになります(その一方で、彼自身もその一員だった「少国民」の研究活動も精力的にすすめていきます)。
 この論文の最後に、かつての盟友だった古田足日の「ぼくは、山中恒がふたたび「赤毛のポチ」の世界に立ちもどることを望みたい。」という言葉を引用しています(好意的に読めば、早大少年文学会では断トツの文才の持ち主を仲間から失うことを惜しんだのでしょう)が、両者の「児童文学作家」に対する認識(「小市民層」か「労働者階層」か)は大きく異なっており、一度袂を分かった両者が再び一緒になることはありえなかったことなのです。
 そして、その理由は、著者が述べているような当時の批評活動(古田もその一員です)が、「赤毛のポチ」の成果と課題について実りあるものでなかったこととは無関係でしょう。

赤毛のポチ (理論社名作の愛蔵版)
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川上未映子「十三月怪談」愛の夢とか所収

2017-08-15 15:50:51 | 参考文献
 腎臓病で死んだ女性が、住んでいたマンションの部屋の呪縛霊のようなものになり、再婚した夫の家族を見守り続けます。
 一方で残された夫はマンションを処分して故郷に帰り、独り身のまま69歳で亡くなります。
 どちらが真実なのかはわかりませんが、いずれにしても死後に二人は再び結ばれてお話は終わります。
 自分の死後に、夫には幸せになってもらいたいと思う一方、操を守ってほしいと思うのは、若い女性にとってはどちらも偽りではない気持ちなのでしょう。
 そのどちらもかなえられて死後に再び結ばれるというのは、非常にロマンチックなストーリーだと言っていいでしょう。
 川上の主な読者だと思われる若い女性たちにはこのようなスピリチュアルでロマンチックな話はうけるのでしょうが、それらの読者たちに媚びているようであまりいい印象は持ちませんでした。
 児童文学の世界でも、現在は圧倒的に女性作家や女性読者が多いので、スピリチュアルな恋愛話は大流行です。

愛の夢とか
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川上未映子「日曜日はどこへ」愛の夢とか所収

2017-08-12 10:36:17 | 参考文献
 一人暮らしの独身女性が、ある作家が死んだ時に、その作家の本を読むことを通して高校から大学にかけてつきあうことになった雨宮くんのことを思い出します。
 彼とは、その作家が死んだら、そのころ一緒によくいった植物園で再会する約束をしています。
 彼には21歳の時にふられているのですが、その約束が守られると主人公は固く信じています。
 次の日曜日に、主人公はおめかしして植物園へ行きますが、もちろん雨宮くんが来るはずもありません。
 帰りの電車で死んだ作家の本を読んでいた男性と声を交わしますが、その先にはいつもと変わらぬ孤独が待ち受けています。
 設定として日曜日に雨宮くんと会う約束になっているわけではないので、もしかすると主人公は精神を病んでいるのかもしれません。
 もちろんこの主人公は、結婚もし孤独でもないだろうと思われる川上とは別人格なのですが、主人公をどこか冷たく突き放したようなラストが、川上が美人で作家としても成功しているだけにどこか優越感が感じられて気になりました。
 さて、亡くなった作家の本をいつまでも読み続ける読者がいるというのは作家冥利に尽きるわけですが、私にとっても、賢治やケストナーや柏原兵三の作品群は、彼らがとうに亡くなっていても色あせるものではありません。
 そういった作家がいるということは、読者冥利に尽きることでもあるのかもしれません。

愛の夢とか
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岩瀬成子「ぼくが弟にしたこと」

2017-08-12 10:29:22 | 作品論
 主人公の六年生の少年は、ささいなこと(主人公のカラーボックスから蝶の模様のジグソーパズルを勝手に取り出して作っていた)に激高して、四才も年下の弟を何回もなぐりつけてしまいます。
 それ以来、主人公は自分の中の恐ろしい部分(心の中の黒い穴のように思えています)について考え続けています。
 主人公は、三年前に両親が離婚するまで、父親からささいなことで暴力(殴ったりけられたりするなど)や体罰(クローゼットに閉じ込められたり、不登校の時に無理やり学校へ連れていかれたりするなど)を受けていました。
 はっきり書かれてはいませんが、そうした父親の気性を自分が受け継いでいるのではないかの恐怖もあったでしょうし、昼の介護と夜のコンビニの仕事をかけもちして苦労している母親を労わってすすんで手伝いをしている弟に対する引け目のようなものもあったかもしれません。
 三年ぶりに、離婚後初めて父親と再会し、暴力をふるったことへの謝罪を求めますが、父親の方では暴力をふるったことをほとんど覚えていませんし、悪かったとも思っていません(これは加害者側と被害者側の記憶の違いで、ほとんどの「いじめ」の事件でも同様ですが、もっとも有名な例は強制収容所における収容されていたユダヤ人の記憶と殺したり虐待したりしていた看守や幹部たちとの記憶の著しい違いでしょう)。
 主人公は、改めて父親と決別し、三人で生きていくことを決意します。
 主人公が、弟が好きな蝶々(そのために、つい兄のジグソーパズルの蝶の絵を確認したくなったようです)の木を、二人で見に行くラストシーンが美しく感動的です。
 親による虐待、離婚、再婚家庭(クラスメイトの黒田くんは、新しいおかあさんの勧めに気兼ねして、気のすすまない中学受験(国立の付属が目標なので受かりそうもない)のために塾へ通っています)、シングルマザー家庭の経済的苦境などの今日的なテーマを、少ない紙数の中でまとめあげた作者の筆力には相変わらず感心させられます。
 特に親による虐待(この作品では父親ですが、幼少のときには母親によるケース(ネグレクトも含む)が多いようです)は深刻な問題です。
 私自身は、幸いに両親から体罰を受けた経験も、子どもたちに体罰をしたこともありませんが、現代の格差社会において余裕のない状況で暮らしている家族では、こうした衝動を抑えられない親たちもますます増えていくことでしょう。
 そして、この作品で示唆された負の連鎖(子どものときに虐待を受けた親たちが、自分の子どもたちを虐待してしまう)も断ち切っていかなければなりません。
 そのためには、この作品で描かれたような親との決別(過激な言葉で書けば「精神的な親殺し」)が必要だと思われます。
 さらに、この作品では、こうした厳しい環境の中では、家族で励ましあって生きていくだけでなく、前の学校で主人公を気遣ってくれた友だちの想い出や主人公自身が黒田くんに「いっしょに公立に行こうよ」と呼びかけるシーンを描くことによって、仲間たちとの連帯が大事なことを巧みに描いています。
 確かに、この作品は困難な状況にいる子どもたちにとって、大きな励ましになることでしょう。
 ただし、主人公たちは、同様の状況にいる実際の子どもたちよりは、まだ恵まれているように思えたことも事実です。
 主人公には、より状況が悪くなる前に離婚した賢明な母親(働きすぎで疲れてはいますが)がいますし、母親や主人公のことをいつも気遣ってくれる心優しい弟もいます。
 父親も離婚前と変わってはいませんが、本人の言葉を信じるならば、離婚した時に少しまとまったお金を母親にわたし、定期的ではないものの養育費も時々振り込んでいて、転勤で売ることになった自宅のお金もいくらか渡そうとしています(作者は批判的なタッチで描いていますが、こうした最低限の義務を果たさない父親が大半です)。
 全体を通して、「運命(虐待や離婚や再婚)をただじっと受け入れているのが子どもなのか」と問いかけて、「否!」と主人公たちの行動を通して答えている作者のメッセージは、読者にはしっかりと届いたと思います。
 この本は2015年に出版されましたが、エンターテインメント全盛の、現在の日本の児童文学の出版状況の中で、このような社会的なテーマを取り上げた作品を書いた作者と、世に出した出版社(理論社)に敬意を表したいと思います。

ぼくが弟にしたこと
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理論社
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藤田のぼる「現代児童文学史ノートその6」日本児童文学2013年11-12月号所収

2017-08-12 09:46:20 | 参考文献
 この回では、筆者の時代区分によると、第二期後半(1990年代)と第三期(200年代以降)を概説しています。
 第二期後半には、前期(1980年代)に生まれた三つの路線(エンターテインメントの路線、小説化、「他者としての子ども」をモチーフの中心におこうとする創作態度)の発展形に加えて、二つの路線が誕生したとしています。
 エンターテインメント路線においては、それまでエンターテインメント作品の中心だった那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズのような従来の児童文学とエンターテインメントとの「中間小説」(一般文学の世界で、純文学と大衆小説(エンターテインメント)の中間の作品を指す用語です)的な作品から、より本格的なエンターテインメント(子ども向けの本格推理小説など)にシフトしたとしています。
 この路線の代表作家として、はやみねかおる(「名探偵夢水清志郎事件ノート」シリーズなど)と松原秀行(「パソコン通信探偵団事件ノート」シリーズなど)をあげています。
 小説化の流れでは、子どもだけでなく広範な読者(私は女性向けという条件を付加したいと考えていますが)を対象とした一般文学とのボーダーレス化を生んだとしています。
 ここの代表的な作家として、江國香織、石井睦美をあげて雑誌「飛ぶ教室」の貢献を指摘し、さらに、講談社児童文学新人賞出身の森絵都、たつみや章、魚住直子、風野潮、梨屋アリエ、草野たき、椰月美知子の名前をあげています。
 「「他者としての子ども」をモチーフの中心におこうとする創作態度」の路線では、富安陽子と高楼方子の名前をあげて、子どもたちへのメッセージをリアリズムの手法で語ることの困難さが増していって、主な作品が従来のリアリズム作品からファンタジー作品へ移行したとしています。
 新しい路線としては、「大きな物語」路線をあげています。
 この路線の代表作家としては、荻原規子(「空色勾玉」など)、上橋菜穂子(「守り人」シリーズなど)、あさのあつこ(「バッテリー」シリーズ)など)をあげて、骨太なストーリーの魅力や大きな世界観が読者を引きつけ、児童文学にとどまらない読者(ここでも女性を中心にしてですが)を獲得することになったとしています。
 もう一つの流れが、年少の読者を対応した絵物語や絵本をあげています。
 ここにおける代表的な作家は、原ゆたか(「かいけつゾロリ」シリーズなど)、いとうひろし(「おさる」シリーズ(その記事を参照してください)など)、きたやまようこ(「いぬうえくんとくまざわくん」シリーズ(その記事を参照してください)など)、あんびるやすこ(「なんでも魔女商会」シリーズなど)、木村裕一/あべ弘士(「あらしのよるに」シリーズなど)をあげています。
 第三期(2000年代以降)については、著者自身がまだ未整理のようですが、以下のようなキーワードをあげています。
 「相互乗り入れ」(角川書店、集英社といった大手出版社の児童書文庫参入とポプラ社の一般書への参入。子どもの本の世界と大人の本の世界とのボーダーレス化など)。
「一つの時代の終焉」(「ズッコケ三人組」シリーズの終了。大阪国際児童文学館の閉館、理論社の倒産など)。
「2006年デビュー組」(菅野雪虫、濱野京子、廣嶋玲子、まはら三桃など)。
「3.11」(「災後」という課題をどう引き受けるのか)
 1990年から2010年代までの二十年以上にわたる日本の児童文学の動向が、短い紙数でうまくまとめられています。
 しかし、今回も多数の作家や作品を網羅的に紹介したために、評論が現象(創作)の後追いになっている感は否めません。
 このような児童文学界の変化がおきた社会的な(子どもを取り巻く環境、児童書出版の状況、さらにはより広範な社会状況など)背景についての、著者の考察がもっと知りたかったと思いました。
 また、2000年以降の第三期に関しては、著者自身も述べているように明らかに従来の「現代児童文学」(定義などについては関連する記事を参照してください)とは異質になっていると思えるので、別のタームを提案した方が良かったと思います。
 「現代児童文学」の特徴の一つである「変革の意思」(社会の変革だけでなくいわゆる「成長物語」による個人の変革も含みます)を明らかに失った(著者があげていた第二期後期の主な作品の大半が、すでに「成長物語」でなく「遍歴物語」(これらの定義については児童文学研究者の石井直人の論文に関する記事を参照してください)です)現在の児童文学(岩瀬成子や村中李衣の作品のような例外はありますが)まで、同じ「現代児童文学」というタームを使うと混乱を招きかねません。

日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
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小峰書店
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藤田のぼる「「戦後児童文学史」岩波講座日本文学史第14巻二〇世紀の文学3」所収

2017-08-12 09:33:30 | 参考文献
 著者は、「現代児童文学史ノート」という題の論文を1984年と2013年に書いていて、かなりの部分がそれらと重複するので、詳細はそれらの記事を参照してください。
 1984年の論文は、「現在児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)がまだ進行中であった時に、筆者の問題意識を前面に出して書かれており、2013年の論文(というよりはエッセイかもしれません)は「現代児童文学の終焉」(その記事を参照してください)後に、全体を概観して書かれています。
 今回の論文はこれら二つの論文の中間の1990年代に書かれていたので、書き方も両者の中間的なものになっています。
 ただし、タイトルからも分かるように、「現代児童文学史」ではなく「戦後児童文学史」なので、「現代文学史」以前の児童文学というより大人も含めた国民的ベストセラーである1948年の竹山道雄「ビルマの竪琴」と1952年の壺井栄「二十四の瞳」にも簡単に触れています。
 「ビルマの竪琴」に関しては「国家、民族、軍隊といった超社会的ファクターを一瞬のうちに美的世界におきかえてしまう方法は、まさに「童話」的というにふさわしく」、「二十四の瞳」については「鎮魂から新しい時代への出発という当時の日本人が迫られていた心理的清算に大きな役割を果たすことができた」として、「児童文学はあの戦争体験を「物語」に封じ込めるための大きな役割を果たしたといっていいだろう。」と評価しています。
 また、これもまた「現代児童文学史」では無視(あるいは軽視)されることの多い七十年代のベストセラー作家(子どもよりも大人(特に教員志望の若者たちが中心))の灰谷健次郎の諸作品も取り上げて、「高度成長型の社会を現出させてしまった日本人の原罪感を衝く形で「子ども」という原理を機能させているように思える」としています。
 これらの作家の作品が、現代ないし戦後の日本児童文学史においてあまり語られない理由としては、児童文学のプロパーでない傍流の書き手であったからとしています。
 このあたりは、日本児童文学協会を中心とした児童文学界のセクト主義を示していて、他にも、庄野英二(「星の牧場」など)、庄野潤三(「明夫と良二」など)、柏原兵三(「長い道」など)などの優れた児童文学作品も、現代児童文学史上においては、ほとんど黙殺されています。

岩波講座 日本文学史〈第14巻〉20世紀の文学3
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岩波書店
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松本清張「火の記憶」

2017-08-12 09:25:21 | 参考文献
 幼少の時、今は亡き母と謎の男と一緒に見た、山のあちこちに燃える火の記憶。
 その記憶をもとに、妻の兄が、主人公の不幸な過去(4歳の時に失踪した父は指名手配の犯人。謎の男は実家に張り込んでいた刑事。亡き母とその刑事はいつの間にか関係を持つようになり、母に同情した刑事が父を見逃した。そのために左遷されて警察を追われた刑事と母は時々会っていた(その時に二人と一緒に見たのが、炭鉱のボタ山で自然発火した火だったのです)など)を推理します。
 強引な推理と恣意的なストーリーが目立つ、清張としては失敗作でしょう。
 しかし、幼少の記憶が話の根幹になっていることに興味を持ちました。
 幼少の記憶をもとに創作するというのは、多くの児童文学作家に共通している点だと思います。
 もっとも有名なのは、神沢利子の「いないいないばあや」(その記事を参照してください)でしょうが、「幼少」を「子ども時代」に拡大すれば、ほとんどの児童文学作家に当てはまると思います。
 児童文学研究者の今は亡き鳥越信先生は、「ケストナーのような子どもの頃の記憶(ずばり「わたしが子どもだったころ」というタイトルの作品もあります)がないので、児童文学作家になることをあきらめた」とおっしゃっていました(本当は、仲間の児童文学作家の山中恒の文才に圧倒されたからのようです)が、かつてはそれも正しかったと思われます。
 しかし、子どもを取り巻く環境がものすごい速度で変化している現代では、自分の子どものころの記憶で創作してそれが出版されるような作品はほとんどないでしょう。
 
新潮現代文学〈35〉松本清張 (1978年)点と線・渡された場面・火の記憶・張込み・一年半待て・証言・天城越え・凶器
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新潮社
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柏原兵三「定期訪問者」柏原兵三作品集1所収

2017-08-10 16:49:37 | 参考文献
 作者自身(若干脚色してありますが)と思われる主人公の家を、隔週日曜日の夕方に訪れる親戚の五十代半ばの男性について書かれています(その男性は、間の週は別の親戚を訪ねています)。
 幸福そうな家庭を築いている主人公と対比することにより、初老の独身(今風の言い方をすればバツイチですが)男性の孤独な暮らしを際立たせることに成功しています。
 この作品の発表された1970年当時では、このような境遇の中年男性は中流層では珍しかったようで、本人は全く生活力のない人間なのですが、まわりで寄ってたかって結婚や就職などの面倒を見ようとします。
 けっきょく、結婚も仕事もうまくいかないのですが、養老院(現代で言えば老人ホームのような施設です)に居場所を見つけられます。
 現代ではそれでも十分にラッキーだと思われるのに、主人公は男性の面倒を見きれなかったことに罪悪感を感じています。
 非婚率や離婚率が高くなった現代では、このような状況の男性(女性も)は少しも珍しくなく、私自身の体験でもクラス会などに参加すると三人に一人ぐらいはいます(独身の方がそういった場に出席しやすいという理由もあると思われますが)。
 今の若い世代では、その比率はさらに高くなることでしょう。
 そのため、まわりの人たちも昔のようには面倒を見てくれませんが、彼ら(今風に言えばおひとり様)のための環境は整備されているかもしれません、
 柏原の作品は、フィクション化はされていますが、かなりの部分が実体験に基づいていると思われます。
 そのため、この作品もそうですが、自分の血のつながった人たちをここまであからさまに書いて問題ないのかと心配になります。
 少なくとも、私自身はそういったことをする自信がないので、私小説は書けません。

柏原兵三作品集〈第1巻〉 (1973年)
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潮出版社
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三木卓「イトウくん」

2017-08-10 16:46:46 | 作品論
 小学二年生のイトウ・ヨシオくんを主人公にした連作短編集です。
 ひとつひとつの短編はあまりはっきりした形を持っていないので、全体の印象を述べます。
 児童文学研究者の宮川健郎は「声をもとめて」(その記事を参照してください)という論文の中で、この作品を落語のような語り口と評していますが、確かに2010年のこの作品が発行されていた時にはこの老詩人は75歳になっていましたが、「K」の記事に書いように、若々しい文章と語りは魅力的です。
 ただ、孫の世代よりも年下の現在の子どもたちの姿をとらえるのは、さすがに苦しくなっているようです。
 コンビニや野球選手などに同時代性を出そうとしていますが、肝心の子ども像、家庭観が古めかしく感じられます。
 特に、三木の年齢を考えると無理はないのですが、男らしさとか女らしさ、あるいは男女の役割の固定化などジェンダー観の古さは否めません。
 無理に現代の子どもを主人公にするのではなく、三木が子どもだったころのことを書いたり(「K」の時のようなすばらしい記憶力を発揮してほしいものです)、老人になった三木の目で眺めた現代を書く方が魅力的な作品になるのではないでしょうか。

イトウくん (福音館創作童話シリーズ)
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福音館書店
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グードルン・パウゼヴァング「九月の晴れた日に」そこに僕らは居合わせた所収

2017-08-10 16:44:43 | 作品論
 かつて共産主義者だった年取った音楽の先生が、ゲシュタポ(秘密国家警察)に逮捕されて拷問を受け、体だけでなく精神も破壊されてしまった話です。
 それまで、音楽の素晴らしさを教えてくれた先生が、戻ってからは事なかれ主義の無気力な教師になってしまいます。
 教え子の女生徒の記憶として書かれていますが、残念ながら思い出話にとどまっていて、今の若い世代に手渡すための工夫はほとんどなされていません。
 先生の戦後の様子も不明なので、やや尻切れトンボに終わっています。

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶
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みすず書房
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間中ケイ子「猫町五十四番地」

2017-08-10 16:42:29 | 作品論
 2008年の日本児童文学者協会賞を受賞した少年詩集です。
 ここでいう少年は、老年、壮年、青年、幼年と同様にたんに年齢区分をあらわすもので、特に男の子を対象にしたものではありません。
 66編からなるこの詩集は、以下のように三部構成になっています。
1.猫小路
2.十五夜
3.一番星
「猫小路」は、すべて飼い猫を観察したところから生まれた作品のようです。
「十五夜」は、元旦から大晦日まで、歳時記風に並べてあります。
「一番星」は、その他の詩ですが、これらもすべて季節とかかわりがあります。
 全体としては、副題にあるように「詩の歳時記」としてまとめられたもののようです。
 この中で一番すぐれているのはやはり「猫小路」で、短詩と俳句を組み合わせたアイデアが素晴らしいと思いました。
 その他の部分も含めて優れた詩集だとは思いますが、疑問もあります。
 これが「少年詩集」なのだろうかという疑念を、どうしても拭い去ることができませんでした。
 この詩の背後から浮かびあがってくるのは、今現在の間中の視線であって、子どもの視点はまったくありません。
 また、年少の読者に対する配慮も決定的に欠けているように思えました。
 どうも、あとがきを書いている皿海達哉などの同人(学芸大出身者を中心とした児童文学同人誌「牛」)をはじめとした「大人の読者」に向けて書かれたようにしか思えません。
 そういった詩集が、「児童文学者協会賞」を受賞するのは、この賞が仲間内(協会員の大人の児童文学者たち)に向けたものであり、そこでは子どもの存在はすっかり忘れ去られているようです。

猫町五十四番地―間中ケイ子詩集 (子ども詩のポケット)
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てらいんく
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小池真理子「沈黙のひと」

2017-08-09 11:45:28 | 参考文献
 2013年の吉川英治文学賞を受賞した作品です。
 恋愛小説の名手が老人問題に新境地を開いたと評されていたので、新しい家族のあり方を期待して読んでみました。
 確かに現代の大きな問題である老人の介護や性愛についてかなりきわどい分まで含めて書かれていて、その意味では流行作家らしく旬のテーマをうまくとらえています。
 どこまでが、作者の実体験でどこからが創作なのかはわかりませんが、手紙やワープロに残された覚書などをたどって、幼いころに別れた父の秘密を探っていく離婚体験のある中年女性の心理や孤独感の描き方は非常にうまくさすがなものがあります。
 自分自身の老人介護の経験からいえば、主人公が前妻の娘でパーキンソン病を患って老人ホームに入っている父親を時々訪ねていくという立場から、介護の当事者である後妻やその娘たちに対してをかなり批判的に書かれているのは、アンフェアな印象を受けました。
 老人たちが、日常的に介護されている人間よりも、たまに会って優しく接する人間を好ましく思うのはよくある話なので、作者はある程度表現には配慮はしているものの、実際に老人介護の責任を負っている人たちが読んだら不愉快に思えるだろうなあと思える部分もかなりありました。
 また、主人公の母親も認知症を患って老人ホームにいるのですが、こちらに対しては主人公が介護の責任の当事者であるのに(いやむしろそのせいなのかもしれませんが)、父親に比べて至極冷淡なのも気になりました。
 物語からは離れてしまいますが、この作品からは徹底的に子どもたちの姿が(主人公の子ども時代の回想シーンはありますが)排除されているのが、すぐれて今日的で興味を引きました。
 主人公の父親には、二人の妻との間に三人の娘がいるのですが、孫は一人しかいません(あるいは登場しない孫がいるのかもしれませんが、四十九日の法要のシーンもあるので何も説明がないのは不自然です)。
 しかし、両親の世代、子の世代、孫の世代となるにつれて子どもの数が減っていくのは、現代の日本では一般的なことでしょう。
 私の家族は作品の家族よりもやや年長なのですが、私の両親から見て、子どもは三人、孫は六人(子ども一人につき二人ずつ)ですが、ひ孫は二人しかいません。
 作品の家族ほど極端ではありませんが、だんだんに子どもの数は減っています。
 現代では、それほど老人たちと子どもたちは隔離されているのです。
 幸いに、私の家族は三世代同居でしたので、子どもたちは生まれた時から老人たちと接することができました。
 父が亡くなった時子どもたちは小学生でしたが、そのことは、父にとっても、子どもたちにとっても貴重な時だったと思います。
 世代間が隔離される現象は、アメリカの白人社会では30年以上前に起こっていました(現在のアメリカは、ヒスパニック系の人たちが出生率を下支えしていて2を超えています)。
 アメリカの白人社会では、1950年代に空前の反映を迎え、それ以降の世代は親の世代よりも豊かになれないことを経験する初めての世代になったのです。
 コラムニストのボブ・グリーン(彼は1947年生まれのいわゆるベビーブーマーです)が1982年から1983年にかけて書いた「ボブ・グリーンの父親日記」で描いたように、彼らも1970年代から1980年代にかけて、子どもの急激な減少を体験しています。
 その意味では、1970年代から1980年代にかけて繁栄を迎えた日本では、バブル崩壊以降に成人になった世代が、初めて親の世代より豊かになれない世代なのでしょう。
 彼らが、現在のように少ない子どもたちしか産めないのは、彼ら自身の責任ではありません。
 明らかに、それ以前の世代の人間の責任なのです。
 日本より先にこの問題に直面した欧米諸国では、国全体で取り組んで出生率を改善した国もたくさんあります。
 日本でも、若い世代に手厚く安心して子どもが産める体制(若年層の雇用の促進、夫も妻も仕事と家事の両方ができる仕組み、教育費の負担の大幅軽減、シングルマザー(ファザー)の徹底した保護など)を直ちに作らなければ、このままどんどん衰退していくことでしょう。
 
沈黙のひと
クリエーター情報なし
文藝春秋
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児童文学における老人と子ども

2017-08-08 10:11:28 | 考察
 児童文学において、老人を描くことは重要なモチーフのひとつです。
 人生の先達として子どもたちにいろいろなことを教える存在であるともに、子どもたちの普段の生活からは比較的遠い「死」というものを知らしめる役割も担ってきました。
 しかし、少子高齢化によって、老人と子どもの関係は大きく変わってきました。
 核家族化によって、身近に親しい老人がいない子どもたちが、今では大半でしょう。
 そうした時に、老人の存在を子どもたちに知らせる児童文学の役割はますます大きくなっていると思います。
 しかし、児童文学の中で書かれる老人と子どもの関係もまた、少子高齢化の影響で変化しています。
 まずあげられるのは、老人だけが登場する作品が書かれるようになったことです。
 地域社会において、子どもや若者たちがいない集落も増えています。
 そんな老人だけを描いた作品を、私は老年児童文学と呼んでいますが、それらについては他の記事で繰り返し述べていますので、ここでは省略します。
 次に、長寿化により、従来の老人と子どもの関係に世代的な隔たりが生まれています。
 かつては、児童文学に登場する老人と言えば、主人公の祖父母の世代でした。
 しかし、現代では、老人らしい老人と言えば、八十代、九十代になり、子どもたちから考えると、曽祖父母の世代に当たることが多くなっています。
 そうした時、両者の関係性は、一般的に祖父母と孫の関係より薄くなり、物語を作るうえではより工夫が必要になっています。
 前述しました子どもに死を知らしめる役割を持たせる場合には、老衰などの天寿によるものよりは病気や事故などの不慮のものを描くことの方が自然になるかもしれません。
 また、死そのものよりも、認知症などのより今日的な問題(人間の尊厳など)を描くことも重要になってきています。
 その一方で、六十代、七十代を中心とした若々しい老人たちと子どもたちとの関わりを描く作品も、新しい祖父母と孫たちの関係を考えると、もっと必要になってくると思われます。


絵本・児童文学における老人像―伝えたいもの伝わるもの
クリエーター情報なし
グランまま社

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児童文学におけるSFについて

2017-08-08 09:07:42 | 考察
 児童文学において、かつてはSFは大きな比重を占めていました。
 私自身も、子どものころには、星新一、眉村卓、筒井康隆などが書いた子ども向けあるいはジュブナイルのSFをたくさん読む機会がありました。
 しかし、最近ではそういった作品はめっきり減って、ファンタジー系の作品ばかりが市場にあふれています。
 その大きな理由としては、SFを好んで読んでいた男の子の読者が減って、児童文学が女の子向けの作品(一般的に女の子の読者はSFよりファンタジーを好む傾向があります)を主として扱うようになったからでしょう。
 そうした男の子の読者は、主にはゲームの世界へ行ったと思われますが、一部はライトノベルの中のSFの世界へ向かったと思われます。
 そういったメディアを超えた研究はほとんどなされていない(かつて児童文学研究者の目黒強が少し手がけたことがありました)ので、詳細は不明です。
 子ども向けSF、一般のSF、ライトノベルのSF、ゲームのSF、アニメのSF、映画のSFなどを総合的に研究すれば、SF好きの子どもたち(特に男の子)の物語消費の動向や変遷が分かって興味深いと思いますが、多くが消費財なのですでに姿を消しているでしょうから、実際に研究するとなるとかなり大変な作業になると思われます。
 

昭和少年SF大図鑑 新装版: 昭和20~40年代 僕らの未来予想図 (らんぷの本)
クリエーター情報なし
河出書房新社


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児童文学における試練や困難の意味

2017-08-06 17:34:26 | 考察
 児童文学(特に現代児童文学(定義については他の記事を参照してください))の特徴の一つに、成長物語(物語の最初と最後を比較すると、主人公たちが成長(あるいは変化)している)というものがあります。
 これは現代児童文学の特徴の一つである「変革の意志」(詳しくは、児童文学研究者の宮川健郎の論文についての記事を参照してください)を子どもたち自身に適用したものだと言われています(本来の「変革の意志」の意味は、社会主義的リアリズム作品などにおいて社会の変革を目指したものです)。
 もちろん、そうではない作品(「遍歴物語」と呼ばれています。詳しくは、児童文学研究者の石井直人の論文についての記事を参照してください)もありますが、1950年代以降から1990年代ぐらいまでの長い間、児童文学の主流は成長物語でした。
 そういった作品では、主人公はいろいろな試練や困難に直面します。
 わかりやすい例でいえば、小学校低学年の主人公に、責任ある仕事や係りが任され、それを達成する過程において様々な試練や困難が登場するようなお話です(一番シンプルな成功例は、筒井頼子の「はじめてのおつかい」(その記事を参照してください)でしょう)。
 いろいろな試練や困難に立ち向かう緊張感や、それを克服した時の誇らしい気持ちなどを通して、主人公の成長が描かれます。
 一般的には、そういった試練や困難は、読者が成長していくときに実際に出会う様々な障害のメタファーとして描かれています。
 そして、それらを克服していく主人公の行為を読書で追体験することによって、読者自身も成長すると考えられています。
 こうした読書の持つ機能性は、エンターテインメント全盛の現在ではかなり失われているかもしれません。

はじめてのおつかい(こどものとも傑作集)
クリエーター情報なし
福音館書店


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