現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

宮沢賢治「注文の多い料理店」注文の多い料理店所収

2021-04-08 14:28:36 | 作品論

 この作品集の表題作です。
 賢治の数多くの短編の中でも、もっとも有名なものの一つでしょう(「銀河鉄道の夜」のような長編は除いてですが)。
 料理店で注文をつけるのが、客ではなくお店側だという逆転の発想は、その後多くの模倣者や追随者を生みました。
 ここでも、賢治は子ども読者の大好きな繰り返しの手法を使って、物語を盛り上げています。
 この短編は、なんでもお金で解決を図り、田舎の暮らしにもずかずかと踏み入ってくる都会の人たちへの田舎の子どもたちの反発を描いていることで有名(賢治自身もこの作品集の宣伝チラシで明言しています)ですが、ラストではどんでんがえしを用意して、彼らにも救いの手を差し伸べています。

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岡村民夫「宮沢賢治と映画 アダプテーションではなく……」

2021-04-07 14:11:45 | 参考情報

 宮沢賢治学会イーハトーブセンター冬季セミナーin東京「宮沢賢治と映画」で行われた講演です。
 宮沢賢治の作品が、日本映画にどのように影響を与えているかについてまとめています。
 アダプテーション(作品の映画化)やそれへの言及は多いが、それらはあまり生産的ではないのではないだろうかと、講演者は疑義を示しています。
 むしろ賢治作品をどのように受け止めて、自分の作品に生かしているかの方が重要だし、それへの言及は少ないとのことです。
 まず、海外の賢治と同時代の映画で、賢治の作品と共通するものとして、1932年の「吸血鬼」や「上海特急」をあげて、それらは互いに影響を与えたのではなく、同時代の空気や先行するほかの作品からそれぞれが同じような影響を受けたのではないかと推定しています。
 次に、賢治の作品の影響を受けた映画として、1952年の「リンゴ園の少女」、1968年の「太陽の王子ホルスの冒険」、2001年の「千と千尋の神隠し」などをあげ、その他にも、賢治の作品の一節を引用したり、賢治の作品を朗読する作品を紹介してくれました。
 この講演でも、それらのシーンを実際に上映したので、非常に説得力がありました。
 これらの賢治の作品に影響を受けた映画には、死んだ者の遺品にこだわったり懐かしむといったことが、共通のモチーフとして現れることが多いとのことでした。
 賢治に限らず有名な文学を映画化することには、表現手段の違いによる困難性が存在していて、むしろこれらのように一部だけを活用する方がうまくいくのではないだろうかと指摘していました。
 それにしても、多彩な作品の細部まで網羅してチェックしている講演者の探求姿勢には、脱帽させられました。
 宮沢賢治学会の場合、対象が賢治に限られているので、このようなマニアックな発表が多く、私のような賢治ファンにはたまりません。



イーハトーブ温泉学
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アリー/スター誕生

2021-04-06 16:51:51 | 映画

 レディー・ガガ主演の音楽映画です。
 1937年の映画「スタア誕生」(ジャネット・ゲイナーがアカデミー主演女優賞を受賞しています)のリメイク(ハリウッド映画から音楽界に舞台を変えて、女優ではなく歌手のスター誕生です)と言われていますが、上映後のクレジットには、1954年の「スタア誕生」(これも1937年版のリメイクでジュディ―・ガーランド主演のミュージカル映画)をもとにしていると書かれていました。
 場末の小さな舞台付きのバー(日本ならばニューハーフの人たちによるショーパブのような所)で歌っていた主人公が、ひょんなことからカントリーロックの大スターと知り合ってスターへの階段を駆け上り、グラミー賞の新人賞を得るまでを描いています。
 元の映画と同様に、新しいスターになっていく主人公の影で、難聴とアルコールやドラッグの依存症に悩む大スターは自殺するという悲劇的なストーリーで、特に大きなひねりはありません。
 ただし、主役のレディー・ガガの期待以上の演技と、いつもの派手なメイクをとった素顔(特に彼女自身がコンプレックスに思っている大きな鼻を強調して、主人公が実力があったにもかかわらず売れなかった理由に使っています)をさらけ出し、体当たりの演技(柔らかな表現にしていますがラブシーンやヌードシーンも結構あります)をしているのには感心しました。
 また、彼女と大スター役で監督も務めたブラッドリー・クーパーの歌声はさすがのものがあり、レディー・ガガのア・カペラを聴くだけでもファンならば一見の価値のある映画です。
 例によって、この映画でも黒人やLGBTの人たちにいい人役がをふってあり、ハリウッドでのダイバーシティの徹底を感じますが、純エンターテインメント系映画ほどは露骨ではなく、一定のストーリーのリアリティは保たれています。



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Universal Music =music=
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どら平太

2021-04-05 17:07:55 | 映画

 役所広司主演の娯楽時代劇です。
 新任の奉行が、藩の治外法権になっているような歓楽地で放蕩して、役所に一日も出仕しません。
 実はこの奉行は、殿様の上意を受けて、治外法権をめぐる藩の重役たちの不正を暴きに来たのです。
 まあ、遠山の金さん以来のよくある設定なのですが、にぎやかな殺陣シーンあり、男の友情あり、主人公が頭の上がらない女性との恋愛ありで、楽しませるシーンが満載です。
 ただ主人公がスーパーマンすぎて(百人ぐらいのやくざに囲まれても、平然とみねうちで全員倒してしまいます)、少しもハラハラしないのが難点でしょう。
 敵役のやくざの元締めの菅原文太がさすがの貫録の演技なのですが、それゆえに配下が倒されただけで、主人公にあっさり降参してしまうのには拍子抜けしてしまいました。

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ジャッジ

2021-04-05 16:51:11 | 作品

 一回の表、相手チームの攻撃中だった。ツーアウトながら、二塁にランナーが出ていた。ワンアウトから四球で出してしまったランナーを、手がたく送りバントで二塁に進められてしまったのだ。
「ボール」
 次の投球が高めにはずれて、ツーストライクスリーボール。打席に四番バッターをむかえて、ピッチャーの正平はすっかり慎重になっていた。緊張したときのくせで、上くちびるをペロペロなめている。
「タイム!」
 芳樹は審判に声をかけると、キャッチャーマスクをはずしながらマウンドにむかった
「正平、打たせろ、打たせろ。まだ一回だから、ヒットを打たれたってかまわないから」
 芳樹は、ミットで口をおおってまわりには聞こえないようにしてから、正平に声をかけた。
 バッターは、背番号10番、少年野球ではキャプテンがつける番号だ。しかも、メンバー表によるとポジションはピッチャー。つまり、エースで四番でキャプテンってやつだ。どうやら一回戦の対戦相手は、この選手のワンマンチームらしい。最初から敬遠したりして、調子づかせたくない。
「わかった。じゃあ、例のやつでいこうか」
 正平も、グローブで口をおおって、芳樹にささやいた。
「そうだな。ためしてみるか」
 芳樹はそう答えると、小走りにホームにもどった。
(よし、来い)
芳樹はミットの下に右手をやって、すぐに次のボールのサインをおくった。
正平は深々とうなずくと、セットポジションを取って、セカンドランナーに視線を送った。
と、一転して、すばやい動作で次の球を投げ込んできた。
(速球か?)
ところが、動作とは裏腹に、投球はやまなりの超スローボール。打ち気まんまんだったバッターは、つんのめるように体を乗り出しながらボールを見送っている。スローボールは、高めからストンとどまんなかに決まった。
(やったあ、見逃しの三振)
 思わずミットをたたいてベンチに戻ろうとしたとき、
「ボール、フォア」
 意外にも、主審はバッターに一塁を指し示している。
あっけに取られていると、審判はマウンドの正平に近寄っていった。
「スローボールは変化球と判定して、全部ボールにするからね」
 少年野球では、ピッチャーのひじや肩を保護するために、変化球は禁止されている。審判は、スローボールは変化球とまぎらわしいから、ボールと判定するというのだ。
「タイム!」
 味方のベンチから、監督が抗議に飛び出してきた。

「正平、キャッチボール」
 そう声をかけてから、芳樹は正平に軽くボールを投げた。監督が抗議をしている間に、ピッチャーである正平の肩を冷やさないためだ。第一試合だったので、まだ九時を過ぎたばかり。もう十一月なので、太陽は出てはいるものの、河川敷のグラウンドはかなり寒かった。
監督は、主審や立会いの人たちとまだ話し合っている。
「ちぇっ、スローボールが禁止なんて、聞いてないよ」
 正平は、ボールを投げながらぼやいていた。
 今日、芳樹たち少年野球チーム、ヤングリーブスは、A市まで遠征して今シーズン最後の大会に参加していた。8チームだけの小さなローカル大会。一日で決勝戦までが行われるワンデイトーナメントだ。自分たちの町の大会と違って、審判や立会人たちも知らない人ばかりだった。
「ただのスローボールじゃないか」
「早く始めろ」
 ヤングリーブスの応援席から、やじが飛び始めた。
「静かに、静かに」
 石田コーチがベンチから出て、応援の人たちをなだめている。あまりやじったりすると、審判の心証を悪くしてかえってこちらに不利になってしまう。
 ふと見ると、他のチームメンバーは、手持ちぶさたな様子でそれぞれの守備位置に立っている。
「おーい、ベンチ。外野や内野にもボールを送ってくれえ」
 キャプテンの芳樹は、味方のベンチにむかってどなった。
「いくぞお」
補欠の選手たちが、いくつか練習ボールを出してみんなに投げている。内外野もキャッチボールさせて、ウォーミングアップさせておきたかった。
内野は四人だからちょうどいい。ファーストとセカンド。ショートとサード。それぞれが組になってキャッチボールを始めた。
外野は三人なので、補欠の選手が一人ファールグラウンドに走っていった。ライトとセンター。レフトと補欠の選手。この組み合わせで、遠投をはじめた。
 でも、ちょうどそのとき、監督が抗議をやめてしまった。案外あっさりとあきらめたようだった。小走りにベンチへ戻っていく。
「ボール、バック」
芳樹はまた大声で叫んで、みんなにボールをベンチへ戻させた。ベンチのみんなは次々と戻ってくるボールをキャッチするのにおおわらわだった。

芳樹と正平は、また急いで守備位置につこうとした。
と、その時、
「バッテリー、ちょっとおいで」
 監督にベンチから呼ばれた。
芳樹が正平と一緒に、監督のところに小走りにかけよっていくと、
「A市じゃ、カーブとまぎらわしいてんで、今年からスローボールは禁止にしてるんだと」
 監督が苦笑いしながらいった。
「そんなあ」
 正平が悲鳴をあげた。ピッチャーとしては小柄な正平は、スローボールをまぜた緩急をつけた投球が持ち味だ。特に、今日のような身体が大きい選手のそろった強打のチーム相手には、超スローボールは有効だった。
「まあ、A市の大会だからな、しゃあないよ。ホームタウンアドバンテージってやつだな」
 監督は、二人をなだめるようにいった。
「なんですか、ホームタウンアドバンテージって?」
 芳樹がたずねると、
「地元のチームに有利に、ってことだ」
 監督は、声をひそめていった。
「そんなの、フェアプレーじゃないよ」
 芳樹がふくれっつらをすると、
「まあな。でも、世の中なんか、そんなものだよ」
 監督は、笑いながらいった。
「ちぇっ」
 やっぱり、そんなの不公平で納得がいかない。 

「それより、この審判はどこが好きだ?」
 監督は急にまじめな顔をすると、手で口をおおいながらささやいた。
「低めです」
 正平も、グローブでしっかり口をかくしながら答えた。相手チームや審判の人たちに、聞こえないようにするためだ。
「それに外角寄り」
 芳樹も、キャッチャーマスクをかぶりなおしてから付け加えた。かなり低めの外角の球でもストライクに取ってくれるので、けっこう助かっている。逆に高めや内角球には辛いようだ。
「なーんだ、芳樹。それがわかってるなら、なんとかしろよ、キャプテン」
 監督はポンと芳樹の肩をたたいて、さっさとベンチの中に戻ってしまった。
(そうだ)
 監督のいうとおりだった。どんな審判でも、必ずジャッジのくせがある。それは、人間が判定するゲームである野球にはつきもののことだ。そのくせを早いうちにつかんで、自分たちに有利に生かすことが大事なのだ。それに、芳樹はキャッチャーだ。一球ごとに、相手チームだけでなく、審判ともかけひきをやっていかなければいけないポジションだった。審判の判定にいちいち動揺しているより、ピッチャーの正平をうまくリードしなければならない。

 一回の表は、なんとか無得点におさえた。スローボールが使えないから、正平にはコーナーぎりぎりをつかせて相手の攻撃をかわした。
その裏、芳樹がバッターボックスに入っていたときだ。カウントはツースリー。
次のボールは内角高めにはずれた。
(しめた、フォアボールだ)
 芳樹は自信をもって、ボールを見送った
「ストライーック、バッターアウト」
 審判が叫んだ。
(えっ?)
 完全なボール球をストライクに判定されて、三振になってしまった。審判は、正平の時はこのコースはボールに判定していた。芳樹は不満げに首を振りながら、ベンチに戻っていった。
「よっちゃん、ドンマイ、ドンマイ」
 ベンチの中から、型どおりにはげましの声がかかった。
 でも、本当はみんなも不服なのだ。きわどいボールをストライクにされていたのは、芳樹だけじゃなかった。他の子のときも、同じような判定が続いている。どうも相手のピッチャーには、判定が甘いような気がしてならない。せっかくいいカウントになりかけても、不利な判定で流れを断ち切られてしまっていた。

二回の表の相手の攻撃のときだった。
バシーン。
正平の投球が、アウトコース低めいっぱいに決まった。
(よし、ストライクだ)
と、思った瞬間、
「ボール、フォア」
 審判は、一塁を指し示している。また四球でランナーを出してしまった。相手ピッチャーとは対照的に、正平には審判の判定が辛いような気がしてならない。
スローボールを禁じられてしまった正平は、苦心の投球を続けている。なんとかコースをついて、相手をかわそうとしていたのだ。
 ところが、きわどいコースをボールと判定されて、カウントを悪くされてしまっていた。そして、フォアボールをさけようとすると、コントロールが甘くなってしまう。もともと直球のスピードはそれほど速くないので、コースをつかないとうちごろの球になって、相手バッターに狙い撃ちにされている。
(監督、なんとかしてくださいよ)
 不利な判定をされるたびに、芳樹はベンチの方も見た。
 でも、監督は、ぜんぜん抗議をしようとしなかった。知らんぷりしたままだった。

 その後も、ゲームは相手チームのペースで進んでいった。
三回の表にも、ピンチをむかえていた。四球とヒットが続いて、ノーアウト満塁。
芳樹は、横目で相手ベンチをうかがっていた。相手の監督が、いつもと違うサインを送っている。
(スクイズだ)
 芳樹は直感した。今までランナーを出しながらも、強攻策が裏目に出て無得点に終わっている。ここらで手がたく攻めて先取点が欲しいのだろう。
 次のバッターの初球、芳樹は外角に大きくはずすようにサインを送った。
正平がうなずく。セットポジションから、正平が投球モーションに入った。
バッターが体をクルリとまわして、バントのかまえになった。予想通りスクイズだ。
 投球は、サインどおりに大きく外側にはずれている。
 ガツン。
相手の選手は、バッターボックスから前に飛び出して、かろうじてバットにあてた。
 ファール。スクイズは失敗だが、塁を飛び出した三塁ランナーを、はさむことはできなくなってしまった。
「バッターボックスから足が出ていました。守備妨害です」
 芳樹は、振り返って主審に抗議した。
「いや、足が出たのはバットに当たってからだ」
(うそーっ。また、こちらに不利な判定だ) 
 けっきょくこの回に点を取られて、二点をリードされてしまった。

 その裏の攻撃の前、監督はベンチ前にみんなを集めて円陣を組ませた。
「いいか、みんな。いったん判定が自分たちに不利なように感じると、どんどんそのように思えてくるもんさ。そういうのを疑心暗鬼っていうんだ」
 監督はそういいながら、ニヤニヤ笑っていた。
「疑心暗鬼って?」
 正平がたずねると、
「疑ってかかると、暗いところすべてに鬼がいるように思えてくるってことさ」
「ふーん」
 なんだか、まだわかったような、わからないような気分だった。
「不利だ、不利だと思っていると、自分たちのプレーをくずしてしまうぞ。敵地でやるときはこんなもんだと思って、いつもどおりにプレーすればいいんだ。そのうちに流れも変わってくるさ」
 監督は、みんなの顔を見まわしながらそういった。
「じゃあ、キャプテン」
「はい」
 芳樹は、みんなと肩を組んで叫んだ。
「逆転するぞっ!」
「おーっ!」

 監督のハッパは、どうやらみんなにきいたようだ。
その回、ヤングリーブスにもやっとチャンスがめぐってきた。ノーアウトで、エラーと四球のランナーが出たのだ。
 監督は、手がたく送りバントでランナーを進めた。ワンアウト、二塁三塁だ。
次のバッターは雄太だ。三球目のときに、監督が大きな声で叫んだ。
「石井、思い切って打ってこい」
 バッターを名前でなく名字で呼ぶのは、ヤングリーブスのスクイズのサインだ。
 投球と同時に、三塁ランナーの孝治がすばやくスタートを切った。
高めのボール球だった。雄太は飛びつくようなバントで、うまく三塁前にころがした。
三塁手が、猛然とダッシュしてくる。
でも、ボールをキャッチした時には、三塁ランナーの孝治はホームの手前まできていた。
「ファースト!」
 ホームは間に合わないと見たキャッチャーが、大声で指示した。三塁手は体を反転させて、一塁へ送球した。
「アウトッ」
 一塁の審判が叫んだ。雄太は一塁でアウトになったものの、その間に三塁ランナーの孝治がホームイン。
 スクイズ成功だ。ようやく一点を返した。
と、そのときだ。
二塁ランナーの亮輔までが、三塁をまわって一気にホームへ向かっていた。ヤングリーブス得意のツーランスクイズ(スクイズバントで、二人のランナーがホームインすること)だ。亮輔は小柄な五年生だが、チームでも一、二の俊足だった。
「バックホーム!」
 キャッチャーがさけんだ。一塁手がけんめいにバックホーム。
亮輔が、ホームにかけこんでくる。送球は、やや右側にそれた。
亮輔がスライディング。ホームをブロックしていたキャッチャーは、すべりこんできた亮輔にタッチした。
 でも、キャッチャーのブロックが甘くて、亮輔の足が一瞬早くベースにふれたように見えた。
(やったあ!)
 これで、一気に同点だ。
「アウト!」
 そのとき、審判が右手を高々と差し上げて宣告した。タッチアウトだというのだ。ランナーの亮輔は、横になったまま呆然としている。
(えっ、そんなあ)
芳樹もあっけにとられた。亮輔の左足は、キャッチャーの股間をうまくすりぬけていた。つま先がホームに触れていて、完全にセーフに見える。
「えー、嘘だあ」
 観客席からも、誰かがどなっている。
「セーフだよ。足が入ってる」
「セーフ、セーフ」
 また、ヤングリーブスの応援席あたりが騒々しくなった。審判がそちらをジロリとにらんだ。一瞬、険悪な空気があたりに流れる。石田コーチがまたあわててベンチから飛び出して、みんなをなだめにいく。
「セーフだよねえ」
 隣にすわっていた伊佐男が、芳樹にささやいた。
「そうだな」
 芳樹もうなずいた。
(せっかく同点になったと思ったのに)
これで逆に、ダブルプレーでチェンジになってしまった。得点は1対2で、いぜんとして一点負けている。
「ちぇっ、ずるいなあ」
 誰かが小声で文句をいっている。みんなも、不満な気持ちでいっぱいのようだ。
 亮輔がヘルメットをぬぎながら、ベンチに戻ってきた。スライディングをしたので、おしりは泥で汚れている。
「ベースタッチしたんだろ」
と、芳樹がきくと、
「うん、完全に足が届いてた」 
 亮輔も不満そうな顔で答えた。もし、足が届いていたのならば、やっぱりセーフだ。
 チェンジになってしまったので、みんなが四回の表の守備位置に散っていく。
「昌也、ボールを受けておいて」
芳樹は補欠の昌也に、ホームベースで正平の投球練習を受けるように頼んだ。
「リョウ、ちょっと待って」
 グローブを取りにいこうとする亮輔を呼び止めた。
「監督のところへいこう」
 芳樹は、監督のところへ亮輔を連れていった。
「監督、亮輔は完全にセーフだっていってますけど」
 芳樹が不服そうな顔をしていうと、
「まあそうだろうな。足が届いていたんだろ」
と、監督は平気な顔をして、どっかりとベンチにすわっている。
「はい、絶対セーフです」
 亮輔も力をこめて答えた。
「まあ、しゃあないよ」
 監督は、今回も抗議さえしないようだ。
「ちぇっ」
 亮輔は、ふくれっつらのままグローブを取りにいった。
「これも、ホームタウンアドバンテージってやつですか?」
 芳樹がそっとたずねると、
「いや、これはたんなるミスジャッジだな。ジャッジした審判が立つ位置が悪いんだよ。だから、足が入ったのが見えてない」
「そんなあ!」
 芳樹が憤慨すると、
「まあまあ、キャプテンのおまえまでカッカしてどうするんだよ。審判も人間だよ。ミスもゲームのうちさ。そのうちこっちにもいいことがあるって。ほら、早く守備につけ」
 監督は、そういってすましていた。

(本当に、こっちにも有利な判定なんて起こるのだろうか?)
 芳樹は、プロテクターとレガースをつけながら考えていた。どうも、こっちに不利なことばかりが続くので、そのようには思えない。芳樹は不満な気持ちのまま、小走りにホームベースに近づいた
「サンキュー」
 芳樹のかわりに投球練習を受けていてくれた昌也に、声をかけた。
「あと、二球です」
 昌也は交代しながら、投球数を教えてくれた。
 次の球をキャッチすると、
「ラスト」
芳樹は正平にボールを返しながら、守備についているみんなに叫んだ。
「おお」
 みんなの返事に力がこもっていない。こちらに不利なジャッジばかりが続くので、元気をなくしたのかもしれない。
「セカン」
 芳樹は正平の最後の球を受けると、セカンドに送球した。
 しかし、ベースに入ったセカンドもカバーをしたショートもボールをはじいてしまい、ボールは外野までころがってしまった。
(いかんな)
 完全に集中力が切れてしまっている。
芳樹は、ホームベースの前に出ると、
「ヤンリー、がっちいこーぜ」
と、みんなに気合を入れた。

 四回の表、この回も正平は審判の厳しい判定に苦しんでいた。きわどいコースをボールに判定されて、先頭バッターを四球で出してしまった。
 ここで相手チームは、送りバントでランナーを二塁に送った。まだ一点差なので、一点ずつ確実にいこうというのだろう。
 正平は二塁ランナーが気になったのか、突然コントロールを見だしてしまった。今度は明らかなボールばかりで、ストレートのフォアボールになってしまった。
「タイム」
 芳樹は審判にいうと、マウンドに走っていった。
「正平、落ち着け。まだ一点負けてるだけなんだから、一人ひとりアウトにしていこうぜ」
「OK」
 正平はそう答えたものの、かなり緊張しているようだった。
 芳樹は、正平の背中をポンとたたいてから、ホームベースへ戻った。
 次のバッターへの初球だった。
(やばい)
 ど真ん中に打ちごろのボールが入ってくる。
 カーン。
 鋭いライナーが、ショートの頭を越えた。外野も抜かれたら、ランニングホームランだ。
 しかし、センターの耕太が、なんとかまわりこんでボールを押さえた。
 スタートを切っていた二塁ランナーは楽々ホームイン。一塁ランナーも三塁へ。送球の間に、バッターも二塁に達してしまった。
 さらに、次のバッターも初球だった。
 カーン。
 痛烈な当たりが、三遊間をまっぷたつにした。
 三塁ランナーに続いて、二塁ランナーもホームイン。二点タイムリーヒットを浴びてしまった。
一転して積極打法にでた相手チーム打線に、正平は完全につかまってしまった。
この回三点を失って、1対5と四点差になった。

 その裏、すぐにヤングリーブスも反撃に出た。四球で出たランナーをバントで送って、ワンアウト二塁のチャンスをむかえた。ここで打席にたったのは、三番バッターの芳樹だった。
第一球。高めの速球を見送った。
「ストライク!」
球威は十分だった。まだピッチャーは疲れていないみたいだ。実際、このピッチャーはたいしたものだ。球威もコントロールもすごくいい。今まで対戦したピッチャーの中でも、屈指の好投手といえる。
二球目は内角にはずれた。芳樹は腰を引いてそのボールをかわした。もう少しでぶつかるところだった。あたったらすごく痛そうだ。
次は外角低めの速球だ。芳樹はそれも見送った。
「ストライク! ワンボール、ツーストライク」
たちまち追い込まれてしまった。このピッチャーは、スピードを抜いたボールはぜんぜん使わない。速球だけでビシビシ攻めてくる。
(次は内角球だな)
 芳樹はピンときた。さっき芳樹がへっぴり腰でボールをよけたから、ぎりぎりの内角に速球を投げ込んでくるだろう。芳樹は、バットをひとにぎり短く持ち直して内角球に備えた。
 ピッチャーが第四球を投げ込んできた。予想通りに内角の速球だ。芳樹は、両腕をたたみこみながらコンパクトなスイングで打った。
 カーン。
打球はショートの頭を超えてセンター前にはずんだ。
好スタートをきっていた二塁ランナーは、三塁ベースをけってホームへ。バックホームされたがゆうゆうホームイン。一点返してこれで2対5と三点差だ。
送球の間に芳樹も二塁に達したので、チャンスは続いている。
 しかし、相手のピッチャーはすごい。このピンチにもぜんぜん動揺していない。
次のバッターを、ビシビシと速球で追い込んでいく。
ツーストライクワンボール。このままでは、完全に相手ピッチャーのペースだ。
芳樹は、なんとか相手ピッチャーの動揺を誘いたかった。ピッチャーは二塁ランナーの芳樹を、あまり警戒していない。バッターに集中している。
次の投球で、芳樹はスタートを切った。
打者のバットがクルリとまわった。三振でツーアウトだ。
キャッチャーが送球しなかったので、芳樹はゆうゆうと三盗に成功していた。
でも、キャッチャーの悪送球を誘ってホームインしようというもくろみは、外されてしまった。点差があるので、ランナーの芳樹は完全に無視されている
「リーリーリー」
 芳樹は三塁ベースから、ピッチャーをけん制した。もう牽制悪投でも、ワイルドピッチでも、パスボールでも、なんでもいいからホームをおとしいれる覚悟だ。
しかし、ピッチャーは、芳樹のことをぜんぜん気にしていない。どんどん速球を投げ込んで、後続のバッターを、簡単にピッチャーゴロに打ち取ってしまった。
スリーアウトでチェンジ。三点差でリードされたままだ。

 五回の表も、正平はツーアウトながら満塁のピンチをまた迎えていた。
どうも、前の回から、正平のコントロールが悪くなっている。四球を連発して、ランナーをためてしまっていた。これには、審判の不利な判定も影響している。
しかも、またあの四番バッターのエースをむかえていた。ヘルメットからはみだした長髪をなびかせて、自信満々バッターボックスでかまえている。
(しまった!)
 正平の投げ込んだ初球が、甘いコースに入ってきた。  
 カーーン。
鋭い打球だった。
でも、ラッキーなことに、ショートの亮輔の正面のゴロだ。
(あっ!)
 前進してボールをキャッチしようとした亮輔と、走り出したセカンドランナーが交錯してぶつかりそうになってしまったのだ。
打球は、思わず立ちすくんだ亮輔のグローブの下をすり抜けた。外野手がバックアップしようと、ボールのほうへまわりこんだ。
 でも、打球のスピードがすごく速かったので、二人の外野手の間も抜けていってしまった。
センターとレフトが、けんめいにボールを追っている。ボールは、すごい勢いでころがっていく。この球場が人工芝のせいだ。天然芝のようなひっかかりがないので、ボールのスピードがぜんぜん落ちない。
そのまま、反対側のグラウンドまでいってしまった。向こうのグラウンドでは、別の試合が行われている。
「タイム!」
ボールがころがってきたので、審判がそちらのゲームを中断させている。
ようやくセンターが追いついた。
けんめいに、中継にはいったレフトにボールを投げている。さらに、そのボールが、ようやく内野に戻ってきた。
でも、とっくにバッターまで含めて全員がホームインしていた。満塁ランニングホームラン。だめおしとなる四点が入ってしまった。
「イエーイ!」
 相手ベンチ前では、全員でハイタッチしたりして、お祭り騒ぎだ。打ったのがエースで4番でキャプテンの中心選手なので、特に盛り上がっているようだ。
それにひきかえマウンドでは、正平ががっくりとうなだれていた。
これで、得点は2対9。逆転するには致命的な点差がついてしまった。チーム全体にあきらめムードがただよってきていた。

(おや?)
 ふと気がつくと、いつのまにか二塁の審判が、主審や他の塁審たちをセカンドのそばに呼び集めていた。二塁の審判は、身振り手振りで何かをみんなに説明している。主審や他の塁審たちが、大きくうなずいているのが見えた。
 しばらくして、ようやく何かが決まったようだ。塁審がそれぞれのベースへ散っていく。
主審は、大またにピッチャーマウンドのそばまで戻ってきた。そして、一塁側の相手チームのベンチの方をむいた。
「守備妨害でアウト」
 いきなり右手を高々とあげて、主審が叫んだ。どうやら、セカンドランナーが亮輔の守備の邪魔をしたというのらしい。ツーアウトだったから、これでチェンジということになる。つまり、満塁ホームランは幻に終わったのだ。こちらは四点取られたと思ったのに、一点も失わずに一気にピンチを脱したというわけだ。
これが、監督のいっていた(こっちにもいいことがある)って、やつかもしれない。
「冗談じゃない!」
 大声で怒鳴りながら、今度は相手チームの監督が飛び出してきた。
相手チームの監督は、マウンドの近くで主審に詰め寄っている。
 主審は、さかんにランナーがショートの守備を邪魔したことを説明している。
 でも、どうも簡単にはすみそうもない気配だ。いったんベースに戻っていた塁審たちも、また集まってくる。そして、みんなでショートの守備位置までいって、二塁の審判がまたジェスチャーつきで説明を始めた。
「芳樹」
 監督に声をかけられた。こっちにむかって手まねきしている。そういえば、ヤングリーブスの選手たちは守備位置についたままだ。
「おーい、チェンジだぞーっ」
 芳樹は、大声でみんなを呼び集めた。
 メンバーが、全速力でベンチへかけてくる。みんな、ピンチを切り抜けられて、ホッとした顔つきをしていた。さっきまでしょげていた亮輔やがっくりしていた正平も、うってかわってニコニコ顔だった。
 相手チームの監督は、しつように抗議を続けている。
でも、判定はひるがえりそうになかった。審判たちは、四人がかりでなんとか監督を説得しようとしているようだ。立会人たちも、セカンドベースのまわりにきて、話し合いに加わっている。
 相手チームの監督は、なかなかひきさがらない。
「守備妨害じゃないでしょ。ランナーは、まっすぐ走っただけなんだから」
と、大声で抗議しているのがきこえてくる。
たしかに、見方によっては、亮輔の方が走者のコースを邪魔したようにも見える。となると、そのまま捕球していたら、逆に亮輔の方が走塁妨害になっていたかもしれない。
「いや、もう捕球動作に入っていたんだから、ランナーはよけなければならないでしょ」
 二塁の塁審も、大声で怒鳴り返している。
「そんなことはない。ショートの方こそ、ランナーが走ってきたのが見えたんだから、待ってから捕球すればよかったんだ」
 相手チームの監督が言い返す。二人とも、かなり興奮しているようだ。
「まあまあまあ、……」
 まわりの人たちが、二人をなだめている。
 走塁妨害か?
 守備妨害か?
 どちらにしてもむずかしいジャッジだ。
二塁の審判は、亮輔の守備位置やランナーの走ったコースを示して、状況を説明しているみたいだ。ランナーが、亮輔の方にふくらんでいって邪魔をしたといっているようだ。
でも、相手チームの監督も大げさな身振りで反論している。ランナーが走ったのは、塁間を結ぶ直線上だと、主張しているみたいだ。さかんに手である幅を示している。
「3フィートルールだったっけ?」
 となりから、伊佐男がたずねてきた。走者は、塁間を結ぶ直線から、3フィート以上はみだしてはいけないというルールだ。
「どうだったかなあ?」
 芳樹も、ルールがどうなっているのか、よく知らない。サッカーなんかに比べて、野球のルールは複雑なので分かりにくい。
「ルールブックを持ってきて」
 とうとう主審が、大声でいっているのが聞こえた。もしかすると、同じようなことを議論しているのかもしれない。立会人の一人が、本部のテントの方へルールブックを取りに走っていった。
「長引きそうだぞ。肩をあたためておこう」
 正平に声をかけると、芳樹はミットをはめてレフト側のファールゾーンに走っていった。正平もウィンドブレーカーを着たまま、後についてくる。
時刻は、もう十時をすぎている。
でも、薄くかかった秋の雲を通して、太陽は弱々しく照らしているだけだ。ウィンドブレーカーをはおっていても、寒さがしのびよってくる。
「じゃあ、初めは軽く投げて」
 芳樹は、立ったまま山なりのボールを正平に送った。
「OK」
 正平も、ゆったりしたホームで投げ返した。また、二人でのキャッチボールが始まった。
(今日の試合は、中断が多いなあ)
 正平とキャッチボールをしながら思った。
 野球の試合には、目に見えない流れがある。その流れがスムーズだと、試合もテンポよく進む。特別な中断もなく、最終回の七回まで順調に進む。
ところが、今日のように初めから流れがとまるようなことがおこると、不思議にトラブル続きになってしまうのだ。
 返球しながらチラッと見たら、相手ベンチの前に例のエースがふてくされたように立っていた。他のメンバーも、ベンチにこしかけたままだ。
(しめた!)
もし、このまま抗議が受けいれられずにこちらの攻撃になったら、あのエースは肩を冷やしたままマウンドにむかうことになる。もしかすると、ピッチングのリズムを、くずしてくれるかもしれない。今まで打ちあぐんでいたけれど、これでピッチャー攻略のきっかけがつかめそうだ。
なにしろ、このピッチャーはすごい。中学生並みの長身から投げ下ろす速球は、なかなか打ち込めない。コントロールもいいから大崩れはしないタイプだ。ヤングリーブス得意のバントをからめた攻撃で、なんとか一点ずつ合計二点をとったものの、大量点はとてものぞめそうもない。残りのイニング数を考えると、三点差を追いつくのはかなりむずかしかった。
 そうはいっても、ピッチャーさえ乱れてくれたら、つけこむすきはなくもなかった。好投手をようするワンマンチームにありがちだが、このチームの守備はそれほどでもない。現に、すでにエラーを二つもしている。キャッチャーの肩もさほど強くない。ランナーさえ出せれば、バントや盗塁、それにヒットエンドランなどでかきまわせるかもしれない。それに、ピッチャーだけでなく、彼らもウォーミングアップしていないから、ますます動きは悪くなるだろう。
芳樹は、視線を味方のベンチにうつした。
(うーん、もう)
こちらもすっかりのんびりして、ベンチにすわっていたる。まったくわかっていない連中だ。これでは、ゆだんしている相手チームのことを、ぜんぜん笑えやしないじゃないか。
「ちょっと、待って」
 芳樹は正平に声をかけると、
「おーい、みんな、バットを振っておけ」
と、大声でみんなに指示を出した。
「おおっ」
 他のレギュラーメンバーたちは、すぐに立ち上がるとバットを取りにいった。
「いち」
 ブンッ。
「にー」
 ブンッ。
かけ声をかけながら、ベンチ前にならんで素振りをはじめた。
ふと気がつくと、監督が満足そうな笑顔をこちらにむけていた。

 とうとう判定は守備妨害のままで、試合が再開されることになったようだ。審判たちは、それぞれの位置に小走りに戻っていく。十分以上もの長い中断だった。それでも、ベンチに帰っていく相手チームの監督は、まだ不満そうな顔をしていた。
 相手チームが、守備位置に散っていく。長髪のエースピッチャーも、しぶしぶって感じでマウンドに立った。どうやらまだ、幻の満塁ホームランのことが頭にこびりついているようだ。
 ガチャーン。
ウォーミングアップの初球はとんでもない高い球で、バックネットの金網にダイレクトにぶつかった。だんだんに肩を慣らさないで、いきなり思いきりボールを投げている。いらいらがつたわってくるようだ。
「雄太、ちょっと」
 この回の先頭バッターに声をかけた。バッターボックスの近くで、ピッチャーの練習ボールにタイミングをあわせて素振りをしていた。
「なんだい?」
 雄太は、素振りをやめてベンチの前に戻ってきた。
「どうだい、相手のピッチャーは?」
 芳樹がささやくと、
「なんだか、ボールが高めに浮いているようだけど」
と、雄太はピッチャーの方を振り返りながら答えた。
「そうだろ、だったらわかってるな」 
 芳樹がそういうと、雄太はニヤリとしながらうなずいた。
「バッターアップ」
 審判が雄太に声をかけて、試合が再開された。

「ボール、フォア」
 審判が一塁を指し示した。雄太は、バットをネクストバッターサークルの正平にむかって放ると、一塁へダッシュしていった。予想通りに肩を冷やしてしまったのか、相手のピッチャーは、いきなりストレートのフォアボールを出してくれた。
「ボー!」
 次の正平への初球も、外角へ大きくはずれた。これで五球連続して、とんでもないボール球が続いている。
「ドンマイ、ドンマイ」
 キャチャーが立ち上がって返球したが、特にタイムをとろうとはしなかった。ピッチャーマウンドでは、エースピッチャーが帽子をあみだにかぶって、ふてくされたように突っ立っている。長い前髪が、ダラリとたれさがっていた。ホームランを取り消されて、すっかりやる気を失ってしまったのかもしれない。
「ストライーック」
 次のボールは久しぶりにストライクだったが、どまんなかの甘いボールだった。正平は打ちたそうな顔をしていたけれど、それを見送った。監督から、「待て」のサインが出ていたからだろう。
 チラッと横目で見たら、次のサインも「待て」だった。
 けっきょく、正平も四球を選んで出塁した。
 その後も、相手ピッチャーは、あきらかにボールとわかる投球が多かった。次の亮輔も簡単にフォアボールになって、無死満塁のチャンスを迎えた。
それでも、相手チームの監督は、タイムを取ったり適切な指示を出したりしない。自分の抗議が聞き入れられなくて、腹をたててしまったようだ。そっぽを向いて、ベンチに腰をおろしたままだ。
守っている選手たちも、誰もタイムを取って間をとろうとするものはいなかった。エースで四番、さらにキャプテンでもある長髪のピッチャーに、すっかり頼りきっているみたいなのだ。予想通りの完全なワンマンチームだった。
 次のバッターは、伊佐男。監督からは、あいかわらず「待て」のサインが出ている。
「ストライーク」
 初球はどまんなかの直球。
でも、この回は、このボールが続かない。
(どうせ、次は、……)
と、思うまもなく、セットポジションからクイックモーションで投げ込んできた。
「ストライーク、ツー」
 たちまち、ノーボールツーストライクに追い込まれてしまった。もう「待て」のサインは出せない。
(まずいなあ)
どうやら、ようやく肩があたたまってきて、コントロールがさだまってきたみたいなのだ。
ピッチャーは、間をおかずにドンドン投げ込んでくる。投球リズムもよみがえってきたみたいだ。
 第三球もストライクの速球だった。
 ガチーン。
苦しまぎれに出した伊佐男のバットが、ボールにあたって鈍い音をたてた。三塁手正面の平凡なゴロだ。三塁手ががっちり取ると、バックホーム。タイミングは完全にアウトだった。
(あっ!)
 三塁手の送球はとんでもない高いボールだ。キャッチャーのはるか上を通過したボールは、そのまま相手チームの応援席に飛び込んだ。
 テイクワンベース(各走者がひとつ塁を進める)なので、雄太に続いて、セカンドランナーの正平も歩いてホームイン。これで二点入って4対5。一点差に詰め寄った。しかも、まだ、ノーアウト二塁、三塁のチャンスをむかえている。
「くそーっ」
 相手ピッチャーが、くやしそうにグローブを地面にたたきつけた。
次のバッターは、芳樹だった。またとない逆転のチャンス。ここをのがすわけにはいかない。
「芳樹、ファイト」
「よっちゃん、がんばれ」
 応援席やベンチからも声援が飛ぶ。
 第一球。外角低めの直球だった。芳樹はそれを見送った。
「ストライク!」
 主審が叫ぶ。やはりコントロールは立ち直ってしまったようだ。
でも、スピードはさっきよりはっきりと落ちている。
ピッチャーを見ると、どうもまだやる気がおきていないみたいだ。
(チャンスだ)
芳樹は、短く握っていたバットを少し長く持ち直した。長打ねらいだ。ここで一気に勝負をつけたかった。
第二球。力のない直球がど真ん中に入ってきた。芳樹はフルスイングした。
カーーン。
鋭い打球が左中間をまっぷたつにした。
 三塁と二塁のランナーがゆうゆうとホームイン。ついに6対5と逆転した。
芳樹は、一塁と、二塁をけった。ようやく外野手がボールに追いついた。芳樹はスライディングもしないでゆうゆうと三塁打。ベースの上で、ベンチに向かってガッツポーズをしてみせた。

 その後も、 ヤングリーブスは相手が動揺している間に着々と得点を重ねた。この回、一気に六点もとって8対5と大逆転に成功したのだ。
 こうなると、ゲームは一方的にヤングリーブスのものだ。六回の表、逆転で気を良くした正平は、すっかり立ち直っていた。テンポのいいピッチングで相手にすきを見せず、無失点におさえた。
 六回の裏、すっかり元気の出たヤングリーブス打線は、相手ピッチャーに連打をあびせた。さらに四点を奪い、12対5と七点差をつけたのだ。さすがに相手チームは、途中からリリーフピッチャーを送っていたが、この投手はエースピッチャーよりも球威もコントロールも格段に悪かった。
 いよいよ最終回の七回の表、正平のピッチングはさえわたった。ツーアウトランナーなし。最後のバッターも、ワンボールツーストライクと追い込んでいる。
 芳樹は、正平に外角低めを要求した。一気に勝負をつけるつもりだった。
 正平が振りかぶる。大きなモーションで投げ込んでくる。
 いいボールだ。要求どおりに外角低めに速球が投げこまれた。クルリと打者のバットが空を切る。
「ストライーク、バッターアウト。ゲームセット」
 主審が叫ぶ。
(やったあ!)
 芳樹はミットをたたきながら、正平にかけよった。他のメンバーも集まってくる。見事な逆転勝ちだった。

「それでは、12対5でヤングリーブスの勝ち。じゃあ、キャプテン、握手して」
 審判にうながされて、芳樹は一歩前に出て相手のキャプテンに手を伸ばした。
「ありがとうございましたあ」
 芳樹は大声を出して握手をしたが、相手は小さな声でボソボソといっただけだ。握手にも、ぜんぜん力が入っていなかった。よく見ると、少し涙ぐんでいるようだった。
「ゲーム!」
 審判が、右手をあげて合図をした。
「ありがとうございましたあ」
 ヤングリーブスは元気よくあいさつしたが、相手チームは対照的にまったく元気がない。逆転負けが、よっぽどショックだったのだろう。
「わーっ!」
 試合後のあいさつをすませて、ヤングリーブスは歓声をあげながらベンチ前にかけよってきた。芳樹は、応援席にむかってみんなを一列に並ばせた
「礼!」
「ありがとうございました」
 みんなが、帽子をぬいでおじぎをする。
「よくやったぞ」
「ナイスゲーム」
 応援席から、拍手とともに声援が飛んだ。
「ベンチ、あけるぞ」
 芳樹は、みんなに指示してベンチの後片付けを始めた。レギュラー選手はヘルメットをかぶり、自分のグローブとバットを持っていく。その後を、補欠の選手たちが、バット立てや水の入ったジャー、練習用のボールやキャッチャーの防具類の入ったバッグを持って続いた。
 リュックなどを置いてあるブルーシートのところまで戻ると、先にいっていた手伝いのおかあさんたちが、コンビニの袋を持って待ち受けていた。
「応援団から差し入れよお」
 チームのマネージャーをやっている、芳樹のおかあさんがさけんだ。
「うわーっ」
 みんなは荷物を置くと、そちらに殺到した。
「いつものとおり学年順よ」
 低学年の子から順番に、袋菓子をうけとっている。弁当を食べるにはまだ早かったから、取り合えずおやつって感じだ。これが夏場だったら、アイスクリームやカキ氷を差し入れてもらうことが多い。
「正平、軽くクールダウンしておこう」
 芳樹は、お菓子の列に並んでいた正平を引っ張り出すと、軽いキャッチボールをはじめた。初戦に勝ったヤングリーブスは、午後に準決勝を戦わなければならない。正平が第一試合に完投したので、おそらく準決勝の先発ピッチャーは芳樹だろう。もしそれも勝てば、決勝戦もやらねばならない。そうすれば、その試合は二人で継投することになるだろう。まだ、二人とも氷で肩を冷やすアイシングをするわけにはいかなかった。
みんながお菓子を食べていると、さっきの相手チームの監督がやってきた
「どうも、今日はありがとうございました」
 帽子をぬぎながら、うちの監督に声をかけた。
「いえ、こちらこそどうも」
 監督が答えると、
「どうもジャッジのことでゴタゴタして、六年生たちが悔しがって泣いてるんですわ」
 たしかに、さっき試合後のあいさつをしたときに、何人かの相手選手が泣いていた。
「まあ、ジャッジのことはお互い様ですから」
 監督は笑顔で答えている。
まったくそのとおりだ。ジャッジについてなら、こちらにも文句がある。芳樹は、キャッチボールをしながら聞き耳を立てていた。
「それに私もカッカしすぎて、選手たちに実力を発揮させられなくって」
 相手チームの監督は、少し恥ずかしそうにそう付け加えた。
どうやら、相手の監督はすっきりとした決着をつけるために、あらためてヤングリーブスと練習試合をさせてほしいということらしい。 
「いいですよ。でも、今度は、スローボールはOKにしてくださいね」
 監督は、ニヤッとわらいながらそう答えた。

    

 

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ひとりぼっちの動物園

2021-04-03 16:18:12 | 作品

 今日は、秋の遠足。空は真っ青に晴れ上がっていて、遠足にはぴったりだった。ぼくたち一年生は、バスに乗って動物園にやってきていた。
「一緒に食べようぜ」
 お弁当の時に、ぼくはキーちゃんに声をかけた。
「うーん、ごめんね。昨日、タッくんと食べるって、約束しちゃったんだ」
 キーちゃんはそういうと、タクマたちと一緒に、「ゴールドビーダマン班」の方へ行ってしまった。
その時、タクマの奴が、こっちを見てニヤッと笑った。
(くそっ!)
ぼくは、すっごくむかついた。
(チェッ、タクマなんか、ぼくたちの「ボンバー探検班」じゃないんだぜ。先生だって、なるべく同じ班の人たちと食べなさいって、いってたじゃんか)
 せっかくキーちゃんの大好きな、うちのおかあさん特製のフライドチキンを、よけいに入れてもらってきたのに。
 ぼくは、他の「ボンバー探検班」の子たちと一緒に、お弁当を食べた。
 お弁当を食べ終わってから、キーちゃんはタクマたちと、黄色いはっぱをたくさんつけたイチョウの木の下で、何かを拾っていた。
「おーい、ヨッちゃん」
 キーちゃんが、手を振っている。
 でも、ぼくはそれを無視してやった。

 ググーン。
 大きな耳が、すごくアップになった。
「うわーっ、すげえ!」
 思わず声を出してしまった。
 アフリカゾウのタマオが、バタンバタンと、耳を大きく動かしている。
 今度は、顔のまん前にある、テレビカメラに切り換えた。タマオは、長い鼻で干し草をつかんだ。クルクルと 鼻を丸めて、上手に干し草を口に運んで食べている。 
 ぼくは、「ゾウのお城」にある、リモコンカメラ装置を使っていた。
テレビの画面を操作して、いろいろな方向から、ゾウをながめることができる。
テレビカメラは、前後、上下、左右と、自由に動かせるんだ。さらに、ズームアップで大きく写すことだって できてしまう。
「ヨッちゃん、代わってったら」
 さっきから、キーちゃんがうしろからつついている。
「もう ちょっと」
 ぼくは、なかなか リモコンカメラの操作を、代わってやらなかった。
 タマオが、水場の方へ歩き出した。ゆっくりゆっくりと、遠ざかっていく。
ぼくは、テレビカメラで、その後を追っかけた。
鼻をブラブラさせながら、タマオはゆっくりと向こうへ進んでいく。
ぼくは、うしろからズームアップしてみた。
大きな大きなおしりに、小さな小さなシッポがユラリユラリと揺れていた。
(あっ!)
 タマオが、ウンコをし始めた。茶色い大きなかたまり、ボタリボタリと落ちていく。なんだか臭いにおいが、プーンとここまでただよってきそうだ。
「ははは、キーちゃん、見てみな。面白いぞ」
(あれっ?)
 返事がない。
テレビ画面から振り返ってみると、キーちゃんがいなくなっている。
いや、いなくなったのは、キーちゃんだけじゃない。「ボンバー探検班」のみんなが、どこかへ行ってしまっていた。
(もう、声ぐらいかけてくれたらいいのに)
 ぼくは、あわててリモコンカメラ装置から、手を放した。
 みんな、ゾウの見学は、おわりにしたのだろう。
ぼくは走って、「ゾウのおしろ」の外へ出て行った。
 でも、そこにもだれもいなかった。きっとぼくがグズグズしているあいだに、つぎの動物のところへ行ってしまったんだ。
「なんだよなあ、班で行動しなさいって、先生も言っていたのに」
 ぼくは、ブツブツと文句を言った。
(えーっと、次に見る動物はなんだったっけ?)
 ぼくは、なんとか思い出そうとした。
 みんなで話し合って決めたんだけれど、ふざけながら聞いていたから、よく覚えていない。
(どうせ、キーちゃんと一緒に行けばいい)
って、思っていたんだ。
(チンパンジーだっけ? それとも、チーターだったかな?)
 どうもはっきりしない。
 ぼくは思い出せないまま、あわてて「ゾウのお城」の前から駆け出した。

いない。
いない、いない、いない、いない、いない。
チンパンジーにも、チーターの所にも。
「ボンバー探検班」は、いや、他の班の人たちだって、だれもいなかった。
 ときどき、リュックを背負った小学生たちを見かけた。
でも、みんな他の学校の人たちだった。
 途方に暮れたぼくは、ライオンのおりの前のベンチに座り込んでしまった。 
 こげ茶色の 大きなたてがみをしたライオンは、前足で大きな骨を抱え込んでかじっている。
 目の前を、大勢の人たちが通り過ぎる。
でも、みんな知らない人ばかり。
 なんだか、この広い動物園に、ひとりぼっちで、取り残されてしまったような気がしてくる。 
(もう、何時になっているのだろう?)
 もしかすると、もう集合時間に、なってしまったかもしれない。真っ黒なもやもやしたものが、みるみる胸の中に広がってくる。
 でも、次の瞬間、気が付いた。
(あっ、なーんだ。だったら、今すぐ、集合場所に、行けばいいんじゃんか)
 ぼくはホッとして、口笛でも吹きたい、気分になった。

 ない。
ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない。
プリントが、リュックに入っていない。
リュックの中身をみんな外に出してみたけれど、やっぱりプリントはなかった。
(そうだ!)
 急に思い出した。
昨日、おかあさんが、ぼくが準備したリュックを、チェックしていた時、……。
「ヨッちゃん、またプリントをクシャクシャに突っ込んで」
 おかあさんがしわを伸ばそうと、プリントに分厚い図鑑を乗っけてたっけ。
「もう、余計なことするから。そのまんま忘れてきちゃったじゃないか」
 ぼくは、ブツブツと、今はそばにいないおかあさんに、文句を言った。
 これで、集合場所も、わからなくなってしまった。
確か、集合時間は、三時だったはずだ。
なんだか、もうとっくに過ぎてしまったような、気がする。
(もし、だれも、ぼくがいないのに気が付かないで、そのままバスが帰ってしまったら、……)
 ぼくは、あわててベンチを立ちあがると、また懸命に駆け出した。

さっきまでは、あんなにいい天気だったのに、いつのまにか、太陽は雲に隠れてしまっている。
 なんだか、風までが、急にヒンヤリとしてきたような気がした。
 ウオオオー、ウオオオー、……。
 どこかで、何かが吠えている。
ライオン? クマ? それとも、トラ?
 ギャッギャッギャッ、……。
 空でも、何かが鳴いている。
カラス? それとも、……?
 動物園には何度も、おとうさんやおかあさんやおじいちゃんやおばあちゃんやおにいちゃんと、一緒に来たことがある。
それなのに、いつもの動物園が、急に知らない場所に、なっちゃったみたいだ。
 キューーンとおなかのあたりが痛くなって、トイレに行きたくなってしまった。おしっこがしたくなったのだ。
 でも、そんなことなんかしていられない。ズボンの前をしっかりと押さえながら、ぼくは前かがみになって走り続けた。

 チンパンジーの国へやってきた。
 でも、誰もいない。
チンパンジーは、歯をむき出したり、唇を突き出したりして、こちらを脅そうとしている。
ハイエナの檻だ。
ここにも誰もいない。
ハイエナは、ググル、ググルと低く唸りながら、檻の中を歩き回っている。
鳥たちのエリアにやってきた。
やっぱり誰もいない
フクロウは、首を左右に振りながら、目玉をギョロギョロさせている。
バッファローの囲いだ。
誰も見ている人はいない。
バッファローは、こちらにお尻を向けて、後ろ足で砂埃を挙げている。
キリンやシマウマのいる、広い場所に出た。
ここには人がいたけれど、ぼくの学校の人たちではなかった。
 いつもはやさしそうで大好きなキリンさえも、口をモゴモゴさせながら、長い首を差し出して、なんだか ぼくのことを馬鹿にしているみたいだった。

とうとう、また「ゾウのお城」の前に、戻ってきてしまった。
 でも、誰も見つからない。
やっぱりみんなは、もうバスで帰ってしまったのだろうか?
もしも取り残されてしまったのなら、一人で家に帰らなければならない。
(えーっと、正門の前から電車に乗って、……)
 どこで乗り換えれば、うちの近くの駅まで行けるだろうか?
 どうも自信が持てない。ちかくの駅からは、さらにバスにのらなければならない。
それにおかねがたりるだろうか?
 ほんとうは、おかねをもってきてはいけないんだ。
 でも、ぼくは、こっそりお財布をもってきていた。
 こんなことがおこってみると、それもよかったのかもしれない。
ポケットから、お財布をだしてみた。
もちろん、お札は一枚もはいっていない。コインをだして、ぜんぶかぞえてみる。
 百円玉がひとつ。五十円玉もひとつ。十円玉は、一、二、……、六、七個。五円玉がひとつ。一円玉はみっつ。 ぜんぶで 二百二十八円。
 はたして、これで電車賃は足りるだろうか?
 くたびれきったぼくは、柵にもたれながらボンヤリしてしまった。
タマオが、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
シワシワの皮にうもれた、ひしがたのくろい小さな目が、いじわるそうにギラリとひかった。
 つめたい風がビューッとふいて、そばの大きなクスノキがザワザワとなっている。
 いつも楽しいって、おもっていた動物園。
 でも、いまはぜんぜん違う。
けんめいにがまんしていた涙が、ボロボロとこぼれてきた。

 と、その時だ。
「おーい。ヨッちゃん、どこ行ってたんだよ」
 いきなり、遠くから、キーちゃんのこえがきこえてきた。
 顔をあげると、むこうからキーちゃんが、いっしょけんめいにかけてくるのがみえた。
「ボンバー探検班」のみんなもいっしょだ。「ボンバー探検班」はぜんぶ男の子ばかり五人だ。
 ぼくはあわてて涙をふいて、ベンチからたちあがった。
「よかった。ずーっと探してたんだよ」
 キーちゃんが、ハアハアしながらいった。他の子たちも、みんないきをきらしている。ずっとはしっていたようだ。
 みんなはゾウの次のチーターのところで、ぼくがいないのにきがついて、すぐに「ゾウのお城」にもどったんだという。そのとき、行き違いになっちゃったらしい。
「大丈夫?」
 うれしくって、また涙がでてきたぼくのかおを、みんながのぞきこんでくる。
 ぼくは、
「ウンウン」
と、うなずくだけで、精一杯だった。

「まだ、時間があるから、いそげばきめたとおりにみられるよ」
 キーちゃんが、励ますようにいってくれた。
すごく時間がたったとおもっていたのに、「ゾウのお城」にかかっているとけいは、まだ二時をすこしすぎただけだ。
「えっ!まだ二時。もう三時になっちゃったかと思ってた」
 安心したせいか、またトイレにいきたくなった。
「トイレに行ってきていい?」
 ぼくが言うと、
「ぼくも行くよ」
 キーちゃんが、一緒についてきてくれた。
「ぼくも」
「ぼくも」
「おれも」
なんのことはない。みんながトイレを我慢してさがしてくれていたんだ。
「ボンバー探検班」全員で、トイレにならんでおしっこをした。
 手をあらったあとでハンカチをだしたら、ポケットから白いかみがパラリとおちた。
 遠足のプリントだ。
(なーんだ。やっぱり持ってたんだ)
 泣いちゃったりして、なんだか損したような気分だ。

「あっ、そうだ。ヨッちゃん、ハンカチ貸して」
 隣から、キーちゃんがいった。
「どうしたの?」
 ウルトラマンのハンカチを渡してあげると、キーちゃんは手をふいてから、
「ほうらね。これを包んじゃったんだよ」
 キーちゃんはそういって、じぶんのミッキーマウスのハンカチをさしだしてみせた。
 ひろげてみると、中にはたくさんの薄黄色の木の実がはいっている。
(うっ!)
ツーンと腐ったようなにおいがした。まるで、タマオのウンコのようだ。
「ギンナンって、いうんだって。お昼のときにひろったんだよ。そうだ。ヨッちゃんに半分あげようか?」
「うん」
 ほんとうは欲しくないんだけど、ぼくはしかたなくうなずいた。
キーちゃんは、ギンナンを洗面台の上にひろげた。
「1、2、えーっと、3、4、……、……」
 ひとつずつ、交互にふたりのハンカチにのせていく。
「……、……、19、20、うーん、21」
 キーちゃんは、最後のはんぱな一個を、すこしまよってから、ぼくのハンカチの上にのせてくれた。
「ありがと」
 キーちゃんと同じように、ハンカチでくるんだら、ウンコみたいな臭いにおいがするしるで、しみができてしまった。
 ぼくは、思わずオエッとしそうになった。
こんな臭いものをもってかえったら、また、おかあさんにしかられちゃうかもしれない。
ぼくは、うれしいのが半分と、こまったのが半分まじったような不思議な気分だった。
「これ、むいて食べると、おいしいんだってよ」
 キーちゃんが、少しじまんそうにいった。
(ええっ!?)
 こんなくさいものをたべるなんて、とても信じられない。

二人でトイレから出てきたら、太陽の光がパーッとさしてきた。急にまわりが明るくなって、「ゾウのお城」のてっぺんで、赤と黄色の旗が輝いている。
 また、タマオが、ゆっくりとそばによってきた。
さっきと違って、タマオがやさしそうにみえるからふしぎだ。シワシワの中の小さな目も、カマボコがたにわらっている。
「はやくいこうよお」
 むこうから、「ボンバー探検班」のみんなが手をふっている。
 ぼくたちが、ギンナンを分けているあいだ、まっていてくれたのだ。
「ヨーイ、ドン」
 いきなりキーちゃんが言った。
「待ってよお」
 先にはしりだしたキーちゃんを、ぼくはけんめいにおっかけた。
「一等賞!」
 さきについたキーちゃんがいった。
「じゃあ、行こうかあ」
みんなで 次のチーターのところに向かいながら、
(キーちゃんに「ゾウのお城」のリモコンカメラを早くかわってあげればよかったな)
って、ぼくは思っていた。

       

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